表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧の後に  作者: Eisei3


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/12

第7章 闇の中の光

 徹は、無心で馬に(またが)っていた。乗馬は息を弾ませながら、馬場の中を軽快な足取りで駆け抜ける。初夏の風が頬に触れ、気持ち良く後ろへと流れ去っていく。

 

 「どうどう、良い子だ」

 徹は手綱を引き絞ると、体重を後ろに預けながら乗馬に向かってそう声を掛けた。馬は足並みを揃えると、ゆっくりとした歩みになりパドックへの道を辿って行く。

 パドックでは数人が馬を繋ぎ、乗馬してきた馬達にブラッシングをしている。少し離れた場所では、馬にシャワーを掛けている者もいる。眩く照りつける日差しの中で、シャワーを浴びる馬はうっとりと気持ち良さそうな表情を浮かべ、ジッと水飛沫に身を任せている。


 そんな人達の中に、大森和美の姿もあった。彼女は長い髪を後ろ髪に結び、乗馬帽を被っている。体には華やかな色のピンクの服をまとい、脚には、膝下まである黒光りのする乗馬用ブーツを履いている。

 徹は、乗馬から下りると馬を馬止めに繋ぐ。そして皮の手袋を脱ぐと、愛馬の首筋を右手の手の平で軽く叩きながら撫でてやった。

 「お疲れさま。後でブラッシングしてあげるからね」

 そう馬に言葉を掛けると、彼は、和美のいる馬房の方へと歩いて行った。

 

 「今日は。調子はどう?」

 徹は和美の横から、そう彼女に声を掛けた。徹の姿に気付いた彼女は、馬のブラッシングの手を止め立ち上がり、手の甲で額の汗を拭いながら徹に笑い掛ける。

 「どうも、今日は。良い調子で乗れている様でしたね。馬の調子も良さそうだし、貴方もいい顔をして乗馬していましたしね。私も今日は、良い感じで乗れましたよ」

 「そうですか、有難うございます。馬に跨っている時が、正直、今は一番心が休まります。馬は、黙って私の言う事を聞いてくれますし、乗馬している時は心の中を空っぽにできますしね。…日頃の家庭内でのいざこざがどこかに消え去って、別の世界にいる様な心持ちになれますから」

 「それは、徹さんにとっては良い事ですね。時には全てを忘れて、気持の切り替えが必要です。でも、決して現実からの逃避という事ではありません。身体のためにも、英気を養う事が、今は貴方に一番大切な事ですよ」

 和美はそう、徹の顔を正面から見据え、真っ直ぐ彼の目を見詰めながら言った。

 徹には、彼女のその顔が、彼に別の何かを投げ掛けている様にも思えていた。


 徹が彼女に、始めて児童相談所を尋ねて家庭のいざこざについて相談をしてから、もう半年以上が経っていた。徹は彼女と会って色々な相談に乗ってもらっている内に、和美を相談事への助言者としてだけでなく、正直、異性としての、彼女の魅力の虜にもなりつつあった。

 そして、その一方で、和美もまた徹の人柄について、彼の相談に乗りながら直に接する事で、彼の心の奥底にある実直で誠実な心根に触れ、やはり徹に惹かれていた。特に、和美の場合、この歳になるまで結婚しなかったのは、単に、彼女の心を惹き付けるだけの異性が今まで現れなかったという事が、その遠因でもあった。だからその分、和美もまた孤独な人生の中に、その身を置いていたのかもしれない。

 それが、徹という存在が仕事の上で現れ、それまで乗馬という趣味の世界では顔は見知っていたのだが、やがてそれが公の場を離れ、私個人としても親密に会う様になってからは、逆に彼女の方が徹の事を、親密な異性として意識し必要とする立場になっていた。それは妻帯者としての徹に向けた感情であり、当然、世間一般には許されない禁断の行為であるのだが。

 だからこそ、和美はその感情を無理やり心の内に閉じ込め、徹の良き相談相手として振る舞って来たのだった。


 「和美さん。今夜も一緒に食事をしながら相談に乗って頂けませんか?」

 徹は和美の目を見詰めながら、そう問い掛けた。彼女の瞳の奥底の感情を見ようとする様に。

 「ええ、いいですとも。それでは何時もの様に、馬の世話が終わったら駐車場で」

 「そうですね。それでは私も、馬の手入れを済ましてきます。じゃあ、後で」

 徹は和美にそう言い背を向けると、パドックに繋いである馬の方へと歩いて行った。後には、徹のその姿を横目で見ながら、馬のブラッシングを続ける和美の姿があった。


 徹は駐車場に停めた車に背中をもたれ掛け、煙草を吸いながら和美がやって来るのを待っていた。煙草の煙が風に、横に長くたなびく。腕の時計は、午後五時を指そうとしている。初夏の日差しはまだ明るく、傾きながらもなお、射す様な光を彼に投げかけている。

 やがて、乗馬クラブの管理棟の方から、こちらへ駆けて来る和美の姿が見えた。彼女はブルーのワンピースを身に、髪の毛を後ろに長く垂らしている。その髪が風に長くなびき、日の光を背に黒く輝いて見えている。

 徹は煙草を指に挟んだ右手を、彼女に向けて高く上げて見せる。和美はそれに応え、やはり右手を上げて見せた。


 「お待たせしました。待ちました?。着替えに手間取ってしまって」

 和美は息を弾ませながら、徹にそう尋ねる。彼女の上気した顔が、彼女の可憐さをより一層引き立てている。

 一瞬、徹の胸の中を、熱くフワッとした感覚が過る。

 「 …… 」

 

 「…どうかしました?」

 彼女を見詰めたまま黙ってしまった徹に、和美は首を傾げて笑いながら問い掛ける。

 「え…。いいえ、何も。…それでは行きましょうか」

 徹は、彼女の問いに一瞬とまどいながらも、そう答えた。右手の指に挟んだ煙草は、もう燃え尽きて消えていた。

 

 ‥「今日は車をここに置いて、私の車で一緒に行きませんか?」

 改めて徹は、そう言い直す。

 「ええ…。よろしいのですか?。私は別に構いませんけれども…」

 和美はちょっと考えた顔を見せたが、直ぐにそう返事を返してきた。彼女の心の中にも、何かの感情が動いたのだろうか。

 「それでは、行きましょうか」

 徹はそう言うと車の運転席に乗り込んだ。和美もまた「お願いします」と言いながら、助手席に座るとドアを閉める。徹は和美に横顔で笑い掛けると、車を発進させた。


 

 「相変わらず、家の中の雰囲気は良くありません。妻との間にも、もう会話すら無い状態が続いています。隆の事も気掛かりですが、子供達が可哀想でなりません」

 食事を済ませた後、コーヒーカップに口を付けながら、徹は和美に向かって話す。

 「…そうですか。もう奥さんとの関係はそれほどに…。お子さん達の事を考えると、お二人の関係が上手く行ってくれれば一番いいのですが」

 和美は目を伏せながら、そう呟く様に言った。徹は煙草に火を点けると、吸うでもなく灰皿の上に置く。二人は黙ったまま、コーヒーカップを傾ける。灰皿から煙が燻り立ち、二人の間には微妙な空気が流れていく。まるで、どちらかが先に口を開くのを待ち受けるかの様に。

 店の中はお客で混み合い、周囲では若いカップル達が声高に話をしている。静かなざわめきが、彼ら二人を包み込む。

 

 「和美さん。私の事をどう思っているのでしょう?」

 突然徹が口を開くと、そう和美に問い掛けた。彼は視線を泳がせながら、灰皿の上で半分ほど燃え掛けた煙草を右手の指に挟むと、落ち着き無く口に(くわ)え煙を吸い込んだ。

 「 …… 」

 和美は突然のこの徹の言葉に、刹那(せつな)、返答する事ができなかった。ただ、目の前に置かれたコーヒーカップの中に、視線を落とし込むのがやっとであった。

 「どうでしょう?」

 無言のままの和美に、徹が再び、問いを重ねる。彼は燃え尽きた煙草を灰皿にもみ消すと、新しい煙草を取り出してまた火を点けた。

 「 …… 」

 和美は相変わらず視線を下に落としたまま、唇を軽く噛み締めると顔を上げた。そして一息、息を吸って、口を開いた。

 「徹さん。それは、私が貴方のことを愛しているかどうか、という意味に受け取ってもいいのでしょうか?」

 「はい…。そう思って頂いて結構です」

 徹は煙草を無闇に吹かしながら、落ち着き無くそう言うと頷いた。

 和美は思案げにうつむき、また黙り込む。彼女の心の中の孤独と、徹への今まで隠されていた思い。その思いを口に出すまいかどうかの心の葛藤。今、その間に彼女の心は揺れ動いている。

 それが今、徹の方から自分に対する告白とも受け取れる問い掛けがされている。しかも彼は妻帯者であり、まだ幼い三人の子供の父親でもある。

 『 不倫 』

 その言葉が和美の頭の中を過ぎる。もし、今この徹の言葉を受け入れるならば、それ相当の覚悟が必要でもあった。それに自分は耐えられるのであろうか。葛藤が大きな波のうねりとなって、胸の内でざわめき続けていた。

 

 徹はジッと黙ったまま、彼女の口が動くのを待っていた。もう何本の煙草に火を点け、灰皿にもみ消したのだろう。

 当然徹は、和美への告白に、相当の覚悟は持っていた。もちろん、今の自分の立場も充分過ぎるほど自覚はしていた。その覚悟ができた上で、彼女に自分の想いを言い切ったのである。そして無理に言ってしまえば、彼に、混沌としたこの現実世界の日常から逃避したいという気持が、無意識ながら心のどこかにあったのも事実なのだろうか。それを和美に求めたとも。

 だから、彼女の返事を待つ間、彼は苛立っていたというのでは無く、自分の周りの状況が耳にも目にも入って来なかったという方が正しかった。周囲を立ち動く人の影や話し声、そして食器の擦れ合う音が。それほど彼は、和美の挙動に神経を集中していた。そして、無性に喉の乾きを覚えていた。


 徹の最後の一言から、どれほどの時間が経ってからであろう。和美は口元をギュッと引き締め、真剣な眼差しで顔を徹の方に向けると、正面から彼の目を見詰めた。徹も、和美の眼差しを真っ直ぐに受け止めると、心を彼女の瞳に集中させる。

 「徹さん、貴方の気持ちは分かりました。お受けいたします。でも、私も生半可な気持ちからお答えするのではありません。そう返事をするからには、私にもそれ相応の覚悟が出来ています。もちろん、貴方が妻帯者であるという事も承知した上で。その事だけは覚えていて下さい」

 和美はそこまで言うと、コーヒーカップを手に取りコーヒーを口に含んだ。カップのコーヒーは冷めて、もう冷たくなってしまっていた。

 そして徹も、ガラスのコップに注がれていた水を、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。コップの周囲に付いていた水滴が、滴となって彼のズボンの上に落ちた。だが今の彼に、そんな些細(ささい)な事を気にしている余裕など無かった。今の彼の心は、和美が自分の思い通りの返事をくれたという喜びだけに包まれていた。

 これから先の、彼に背負わされた大きな責任と、現実の重みにもまだ気付かないままで。


 その夜、二人は街外れの小さなホテルに入った。

 徹はこの夜だけは、真綿で締め上げられる様な日常のしがらみから心を解き放たれ、和美もまた、徹に身を任せながら、これから始まるであろう醜い泥沼の様な日々への思いを、新たにしたのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ