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霧の後に  作者: Eisei3


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第6章 迷い

 徹は秋江との離婚に向けて、金銭面での検討を進めていた。共有財産や家などの不動産を含めた資産の財産分与法や、慰謝料の算出。自分の年収からの慰謝料額や、子供に対する養育費の支払の計画など、やる事はいくらでもあった。

 それほどに徹と秋江の二人の仲は、もう後戻り出来ないほどの亀裂が入り、凍り付いてしまっていた。

 家庭では相変わらず、秋江の隆に対する、母親とも言えないほどの横暴な振る舞いが続いていた。

 徹は、あの日、初めて児童相談所の大森和美に隆の事を相談して以来、彼女に隆の事だけではなく、秋江との間の離婚についても相談して助言を求めていた。彼女とは定期的に会って相談相手になってもらっていたのだが、何時しか児童相談所という公な場所だけではなく、乗馬クラブで練習した後、食事をしながら相談する事も自然と増えていた。

 

 「和美さん。妻の隆に対する横暴な言動はまだ続いているのですが、何か良い手だてはないものでしょうか?」

 徹は食後のコーヒーを口に含みながら大森に尋ねた。不安からか、ブラックコーヒーが舌に苦く感じる。

 「そうですね。そればかりは当事者でないと、どうする事もできないと思いますが。徹さんが気を付けて見守ってやる事が、現時点では最善な方法ではないでしょうか」

 「でも、私が昼間留守にしている時の事を考えると、不安になるのです。近所の家には、何かあったら私に連絡をくれる様にお願いはしてあるのですが…」

 徹は、テーブルに置いた煙草の箱から煙草を一本取り出し、ライターで火を点けた。そして吸い込んだ煙を、小さく溜息を吐きながら天井に向けて吐き出した。煙はゆらゆらと、天井の照明に向かって淡い陽炎となって消え入っていく。

 「今のままで、妻との離婚は出来るのでしょうか? 子供達の事もありますし、すごく不安になるのです。夜も、睡眠導入剤の世話にならなければ眠れないですし。慰謝料とか養育費や、子供の親権や何やらが頭の中で妄想の様にわき上がって来ては、私を怯えさせるのです。目に見えない、得体の知れない影にいつも付きまとわれている気分です」

 「こうして貴女に相談する事が、今の私の、唯一の心の救いとなっているんです」

 徹は大森の顔を正面に見据えると、そう、自分の今の嘘のない心情を語った。大森は徹の顔を見詰めていたが、一瞬彼の視線と目が合うと、直ぐに目線をテーブルの上のコーヒーカップに落とし込んだ。彼女の目元の長いまつげが天井の照明を受け、彼女の顔を一層魅力的に見せている。

 店の中は、とうに食事時の時間も過ぎ、閑散としている。休日の夜半という事もあって、恋人達の姿も見受けられる。

 徹と和美の二人も、傍目から見れば仲の良いカップルと映る事だろう。

 

 「それでは、また相談に乗って下さい。こんな遅い時間までありがとうございました」

 「いいえ。心をしっかり持って下さい。子供さん達がいるという事を忘れないで」

 「お休みなさい」

 徹と和美は、レストランの駐車場でそう言葉を交わし別れると、それぞれの車に乗り込み家路に向かった。

 二人が去った後の駐車場では、アスファルトをほのかに照らす照明の中に、人気のない暗闇が音もなく広がっている。空には星が瞬き、もう初夏の星座を形作っている。

 深夜の街並みもまた、ひっそりと眠りの底に沈んでいる。どこからか犬の遠吠えの声が、風に乗って漂い聞こえてきていた。風が二人の想いを乗せて吹き渡っていく。お互いの心の孤独をさらけ出させるかの様に。


 徹は家の駐車場に車を入れると、エンジンを止め、ライトを消した。夜闇の中に山を背に、家がシルエットとなって佇んでいる。家の灯りは全て消されひっそりとしている。家族は皆、もう寝静まっているのだろう。腕時計を見ると、既に十一時を回っている。

 「みんなもう寝てしまったのか…」

 そう思うと、一瞬、胸の中を一抹の寂しさが吹き抜けていった気がした。

 「家族、か…」

 ふと、徹の口元から漏れる。暫し、彼は玄関の前で無言のまま立ち尽くしていた。鍵を片手に、それを玄関の鍵穴に差し込もうともせず。その時彼は、家の中に入るのがためらわれていた。自分の中の、心の闇が開け放たれてしまう様な気がして。

 

 表の道路を、車がライトを照らしながら通って行った。一瞬、徹の姿がライトの中に照らし出され、玄関のドアに彼の影を大きく映し出す。そしてその影は音もなく移動しながら小さくなって、暗闇の中に消え入っていった。

 その時、彼の心は闇の中から現実の世界へと引き戻されていた。

 「そうさ…」

 そう呟きながら彼は鍵穴に鍵を差し込むと、左に回した。” ガチャン ” という乾いた音を残して、ドアのシリンダーが開く。

 「ギー、ーッ」

 微かな木擦れの音を立てながら、彼はドアをゆっくりと開けていった。玄関のフロアは暗闇に閉ざされ、物音一つせずに静まり返っている。彼はまた、後ろ手にドアを閉めると、鍵のノブを右に回して鍵を掛けた。

 「ガチャッ…」

 という無機的な音が、静まり返った家の中へと、小さな余韻を引いてこだましていく。

 彼は無言で暗闇の中に佇み、闇によって閉ざされている家の空気を肌で感じ取ろうと試みる。

 「 …… 」

 家の中からは、「コトリ」という物音一つしては来ない。秋江と子供達が寝ているはずの二階からも、動く者の気配は何一つ感じられてはいなかった。その中でただ、居間に置かれている柱時計がゆっくりと、「コチ、コチ」と時を刻む音だけが微かに聞こえて来る。 

 「 …… 」

 徹は無言で玄関ホールに立ちすくんでいた。心の中に虚しい風が吹き抜けたまま。だが、何故かそこには、今し方まで一緒にいた大森和美の顔が、はっきりと浮かび上がっていた。

 「和美さん…」

 徹は無意識に、そう呟いていた。家の中の無機的な空気が、彼にそう感じさせたのだろうか。まだ、これからも続いていくであろう、泥沼の中でもがくかの様な家庭生活に対する思い。それが彼の心に、今、唯一頼りにできて、そして自分の正直な心の内をさらけ出す事ができる和美の姿を呼び起こさせたのかもしれなかった。

 

 「ふー、…」

 深い溜息を一つ吐き、徹は壁に手を()わせる。そして照明のスイッチを探り当てるとスイッチを押した。

 眩い光が玄関ホールの中を照らし出すと、闇の中に佇んでいた調度類が光に浮き上がり、その存在を主張している。彼は強い光に目を眩ませ、瞬時目を閉じる。瞼の奥で、白く煌めく光芒が螺旋状の幾何学模様になって揺れている。

 徹は靴を脱ぐと、リビングに向かって廊下を歩いて行った。リビングの入り口の照明スイッチを押すと、蛍光灯が一瞬点滅して灯り部屋の中を照らし出す。いつもの見慣れた家具達が蛍光灯の白い光を受けて、闇の中から浮き上がる。

 

 「さて、と…」

 徹はそう呟きながら上着のジャケットを脱ぎ、ダイニングの椅子に投げ掛ける。そして冷蔵庫に向かい、中からビールのロング缶を一本取り出した。テーブルの椅子に座り、プルトップを開けると一口(あお)る。

 「 ぷはー 」

 そう大きく息を吐くと、灰皿を手元に引き寄せ、煙草に火を点ける。

 「ふぅーっ。…」 

 天井に向けて煙を吐き出し、また一口ビールを呷り込む。部屋の隅に置かれた柱時計に目を遣ると、額に入れられ飾られているセピア色に沈んだ写真が目に入る。

 「もう、八年になるのか…」

 それは、徹と秋江の結婚披露宴を写し込めた写真であった。二人が、今まさにウエディングキャンドルに火を点さんとする一瞬が焼き付けられている。

 徹はビールを飲み込むと、煙草の煙を吸い込み、その写真に向かって煙を吐き出した。

 「何てこった、今のこの有り様は。あの頃はまだ夢も、希望にもあふれてもいたのに。何で……」

 彼は再び大きくビールを呷ると、目を閉じて一人黙りこくった。柱時計の時を刻む音だけが規則正しくリビングの中に響き、テーブルの上では、灰皿に置かれたままの煙草がゆっくりと燻り、天井に向けて煙を立ち上らせている。


 「 ………… 」

 

 徹は腕を組んだまま黙り込み、いつまでもそこに座っていた。静寂な空気が彼の周りを包み込む。だが今は、それは返って彼の心を空虚な想いで満たし、それが一層彼を、孤独な世界へと落とし込んでしまっていた。

 夜は静かに音も無く更けていく。だが、彼が動こうとする気配は無かった。何時しか灰皿の煙草も燃え尽き、漂う煙も消え果てていた。

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