第5章 仮初の日常2 苦悩
徹は勤め先の事務所で、パソコンに向かって商用の見積書の入力をしていた。青いシーサー柄のマグカップを片手に、ブラックコーヒーをすすりながら。
「はぁー、あっ」
彼はパソコンの画面から目を離し、天井に向けて腕を伸ばすと、大きく伸びをした。
「うーん。仕事も一段落着いたし、煙草でも吸ってくるか…」
徹はそう呟くと席を立ち、喫煙室に歩いて行った。
喫煙室を覗くと、同僚の北川が部屋の中で丸椅子に座り、煙草を吸っていた。彼は年上だったが徹とは歳が近く、何でも気軽に話せる間柄だった。
「よう!」
部屋に入って行くと、北川が徹に向かって声を掛けた。
「どうも。兄い、煙草は旨いかい?」
徹は、北川の事を親しみを込め、いつも兄いと呼んでいた。
「煙草は旨いさ。ここに来るのが面倒だけれどもな…。」
「…ところで、奥さんの事はどうなった? 上手く行きそうかい」
北川は、そう徹に向かって聞いて来た。徹の家庭での諍いは、この事務所の中でも割と知れ渡っていた。特に北川とは仲が良い事もあって、徹は北川に家庭の状況を話していた。
徹は椅子に腰を下ろすと、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。そして口にくわえ火を点けた。
「ふー…。そうだね、女房とは、もう冷め切ったままだね。相変わらず、長男の隆に対する態度は異常としか言えんし…」
北川に、煙草の煙を吐き出しながら答える。
「…、そう言ってもな…。子供も三人いる事だし、第一、子供達が可哀想だろうに。何とか、ならないものなのかい?」
北川は徹の顔を見詰めながら、心配そうな顔でそう言ってくれる。
「兄い…。俺は今、真剣に女房との離婚を考えているんだ。子供達の事を考えても、今のままじゃ良くないと思うんだ」
煙草を横っくわえにしたまま、徹は北川にそう答えた。
「離婚⁉ 離婚って、本気なのかお前。子供達の事はどうするんだ。…誰が面倒を見るっていうんだ?」
北川は少し驚いた顔をして、そう聞き返して来る。指に挟む煙草の先の灰が、その拍子に床に白くこぼれ落ちた。
「親権は俺が取りたいさ。ただ、資産の分配や、慰謝料の支払いは大変だがな。それに、親権を向こうに取られた場合の養育費も馬鹿にならない。でも、それでも俺は、女房と別れようと真剣に考えているんだ」
徹は、床の一点を見詰めたまま、そう北川に言った。北川には徹のその言葉が、彼が彼自身に言っている言葉である様にも聞こえていた。
二人の間に暫し沈黙の時間が流れる。ただ、二人の吸う煙草の煙だけがゆらゆらと、幾何学模様を描きながら天井に向かって漂い流れていく。
午後の日差しが二人の影を床に長く映し込み、窓から射し込んでいる。部屋の中はぽかぽかと暖かく、汗ばむほどの陽気だった。
ある日の午後、徹は休みを取ると、職場の労組を通じて紹介された弁護士を尋ねた。
「離婚の相談ですか?」
その弁護士は、徹から粗方の話を聞き終わると、結論を先に答えた。
「離婚するには相当の覚悟とお金が必要ですよ。貴方に有利な条件で話を進めるには、相手方、つまり貴方の奥さんの不誠実さを立証する必要があります」
その他にも弁護士は、法律上の観点から徹に、離婚に際して必要な知識のアドバイスをしてくれた。
「…そうですか。有り難うございました」
弁護士事務所を後にしながら、彼は考えていた。
「有利な条件に、女房の不誠実の立証か…」
徹の胸の中で、ある覚悟が沸々とわき上がってきていた。
「今の状況を打開しなくては。子供達のためにも。俺のためにも、早く」
次の日から、徹のある行為が開始されたのであった。秋江の不誠実さの実証と証拠固め。
近隣の住民や、通っていた幼稚園の保母達の証言集めと、家での秋江の日頃の行動を記録した写真や音声のテープ。
児童相談所の大森にも度々会って、専門家の立場からの的確な助言や、相談に乗って貰っていた。もっとも彼女とは、乗馬クラブを通じて定期的には顔を会わせてはいたのだが。
徹は家での日常生活が、息が詰まりそうなほど窮屈で苦痛であると感じる様になっていた。秋江との間の会話は、ほとんど無かった。もしあったとしても、その行き先はいつも喧嘩へと落ちていってしまっていた。
その中で、子供達と接する時間だけが、徹にとって唯一、平和な気を許せる時間だった。
「恵、幸恵、そして隆。みんな元気な良い子に育ってくれて…。秋江と上手くやって行けない事が可哀想で哀れだけれども、こんなとうとを許してくれ」
徹は何時も、子供達にそう心の中で囁き掛けるのだった。
だが、徹は最近、夜眠れなくなっていた。形のない取り留めもない不安が、常に心の奥底からわき上がり、彼の心を内側からこれでもかと絞めつける。精神的に相当まいっているのが、自分でも自覚できてしまっていた。
秋江との間には、離婚という概念が暗黙の内に出来上がりつつあった。
「二千万円くれたら、離婚してやってもいいからね」
秋江は最近、そう徹に対して言い放つ様になっていた。
それが一層徹の心を傷付け、心の焦りを招いていた。徹は睡眠導入剤を常用する様になっていった。薬を飲まなければ寝付く事ができないほど、彼の心は追い込まれてしまっていた。
ある日、それを秋江が知るに及んで、徹を更に深く傷つける事になっていった。
「睡眠薬に頼っている様な人に、子供達はとても渡すことはできないわよね」
秋江は、これ見よがしにその事実を徹に対してなじり、罵声を浴びせるのであった。
徹の心は、かろうじてバランスを保つぎりぎりの状態にまで追い詰められていた。心の悩みは、自分一人ではとても抱えきれないほどにまで膨らみ、重荷となっていた。彼には誰か、心の救いを与えてくれる人の存在が必要だった。
「誰か…」
彼の心は何時も、声のない叫び声を上げていた。
それは、職場に行っても誰の目にも分かるほど、彼の顔はやつれて憔悴仕切ってしまっていた。
「どうした。相当まいっている様に見えるけれども。体は大丈夫なのか?」
北川が徹の顔を見て、心配げに聞いてくる。
「大丈夫。何とかやるさ…」
徹は、煙草の煙を吐き出しながら、そう答えた。心の中の苦悩を、決して北川にも悟られない様に。普段から彼は、自分の気持ちを人に、余り話す方ではなかった。それが例え、親しい北川だったとしても。徹はどちらかと言うと、一人で心の中に悩みをじっとしまい込んでしまう性分だった。それ故に、それが彼の心を、より一層ずたずたに傷つけてしまう事に繋がってしまっていたのだが。
「兄い。でもな、一人だけ親身に相談に乗ってくれる人がいるんだ」
徹はそう北川に言うと、煙草の煙を吸い込みながら目を閉じた。
北川は、徹のその言葉の意味を、敢えて詮索しようとはしなかった。そして煙草の煙を吸いながら、ただ黙って徹の顔を見詰めていた。
窓からは相変わらず、うららかな日差しが部屋の中に射し込んでいる。当分、天気は崩れそうにもなかった。
徹の心うちとは裏腹に、晩春の晴れやかな青空が、際限もなくどこまでも続いていた。




