第4章 仮初の日常
徹は、児童相談所に行った後、隆の通う幼稚園を尋ねた。そして、園長にこれまでの状況を説明して、隆の、家での虐待の事実が何か分かった場合に、自分に連絡をくれる様、自分の携帯電話の電話番号を伝えておいた。
それと、自宅の近所の家にも、昼間、自宅で何か変わった事があった場合、その日時と状況を記録に控えておいてくれる様お願いをして回ったのであった。
その日から徹は、秋江の家での行動をつぶさに観察しながら、記録を取っていった。特に、隆に対する態度と行動については、尚更注意深く念入りに書き留めていった。
徹は、家にいる時には、努めて秋江との関係を傍目には仲が良く、上手くいっている様に見せていた。もちろん心の中では、秋江に対する心は、とうの昔に冷たく冷め切っていたのであったが。無論、それは三人の子供達の気持ちを気遣ってからの行為であった。子供達には辛く悲しい思いはさせたくないという、徹のせめてもの親心である。
だが秋江は、いつもと変わらない態度で徹に接していた。これまでの様に、徹の事を小馬鹿にしたかの様に振る舞いながら、横柄な態度で。子供達に対しては、あくまでも高圧的であった。それが、親が子供に接する態度なのだと、決めつける様な。そして、特に隆に対しては過剰とも思えるほどの、ある意味敵意とも感じられる様な感情をあからさまに見せていた。
徹は、秋江のその態度を十分に承知した上で、三人の子供達に分け隔て無く公平に接してあげていた。強く、この子達の母親の気性を肝に銘じながら。今のこの子達の年齢が、一人の人間としての人格を形成するために非常に重要な時期であるという事を、誰よりも良く理解していたから。
「多分秋江は、小さい頃からあの母親に育てられ、今の様なねじ曲がった心の人間になってしまったのだろう。義母もまた、今の秋江の様に自分の子供達に接しながら子育てをしてきたのだろうから。それだけ幼児期の子育ては重要だし、注意を払うべき事なのに」
徹は、秋江の子供に接する姿を見る度に、そう心の奥底で思い起こしながら自分の行動を振り返ってみていた。
やがて、春も盛りとなって、桜の花も満開の季節を迎え、隆が地元の小学校に入学する事になった。
「おめでとう、隆。今日から小学生になるんだよ。友達が沢山できるといいね。嬉しいかい?」
入学式に向かう路上で徹は立ち止まり、しゃがみ込んで隆と目線の高さを同じにすると、両肩に手を置いてそう声を掛けた。
「うん。嬉しいよ。お友達が沢山できるかな?」
隆は嬉しそうにそう答えた。真新しいピカピカのランドセルが、隆の背中で黙ったまま、大きくその存在を主張している。
入学式には、秋江も徹と一緒に出席していた。
下の二人の子供は、四国から出て来た徹の父と母が家で面倒を見ていた。徹の両親も、隆の小学校への入学を心から喜び、隆への入学祝いに勉強机を送ってくれていた。
「隆もいよいよ小学校か。早いものだな、年の経つのは。昨日までほんとに小さな赤ん坊だった様な気がするのだけれども、こんなに大きくなって、もう立派なお兄ちゃんだね」
徹の父は、隆のランドセル姿を見て、感慨深そうにそう徹に向かって言った。
秋江は相変わらずの態度で、徹の両親に接していた。いつものぶっきらぼうで愛想の無い表情と態度に、その心の中を見透かせて。
徹の両親は、秋江のそんな態度を既に、こういう人なんだというあきらめの気持ちで見ていた。だから、彼らの間には心を開いた関係というものがまったく無かった。ただ表面的で、上辺だけの触れ合いでしかなかった。同じ家族だというのに。
もっとも、秋江にも、隆が小学校に入学するのだという事に対しての喜びを、心の底から抱いているという様子には見受けられはしなかった。母親として隆に対し抱く感情とすれば、我が子の成長を喜び、また、誇りにするという感情を抱くのが当たり前だと思うのだが。
秋江は、普段、隆に接している時と同じ感情を心の中では抱いているのだろう。表面上は、隆の入学を喜んでいるという態度を外見では見せながら。彼女はいつもの様に、自分の感情を上手に心の裏側に隠し込んでいた。入学式というセレモニーの場所で会う人々に対しては、愛想笑いと口先だけの社交辞令でごまかしながら。
徹は、そんな秋江の本心を自分一人だけが見抜いていた。だから、秋江の顔に張り付けたかの様な笑い顔を目にする度に、心の中では彼女に対する苦々しい思いに捕らわれていた。
ただ、徹は努めてその感情は表に出さなかった。今日が、隆にとって大切な晴の入学式であり、それを秋江と例え表面的な感情からでも、夫婦が揃って、仲良く隆の事を祝福してやりたかった。隆に、秋江との複雑な感情を絡めた関係を気付かれたくは無かったし、表面上だけでも仲の良い夫婦を演じていたかった。何よりも彼は、隆の心が傷付くのを一番怖れていたから。
幸いにも秋江が、周囲に対して仮面を被っていてくれたおかげで、徹は彼女と傍目には仲の良い幸せそうな夫婦と、家族を装う事ができていた。
「良かった。隆に対して親としての最低限の事をしてやる事ができた。今日の日が、隆の心の中には幸せな想い出として残るだろう。例え、私達二人が表面的な関係だけであっても」
徹は心の中で、そう自分に対して言い聞かせるように呟くのだった。
そうして隆の入学式も、無事済ませる事ができたのであった。
その夜は、自宅で隆の入学のお祝いを挙げた。その席には徹の両親も同席して、隆の門出をささやかに祝ったのである。
「おめでとう、隆。今日からお兄ちゃんだな。今日の入学式はどうだった?」
徹の父が、ほろ酔い気分で隆に声を掛ける。
「うん。今日は楽しかったよ。とうとも、かあかも来てくれたし、二人とも楽しそうに笑っていたしね」
隆は無邪気に、フライドチキンをほおばりながらそう答えた。
「…」
その言葉を聞いて、徹は顔では笑っていたが、心の中では、冷たく、冷めた顔を自分に対して見せていた。
「そうだったの。良かったわね」
秋江が隆に、そう通り一遍の言葉を返した。多分、彼女の心の底からの心の籠もった言葉では無いのだろう。徹は既に、秋江の心の中を見透かしてしまっていたから、にこやかに酒を飲み干しながらも、心の中では、冷たい視線を彼女に投げ掛け続けていた。
「お休み」
徹の父と母が、そう挨拶を残して寝室に引き上げた後、リビングには徹と秋江が残された。既に三人の子供達は、それぞれの子供部屋で、夢の中に漂い込んでいる時刻であった。
「……」
徹と秋江との間には、お互いに交わす言葉すら既に無くなっていた。そこには気まずい空気だけが、ただ漂っているばかりだった。
「ガチャリ、カチャ…」
秋江が食器を片付ける音だけが、空しく乾いた音を響かしている。
徹はリビングの椅子に腰掛け、新聞を広げると、紙面に無意味な視線を落とし込む。テレビではアナウンサーが、機械的な声で、明日の天気予報の原稿を読み上げている。どうやら明日は天気が崩れ、朝から雨模様の天気になる様であった。
また明日から、この家での無為な生活が始まろうとしていた。




