第11章 別離
「貴方、不倫をしているんですってね」
離婚調停の待合室で、ある日突然、秋江が口を開くとそう切り出した。
「‼」
「…どうして、それを……」
刹那、徹は一瞬、体が凍り付くのを覚えた。固まった身体が、ぶるっと小さく震える。
「どうして⁉ ふふ…。どうして私が、その事を知っているのかと思っているのでしょう」
秋江は勝ち誇った様に、冷めた笑い顔を徹に見せつける。
「お相手は、児童相談所の人ですってね」
彼女は、なおも話を続ける。血の気の引いた徹の顔は、みるみると真っ青になっていく。
「お名前は、大森和美さん。…清楚な美人ですってね」
「…⁉ どうして私が知っているのか、理由を知りたい? ふん! 貴方の彼女の同僚が、私の友達なのよ。ホント、世間は広い様で狭いわよ。悪い事はできないわよね」
秋江は徹の顔を冷ややかに、睨め付けながら言った。徹は黙って、ただ俯き立っているのがやっとであった。
「今更、貴方が不倫をしていても、私は驚きも怒りもしないけれどもね。ただ、調停の離婚の条件は、こちらに有利に進ませてもらいますからね。どう、悔しい?」
「あははは、は…」
秋江は、これ見よがしの高笑いの声を残し、調停室へと消えて行った。後には、言葉にできないほどに打ちのめされた、徹の姿だけがあった。
「終わった… 全て…」
徹はそう呟くのがやっとだった。これまでの苦労が全て、徒労に終わろうとしていた。彼の頭の中は真っ白で、これから何を、どうしようかという思いも何も無かった。そこにはただ、絶望の二文字だけがあった。
離婚調停は、秋江の主張が有利に取り上げられ、彼女に都合の良い方向で進んでいった。結果として、秋江による、徹の和美との不倫の暴露が、徹に致命的なダメージを負わせたのだった。
徹にとって調停の場は、もはや何の役にも立たないものとなっていた。彼が何を言ったとしても、秋江の主張する和美との不倫が、徹の不貞を非難し、彼の責任能力の全てを否定し尽くすのである。
その後、数回の調停を終えた後、調停員が徹に対して言った。
「井上さん。奥さんとの離婚調停ですが、条件は全て貴方に不利な方向で動いています。そうですね…。このまま調停を繰り返しても、貴方にとって良い方向には向かないでしょう」
「…どうでしょうか? この辺で、奥さんが提示されている条件に歩み寄られては」
調停員は、そう、徹に対して諭す様に問い掛ける。
「 …… 」
徹は無言のまま腕を組むと、顔を伏せて目を閉じ、ジッと椅子に座ったままでいた。
調停室の中を上から押し付ける様な空気が漂い、辺りを暗く、重苦しい雰囲気で覆い尽くしている。
その中で、なおも徹は目を閉じ、ジッとしているばかりだった。ただ、その脳裏には、秋江の勝ち誇った顔と、子供達の姿が想い浮かんでいた。そしてその一方で、和美の悲しげな顔もまた、浮かんで見えていた。徹の頭の中でそれらの想いが混ざり合い、その混沌とした想いが彼の心を責め、苛立ちさせていた。
「ふー…」
どれ位の時間が経ってからだろうか。徹が顔を上げ、目を開けると、調停員に向かってその重い口を開いた。
「分かりました。全て私自身の身から出た錆という事でしょう。こうなっては子供達の将来についても、私に口を出す権利はありません。全て、秋江の提示する条件を了承する事にします。お手数を掛けしますが、最後の調停を宜しくお願い致します」
そう力無く返事をすると、彼はまた顔を伏せ、目を閉じた。
調停員は、徹の意向を写し取ると、部屋を後にして外へと出て行った。
徹は独りぼっちのまま、椅子に腰掛けていた。全てを諦め、悟り切った表情のまま。
部屋の窓からは、その日最後の日の光が射し込み、彼の影を床に長く映し込んでいる。間もなく日も遠くの山並みの向こうに落ちる時間であった。そうすればこの部屋の中も、本物の闇の中に閉ざされるであろう。今の、彼の心の中の闇の様に。
最後の離婚調停は、徹が、秋江の提示する条件を、全て呑むという事を前提に行われた。その秋江の提示した条件は、次の内容であった。
「三人の子供達の親権は、秋江がその全てを得る。だが、子供の親権については、その子が法的に成人した日の、その意志による選択の自由を認める。なお、離婚後に、徹が子供達と会う事については、これを認める事とする」
「慰謝料として、秋江に一千万円を支払う。また、子供達については、養育費として、一人当たり月三万円を支払う事」
「現在の住居は、徹が住み続け、秋江は、三人の子供を連れて、実家である東京の生家に戻る事」
以上が、最後の調停の最終提案であった。
結果として徹は、秋江の提示条件を呑む形となり、徹は欲していた三人の子供の親権を含めて、全てを失う事になったのである。
ただ、徹が一番気にしていた、長男の隆に対する秋江の横暴な振る舞いについては、彼女が東京に帰った後、そちらの児童相談所が定期的に見守る事になった。また隆も、自らの意志として秋江と東京に行く事を選んだのであった。あれ程、秋江から虐げられたというのに。そればかりは徹も、母親が恋しい時期なんだと、無理矢理自分を納得させた部分もあったのだが。
そうして、離婚届が正式に提出され、秋江が東京に帰る最後の日、徹は座り込みながら三人の子供の顔を正面から見詰めると、一人一人にお揃いのキーホルダーを渡した。それは小さなドングリの形をした物であったが、彼もそれと同じ物を身に付けていた。
「これはね。とうとと、お前達がばらばらになっても、いつも気持ちは一緒だという事だよ。これは、とうとの気持ちなんだ」
彼は一人一人の顔を、心の中に留めるかの様にジッと見詰めると、そう声を掛けていった。
隆と恵は、徹のその気持ちが分かったのであろうか。徹の顔をジッと見詰めると言った。
「とうと。とうとは、一緒に来ないの?」
隆も悲しそうな顔で見ている。
「とうとはここに残るの?」
涙を堪えながら、徹も子供達に囁き掛けた。
「今は一緒には行けないけれども、直ぐに合いに行くからね。大人しく待っていてね。お母さんの言う事を良く聞くんだよ」
だが秋江は、悲しそうな顔一つ見せずに、それが当たり前かの様な態度で徹の前から去って行った。三人の子供を連れて。
子供達が徹の前から姿を消すと、秋江と子供達を迎えに来ていた秋江の兄が、徹の不倫の事を詰り、罵倒すると、徹の顔を思い切り殴り飛ばした。だが、徹はそれに抗いもせず、されるままにされているのだった。あたかもそれが、けじめなんだと自分に言い聞かせるかの様に。
秋江達が去った家に、徹は一人戻った。
玄関もリビングも、そして二階の子供部屋も何もかもが、それまでと何一つ違わなかった。だが、そこには本来あるべきものが何も無かった。子供達の姿、そしてはしゃぎ笑う顔、笑い声が。徹はその空間に、空しさを感じ得なかった。そして、改めて失った物の大きさを感じ入るのだった。
秋江といがみ合っていた時には、決して気付かなかったもの。そう、家庭という暖かなもの。今のこの冷え冷えとした空間の中には、もう、その痕跡の片鱗さえも無かった。
徹はリビングに独り立ちすくみ、その想い出の中の情景に浸り込んでいた。彼の目からは涙が溢れ、頬を幾筋もの涙が伝い落ちていく。徹は声の無い嗚咽の中に一人閉じ籠もり、何時までもそこに立ち尽くしていた。
窓の外には初冬の夕闇が迫り、この部屋の中もその暗闇のベールの底に覆い尽くされそうとしている。だがその夜、この家に電灯の明かりが灯る事は無かった。何時までも。
闇に包まれた家は、ただ山並みを背景にシルエットとなって浮かび上がり、その存在を無言で主張しているだけだった。徹の心、そのままに。




