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霧の後に  作者: Eisei3


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10/12

第10章 葛藤2

 徹は、離婚調停の準備に追われる日々を過ごしていた。秋江の行為の裏付けとなる確証集めと、離婚した時の慰謝料や養育費の支払い計画。その点、徹は几帳面だったから、彼の計画はしっかりしたものだった。

 

 家庭生活は相変わらず、空虚な空気に包まれていた。徹と秋江の間には、もはや喧嘩の原因となる会話さえも無かった。狭い家の中で顔を合わせても、視線さえ合わせようとはしなかった。互いに、相手の事をただの空気だと思っていた。

 

 そんな中でも徹は、三人の子供達には、今の自分ができる精一杯の愛情を注いでいた。そして子供達の前では、努めて、秋江とは良い夫婦であるという芝居を演じていた。だが、それも秋江が徹を小馬鹿にして見下す様な態度を見せて、全てが徹の、完全な一人芝居になってしまう事も多かったのだが。

 彼は、子供達の気持を第一に考えていた。不仲な両親が、醜い争いを子供達の目の前で繰り広げる。それが、心の発達段階にある幼い子供にとって、良いはずは無かったから。

 しかし秋江は、何も変わらない。何かを変えようとする素振りさえも、徹の目には見えなかった。それまでと同様に隆を嫌い、聞くに堪えない憎悪の籠もった悪態やせっかんを繰り返す。それが当然の事であるかの様に。その度に、二人の関係は、更に希薄な空気へと落ち込んで行くのだった。


 徹は最近、家にいる時間を酷く苦痛に感じる様になっていた。このままの生活を続ける事に、強く限界を感じていた。暗黙の沈黙に、もう耐えきれないという心の叫び。彼の精神は、釣り合った天秤の様には、もはや上手くバランスを保つ事ができない所まで追い詰められてしまっていた。

 ” この家を出よう ”

 ある日、彼はそう心に決め、職場の近くにアパートを借りる契約を結んだ。この事は、徹一人の考えで決めた事だったから、秋江にもアパートの場所は教えなかった。ただ、家を出るという事実を告げただけだった。


 「(あに)い。実は家を出たんだ」

 職場で徹は、北川にそう打ち明けた。

 「何、家を出た?。今どこにいるんだ?」

 北川はいぶかしげに、そう聞き返す。

 「ここのな、近くのアパートなんだが。荷物は布団と、ボストンバック一個だけなのさ。場所は、女房の奴には教えていないんだ」

 徹はそう答えながら煙草に火を点けた。そして、煙を胸一杯吸い込むと、吐き出しながら更に続ける。

 「女房の奴とは最悪の状態なのさ。もう、家にいる事さえも耐えられなくなってな。もうすぐ家庭裁判所での離婚調停も始まるし。ただ…、子供達の事だけが一番の気掛かりなんだが…」

 「そうか、離婚調停か…。もう何を言っても、お前には無駄だな。後は、悔いを残さない様、精一杯頑張る事だ。子供達のためにも、そしてお前自身のためにも」

 北川はそう言って、指に挟む煙草を口元に運び、小さな溜息を吐きながら煙を吸い込む。そして思案げな顔を徹に向ける。” もう何を言っても、こいつは離婚に向けて突き進むだろうな ” という思いを胸の中に抱きながら。

 会話が途切れた二人は、押し黙ってただ煙草だけを吹かしていた。お互い、視線を相手の顔から避けながら。ただ二人の吸う煙草の煙だけが、天井近くで漂いながら出会い混じり合っている。まるでダンスを踊るかの様に。



 徹は、家を出てアパートを借りる事を、事前に和美には話してあった。

 だから直ぐに、仕事を終えた和美が、徹のアパートへと足繁く通う様になっていった。和美が夕飯を作り、二人で一緒に食事する。このアパートが二人にとって、唯一の、気が休まる安息の場所になっていた。

 

 ある夜、和美が徹に問い掛けた。 

 「ねえ、徹さん。離婚調停が始まる様だけど、離婚は確実にできるの? そしてお子さん達は?」

 「そうだね。順調に行けばだけれども、親権は、俺が取りたいと思っているんだが…」

 

 「こんな事を聞いていいのか分からないけれども…

  奥さんと離婚した後はどうするの? 私の事は…、どう思っているのかしら」

 和美が、いきなり核心を突く様に、そう切り出す。

 

 「俺との結婚の話だね…。正直に言って、今はその事についてはまだ真剣に考えていないというのが、俺の本心なんだ。まだ、離婚できるかどうかも分からないし。子供達の親権を取れるかどうかで、周囲の状況が全く変わってしまう可能性が大きいから。特に、親権を取れた場合には、ことさら状況は複雑になるしね。子供の心を、第一に考えてやらなくてはならないと思うから」

 徹は、少し考えた後で口を開いた。そして一語一語、考えながら、噛みしめる様にそう言葉を繋げた。

 和美は徹のその言葉を、目を伏せながら聞いていた。彼女にとって、徹が彼女との結婚について今は考えていないという事は、正直かなりのショックだった。自分が、今日まで耐え、支え(こた)えてきた忍耐と心の苦しみは、一体どうなるというのか。徹には、果たしてその責任は無いのか。胸の内で、それらの思いが渦巻き、葛藤を繰り広げる。

 

 だが、徹も和美の事を、ただのスケープゴートと考えていたのでは無かった。もちろん、あの心が打ちひしがれ、壊れかけてしまっていた日々に、確かに心の中にそう考える部分があったのも事実だった。だが、和美は徹にとって本当に大切な、愛しい人だった。だからこそ、自分の未来が分からない今、軽はずみな事を彼女に言いたくはなかった。それが、彼の嘘の無い本心だったから。

 

 和美も、秘められた今の生活に、心が疲弊し切っていた。だから直接、徹の口から、自分の未来についての確証を聞きたかった。そして少しでも、自分の心を安心させていたかった。なのに…。

 だから、大きなショックを受けたのでもあった。彼女は、今のこの気持を、徹と二人で支え続けていたかった。二人だけの秘密として。

  

 徹と和美。お互いの事を思い合うばかりに、二人の心には微妙な時差が生じてしまっていた。全ての男女が、必ず経験する、そのすれ違いが。

 

 

 いよいよ、徹と秋江の離婚調停が開始された。その場所は、県庁所在地にある家庭裁判所だった。

 徹と秋江が顔を会わす機会は、この家庭裁判所で開かれる離婚調停の場所だけになってしまっていた。だがそこでも、徹と秋江が言葉を交わすことは無かった。顔を会わしても、挨拶すらも無く。

 離婚調停は、徹と秋江を別々の部屋に分け、各自から違った調停員が話を聞く事になっていた。その部屋で銘々が、自分の正当性を主張し、相手の落ち度について証拠を交えながら説明する仕組みになっている。いずれにしても、同じ部屋で徹と秋江が顔を会わして、お互いを非難し合うという事はあり得なかった。

 

 調停は、調停員が当事者の話を別々に聞き、双方の主張が妥協できうる線を探し出す事が第一段階として行われる。次いでその妥協点に、当事者同士の希望する主張を合わせていく。そうして両者の利害関係を調整する事で、両者が納得しうる条件で離婚が成立する様にし向けるのであった。

 だが、調停員が離婚当事者同士に、何かをしろという様な事は示さない。あくまでも調停は、当事者同士の歩み寄りを促すための場を提供するのに過ぎなかった。そのため離婚調停は、両者の意見が食い違っている限り、決着は望めなかった。

 

 だから、両者の意見がまったく食い違っている徹と秋江の離婚調停も、長引く事が予想できた。泥沼と化す、慰謝料と子供の親権の主張、そして相手に対する責任の(なす)り合い。

 

 離婚の行方に対する、徹と和美のそれぞれの想い。その想いの心を(ゆだ)ねる離婚調停は、終わる先も見えないまま続いていくのだった。

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