第八話
颯太と蓮と凜 第八話「肝試しという名の試練」
宿泊研修先の施設は、想像していたよりもずっと古かった。
バスから降りて、その施設を初めて目にした時、颯太は思わず呟いた。
「……古い」
周囲の生徒たちも、似たような感想を抱いたのだろう。何人かが低い声で会話を交わしている。
コンクリートの壁には、血管のように細かなひび割れが走っている。廊下の空気は重く湿り、肌にまとわりつく感触が、ここが山深い場所であることを否応なく実感させた。
窓の外では、手入れの行き届かない木々が何重にも重なり合っている。その枝葉は、夕暮れ前のわずかな光を吸い込む黒い穴のようだった。室内には、閉め切られた空間特有の埃っぽい匂いが漂っている。
「――これより、宿泊研修のオリエンテーションを始めます」
前方に立つ教師の声が、広い板間に硬く反響した。
氷室凜は、床に正座したまま背筋を伸ばし、配布された資料を膝の上に置いていた。その姿勢は、完璧だ。
だが、内側はどうか。
その指先は、冷えた金属のように温度を失っている。心臓は、激しく鼓動している。昨日の屋上での蓮との対話。あの「一緒に頑張ろうね」という言葉。そして今、彼女は現実の中にいるのだ。
凜は聞くべきところで正確に頷き、必要な情報を脳内に整理していく。完璧だ。外から見れば、何ひとつ乱れはない。聖女の仮面は、完璧に機能している。
けれど、胸の内側だけが、深海に沈んだかのように静かに波打っていた。
「施設の使い方についてですが、各階の案内図は各部屋に配置しています。不明な点がある場合は、教師に相談してください」
教師の単調な説明が続く。入浴時間。消灯時刻。朝食の時間。すべてが、凜にはノイズに聞こえた。
視線をわずかに横へ滑らせると、数列離れた場所に結城颯太の姿があった。
彼は床に胡坐をかき、資料に目を落としている。その表情は、いつもの通り、どこか別の世界を見ているような、ぼんやりとしたものだ。
時折、彼がページを捲るたびに、乾いた紙の音が静かな広間に小さく響いた。
ただ、それだけの光景だった。
なのに凜は、喉の奥が熱い粘土で塞がれたような閉塞感を覚え、無意識に指先を握りしめていた。自分の呼吸の音さえ、不自然に大きく聞こえる。
(昨日、彼と話すチャンスがあった。あの屋上で。でも、チャイムが鳴って……)
凜の思考は、昨日の「言えなかった言葉」に縛られていた。
もしあの時、教師が来なかったら。もしあのチャイムが鳴らなかったら。凜は、颯太に「宿泊研修で一緒の班になりませんか」と言えたはずだ。
だが、現実は変わらない。そして、今、彼女は彼と同じ班で、同じ施設で、三日間を過ごさなければならないのだ。
その事実だけで、彼女の心は波立っていた。
(……集中しなさい)
自分を戒める。これはただの学校行事だ。そう言い聞かせても、視界の端に映る彼の存在が、磁石に引き寄せられる砂鉄のように意識を吸い寄せて離さなかった。
「さて――今夜は、毎年恒例のレクリエーションを行います。肝試しです」
その言葉が、凪いでいた空気を一気に掻き乱した。
誰かの上げた短い歓声が、薄暗い天井へと吸い込まれていく。
肝試し。暗い場所を歩き、恐怖心を克服するというゲーム。だが、凜にはそれが「試練」に聞こえた。運命の試練だ。
「安全のため、二人一組で行動します。今からペアを決めますので――」
教師が名簿に目を落とす。
凜は膝の上の資料を見つめたまま、指先に力を込めた。白い紙の端が、強い力でわずかに撓んでいる。
(誰と組んでも、やるべきことは変わらない)
そう分かっているのに。教師が名前を読み上げるたび、凜の思考は濁った水のように混濁していった。
蓮と隆之介の名前。別のクラスの生徒たち。
そして――
「氷室と、結城」
その瞬間。
頭の中で火花が散ったような衝撃が走った。
凜の世界が、その一瞬で止まった。
(颯太と?)
それは、望郷か、それとも呪いか。自分が何日も前から、心の奥底で望んでいたことが、ここで形になるということか。
凜は返事が一拍遅れ、乾いた喉を震わせる。
「……はい」
声は、かろうじて平静を保っていた。隣の列から、颯太の低い返信が重なって聞こえる。
「はい」
その声の振動が、まるで直接肌に触れたかのように生々しく伝わってきた。
凜の心臓が、鼓動のリズムを失った。
周囲の冷やかしや視線が、遠い雑音へと変わっていく。生徒たちの間から、くすくすとした笑いが聞こえた。
「おいおい、颯太。氷室さんとペアかよ」
隆之介の声。その声には、確かな悪意があった。彼は、この修羅場を心底愉しんでいるのだ。
凜は、その笑いを無視した。かわりに、彼女の掌には、じっとりと脂汗が滲んでいた。
自分を律しようとする意志が、砂の城のように脆く崩れていく。
完璧さ。聖女の仮面。そのすべてが、この一瞬で亀裂を入れられた。
(落ち着いて。これは、単なるペアリングに過ぎない。何も起こらない)
凜は、自分に言い聞かせた。
だが、その言葉は、彼女の心に届かなかった。
各自部屋へ移動するよう指示が出た。
立ち上がろうとした瞬間、膝の力がふっと抜け、足元が泥濘に足を取られたかのように覚束なくなる。
凜は、そのふらつきに驚いた。自分の身体が、心に従わないというのは、彼女にとって初めての経験だ。
いや。違う。
十年前。あの公園で転んだ時以来の、経験かもしれない。
凜はすぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように歩き出した。
誰にも気づかれていないはずなのに、背中に熱い視線が縫い付けられているような錯覚が消えない。
(あれは、颯太の視線か。それとも、蓮の視線か)
凜は、その事実を確認する勇気がなかった。
廊下を歩きながら、凜は自分の両手を見た。
その手は、試着室で水着を選んだ手だ。その手は、屋上で蓮と笑い合った手だ。
そして、その手は、十年前、あの少年に助けられた手だ。
(つながっている)
凜は、そう思った。
すべてが、繋がっている。
十年前のあの夕暮れから。そして今、この瞬間へ。
部屋に到着した凜は、窓の外を見つめた。
外は、夜が静かに口を開けて待っている。
山深い場所の夜は、本当に暗い。月が隠れれば、世界は完全な黒に覆われるだろう。
その中で、彼女は颯太と二人で歩くのだ。
肝試し。暗闇の中での二人。
(これは、運命が与えてくれたチャンスなのか)
凜は、そう考えた。
あの屋上で言えなかった言葉を、あの暗闇の中で言うことができるのか。
それとも、やはり自分は「何も言えない少女」のままなのか。
「宿泊研修」という名目で、彼らは「試験」を受けているのだ。
そして、その試験の最初の問題が、この「肝試し」なのだ。
やがて、時間は進み。
夜の帳が、完全に施設を覆った。
オリエンテーションが終わり、夜間のレクリエーションが始まる時間へと近づいていた。
凜は、部屋で静かに待ちながら、自分の心の準備をしていた。
あの暗闇の中で、何が起こるのか。
凜と颯太が、二人きりになったその時、何が起こるのか。
そして、彼女は、自分の言葉を発することができるのか。
理由の分からない胸騒ぎを抱えたまま、凜は時間が来るのを待っていた。
まるで、運命の歯車が噛み合う音を聞いてしまったかのように。
その同じ時刻。
颯太も、自分の部屋で待ちながら、不安を抱えていた。
肝試し。暗い施設の中で、氷室凜と二人。
それは、彼にとって「恐怖」と「期待」が同時に訪れる瞬間だ。
(氷室さんと、二人きりになる)
その事実だけで、颯太の心は大きく揺れていた。
蓮に対しては、彼は「優しさ」で対応できる。
凜に対しては、彼は「敬意」で対応できる。
だが、その両方を同時に対応することはできない。
そして、暗闇という非日常の中で、彼は何ができるのか。
颯太は、自分の無力さを実感していた。
夜は、静かに進み。
やがて、すべての準備が整う時刻へと近づいていた。
その時刻に何が起こるのか。
それは、まだ誰も知らない。
だが、確実なことは。
この夜が、三人の関係を変えるということだ。
窓の外の暗闇が、それを約束しているかのように、静かに、しかし確実に、時を刻んでいた。




