第七話
颯太と蓮と凜 第七話「その名を聞いたとき」
三人と別れたあと、氷室凜は一人、駅へ向かって歩いていた。
買い物袋のビニールが、指の関節にじりじりと食い込む。
その鈍い痛みだけが、今の自分を現実につなぎ止めていた。
蓮と、颯太と、隆之介。
笑って、言葉を交わし、何事もなかったように背を向けた。
けれど、胸の奥には、冷たく濁った澱のようなものが沈殿している。
あの水着を選んだときの感覚が、今も指先に、熱を帯びて残っている。
試着室の鏡に映る自分。その肌をなぞる視線を、その熱を、私は確かに「誰か」に捧げようとしていた。
(……また、同じだわ)
吸い込んだ夕刻の空気が、肺の奥でひやりと凍る。
自分はいつもそうだった。何かを「欲しい」と希求した瞬間に、脳内のもう一人の自分が、それを「望んではいけない理由」を理路整然と並べ始める。
完璧さを求める自分と、欲望を抱く自分の間で、凜は常に揺れていた。
そして、その揺れの中で、彼女は自分を失い、削り、塑造してきたのだ。
凜が「しっかり者」という檻に入る、少し前のこと。
それは、十年以上前のことだ。
習い事の帰り道。夕暮れ時。住宅街の影は怪物のように長く伸びていた。
決められた帰宅時間。最短のルート。乱れのない制服。
それが氷室家の娘としての「正しい在り方」だと教え込まれていた。
両親からの期待。家族の名誉。そして、自分に課した「完璧さ」という枷。
すべてが、凜の小さな身体に重くのしかかっていた。
けれど、公園の前を通りかかったとき、足がわずかに、粘つくような重さを持った。
揺れるブランコが立てる、軋んだ金属音。
砂場に散らばる、色鮮やかなスコップ。
自分と同じくらいの子供たちが、声を上げ、転び、土にまみれて笑っている。
時間の概念など存在しないかのような、残酷なほどに無邪気な光景。
胸の奥が、きゅっと、音を立てて締めつけられた。
(……いいな)
思った瞬間、凜は弾かれたように視線を前方へ固定した。
――遊びは、やるべきことをやってからだ。
父の、冷徹なまでに正確な音程の声が、記憶の底から染み出してくる。
その声は、凜に何度も、何度も、「願望」と「現実」の狭間で決断させてきた。
毎回、彼女は「現実」を選んだ。「義務」を選んだ。「期待」を選んだ。
そして、その度に、彼女は自分の一部を失ってきたのだ。
凜は視線をアスファルトに落とし、走り出した。
羨望から、そして自分の内側に芽生えた「弱さ」から逃げるように。
かつかつと、ローファーが路面を叩く音だけが、夕闇の中に響く。
その背中を、一人の少年が見ていたことに、凜は気づかない。
不意に、足元の段差が視界から消えた。
身体が、ふわりと浮く。次の瞬間。
――ドスン。
硬い地面に、膝と掌を強く打ちつけた。
肺の中の空気が、一度にすべて押し出される。
凜は、一度も地面に膝をついたことがない。一度も転んだことがない。一度も、「失敗」を経験したことがない。
だが、その時、彼女は初めて、「失敗」の味を知った。
じりじりとした、焼けるような痛み。
凜はその場に座り込み、白くなるまで奥歯を噛み締めた。
視界が、じわりと滲む。
涙が溜まった。その感覚は、彼女にとって全く未知のものだった。
けれど、声は出さない。
(泣かない……泣いちゃだめ)
何に負けるのかも分からないまま、ただ、喉の奥にせり上がってくる熱い塊を、必死に飲み込み続けていた。
そのとき。
自分の上に、柔らかな影が落ちた。
顔を上げると、泥だらけの男の子が立っていた。
黒髪短髪。優しげな瞳。
無言で差し出されたのは、少し皺の寄った、安っぽい絆創膏。
凜は呼吸を忘れ、固まった。
少年は構わずしゃがみ込み、土のついた指先で、凜の傷ついた膝をそっと覗き込む。
ひんやりとした夕風の中で、少年の指先だけが、やけに熱かった。
不器用な手つき。近すぎる距離。
心臓が、耳の奥で、ドクッ、ドクッ、と不規則に脈動する。
「すごいね」
少年が、ぽつりと呟いた。
「転んで、こんなに痛そうなのに。泣かないなんて」
凜は、何も返せなかった。
ただ、驚きと、戸惑いと。そして、生まれて初めて触れる「慈しみ」という熱が、膝から全身へと溶け出していくのを感じていた。
それは、完璧さとは何の関係もない。理性とも無関係だ。
ただ、この少年の温かさに、彼女の凍りついた心は、初めて、感情というものを知ったのだ。
「えらいえらい」
頭を軽く撫でられた、その瞬間。
凜は、自分の内側で何かが崩壊する音を聞いた。
「颯太ー!」
遠くで、大人の声が響く。
少年――颯太は、はっとして立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
彼は一度だけ振り返り、短く手を振ると、夕闇が溶け始めた公園の方へと駆け戻っていった。
取り残された凜は、膝の絆創膏を、震える指先でそっと押さえた。
知らない誰かに、優しくされた。
ただそれだけのことが、どうして、これほどまでに胸を騒がせるのか。
その少年の名前が、その瞳の色が、その温度が。
凜の心に刻印され、決して消えることのない傷跡となったのだ。
家に帰ると、父の冷徹な瞳があった。
問いかけ。確認。そして、静かな「落胆」の混じった注意。
「足元も見ないで歩くなど、不注意だ」
「そのような傷は、周囲の目を引く。何があったのか」
「今後は、このようなことがないように」
その一連の流れの中で、凜は機械的に背筋を伸ばし、仮面を装着した。
泣きそうだった心は、深い海の底へ。
あの少年から受け取った温もりは、心の奥の、最も暗い場所へ。
"手のかからない子"
"期待を裏切らない子"
それが、氷室凜という少女を構成する唯一の成分となった。
家族の名誉。学園の評判。周囲の期待。
そうしたものに応えることが、凜にとって「生きること」となったのだ。
あの男の子と、再び言葉を交わすことはなかった。
けれど、優等生としての日々を重ね、自分を削り続けていくほどに。
あの夕暮れの熱量だけが、色褪せない傷跡のように、胸の奥で疼き続けていた。
その疼きは、彼女が何かを選ぶたび、何かを決めるたび、何かを失うたびに、より強くなっていった。
そして、時が流れ――。
教室で、あの「颯太」という名を聞いたとき。
凜の呼吸は、一瞬だけ止まった。
それは、単なる偶然ではなく、運命の言葉遊びに見えた。
だが、周囲の期待。自分に課した「高嶺の花」という鉄の仮面。それらがあまりにも重すぎて。
胸の奥で、確かにあの時と同じリズムで刻まれている鼓動の意味を。
凜は、自分自身で見失おうとしていた。
いや、見失う「必要」があったのだ。
あの時の記憶に向き合うことは、彼女の完璧さを脅かす。
だから、凜は「黒板にあった名前の偶然」として処理することにしたのだ。
それが、彼女が生き続けるための、最後の自衛手段だったのだ。
だが、今。
その男の子――結城颯太と言葉を交わし、笑い、視線を交わすたびに。
凜は、あの夕暮れの記憶が、ぬくぬくと息を吹き返しているのを感じていた。
十年の時間が、何の意味も持たない。
彼女が積み上げた「完璧さ」も、その前では無意味だ。
あの時の「颯太」と、今の「結城くん」は、同じ人間であり、同じ温度を持った、あの日と変わらない人だ。
(……見つけちゃった)
凜は、心の奥で呟いた。
あの日、走り去っていった少年は、大きくなって、凜の隣の席に座った。
それは、何という因果だろう。何という運命の無情さだろう。
買い物袋を握りしめたまま、凜は駅の改札を抜ける。
自動改札機が放つ無機質な電子音が、彼女を思考の迷宮から引き戻した。
乗車チケットを挿入し、改札を通る。駅舎の中は、夜間の喧騒で満ちている。
だが、凜にはそのすべてが、ノイズに聞こえた。
彼女の頭の中にあるのは、ただ一つ。
明日。宿泊研修。そして、その三日間で何が起こるのか。
過去は変えられない。
けれど、その過去が編み上げた「自分」という糸からは、決して逃げられない。
凜は、自分の過去を背負っている。あの少年に救われた過去を。あの温もりを。
そして、その温もりを求め続けた十年を。
宿泊研修という、日常の境界線が曖昧になる季節が、すぐそこまで来ている。
あのとき、痛みを堪えて泣かなかった少女は。
次に訪れる「恋」という名前の痛みの前で、何を零すのだろうか。
蓮のような「勇敢さ」があるのか。それとも、颯太のような「優しさ」があるのか。
それとも、ただ自分の「弱さ」と向き合うだけなのか。
凜は、冷たくなった自分の指先をそっと握りしめた。
その握りしめた手の中には、試着室で選んだ水着がある。
黒地に白い縁取り。シンプルで、落ち着いていて、そして確実に「誰か」を意識して選んだもの。
その答えを、彼女はまだ、知らない。
だが、明日の朝が来れば、彼女はそれを知らされるだろう。
あの夕暮れから十年。
その時間が、何であったのかを。
あの少年の温度が、今、どのような形をしているのかを。
駅舎を出て、夜の街に向かう凜。
彼女の歩く速度は、いつもより速かった。
それは、不安からの逃亡ではなく。
むしろ、何かを求めて進み続ける者のそれに見えた。
その同じ時刻。
颯太は、自室で何度も何度も、あの日の光景を思い出していた。
朝日の中で、凜が読書する横顔。
昼間に、蓮が彼に抱きつく瞬間。
そして、凜が言おうとして、言えなかった言葉。
そのすべてが、彼の心に引っかかっていた。
(俺は、本当に何もできない男だ)
颯太の自己評価は、相変わらず低い。
だが、その「何もできなさ」が、逆説的に、彼を「何もできない魅力」へと昇華させているのだ。
蓮はそれを「優しさ」と呼び。凜はそれを「誠実さ」と呼ぶ。
そして、その「何もできなさ」こそが、彼女たちを惹きつけているのだ。
明日が来ることが、怖かった。
だが、同時に、待ち遠しかった。
その矛盾の中で、颯太は夜明けを待っていたのだ。
朝は、確実に近づいていた。




