第六話
颯太と蓮と凜 第六話「宿泊研修前夜」
週末のデパートでの出来事は、思いのほか長く、氷室凜の胸の奥に澱のように残っていた。
――あの日。
薄暗い試着室の中で、鏡に映る自分を見つめながら、凜は静かに、しかし深く息を吐き出した。
普段の制服という鎧を脱ぎ捨て、フォーマルな私服とも違う「水着」という無防備な姿。肌の露出に気恥ずかしさを覚えながらも、凜の脳裏をかすめるのは、結城颯太の視線だった。
その視線がどのような色をしているのか。
その視線がどれほどの強度を持っているのか。
そして、その視線が自分に向かう瞬間、彼女のどの部分に止まるのか。
(……見せる相手を具体的に想像している時点で、私はもう、おかしいのよ)
自己嫌悪に似た呟きが唇から漏れる。聖女として生きてきた凜にとって、このような「俗な」感情を持つことは、自らの理想に対する背任だ。
それなのに、指先は何度も何度も、水着の肩紐の掛かり具合を執拗に確かめてしまう。自分でも制御できない、この熱に名前をつけるのが怖かった。
なぜなら、その名前は「恋」だから。
凜がこれまで「学園の聖女」として生きてきた世界では、「恋」は許されない感情だ。完璧さを求められ、誰もが彼女を「聖女」として仰ぎ見ている中で、彼女が一人の少女として「誰かを想う」ことは、その完璧さを失うことと同義だ。
だが、もう遅い。
凜は既に、その「完璧さ」を手放す覚悟をしていた。颯太という一人の男性のために。
「凜ちゃん、さ。そういうの、あんまり慣れてなさそうだよね」
不意に、背後から屈託のない声が飛んできた。
振り返ると、そこにはすでに別の水着に着替え、自信に満ちた姿で鏡を覗き込む久世蓮がいた。
その姿は、何の躊躇もない。白を基調とした水着は、彼女の肌の白さと相まって、本当に「白亜の天使」のようだ。
「……悪かったわね。貴女ほど社交的でも、器用でもないから」
凜の言葉は、いつもの通り冷静だ。だが、その奥には、蓮に対する複雑な感情が入り混じっていた。羨望。敵意。そして、同時に親愛。
「あはは、悪い意味じゃないよ。なんか……なんて言うのかな。そういう、一生懸命なところ、可愛いなって思って」
蓮は無邪気に笑った。その輝くような笑顔を直視できず、凜は少しだけ視線を逸らす。
この少女の優しさが、凜にとっては何よりも残酷だった。なぜなら、蓮は完全に凜を「敵」として対峙しているのではなく、むしろ「同志」として認めているのだから。
この少女は、自分とは根本的に作りが違うのだ。
自分よりもずっと自由で、感情の赴くままに振る舞い、そして――自分と同じ人を想っている。
「蓮さんは、迷わないのね」
凜が、そう問いかけた。
「ん? 何が?」
「選ぶ水着も。それに……自分の気持ちも」
その質問の奥底には、凜の深い葛藤が秘められていた。彼女は、自分の気持ちが何なのか、判然としていないのだ。この感情が「恋」であるのか、それとも「支配欲」なのか。「愛」なのか、それとも「独占欲」なのか。
蓮は一瞬だけ、きょとんとした表情を浮かべた。それから、少しだけ照れたように耳の裏を掻く。
その仕草は、蓮にしては珍しく、どこか弱々しいものだった。
「迷うよ。めちゃくちゃ迷う。でもさ、迷ってる間に誰かに取られちゃうのは、もっと嫌なんだ。後悔するくらいなら、格好悪くても手を伸ばしたいって思うの」
その言葉は、凜の胸に鋭い杭を打ち込んだ。
(……私とは、真逆だわ)
自分は手を伸ばす前に、それが「正しいかどうか」を考え、石橋を叩き壊してしまう。傷つくことよりも、築き上げてきた関係が「変わってしまう」ことを恐れて、足がすくんでしまう。
だが、蓮は違う。
蓮は、十年の時間を無視して、不安を無視して、ただひたすらに「前に進もう」とする。
その姿勢を、凜は「勇敢」と呼ぶべきか、それとも「無謀」と呼ぶべきか、判断できないでいた。
「でもね、凜ちゃん」
蓮は鏡越しに、凜の瞳を真っ直ぐに射抜いた。その視線には、確かな愛情があった。
「凜ちゃんが本気なの、私には分かるよ。だから、なんだか安心した」
「……安心? どういう意味かしら」
凜の問いに、蓮は試着室の壁に背を預けながら答えた。
「だって、適当な気持ちの人と戦うのって、寂しいじゃん? 凜ちゃんを見てると、恋敵っていうより……なんていうのかな。同じ高い山を登ってる、相棒パートナーみたいな感じがするんだ」
心臓が、きゅっと締めつけられるように鳴った。
嬉しいわけではない。けれど、拒絶したいほど不快でもない。ただ、凜は悟ったのだ。自分はこの眩しい少女から、もう逃げ出すことはできないのだと。
(この子は、私を見ている。氷室凜という人間を、対等なライバルとして認めている)
それは残酷なまでの肯定だった。
彼女にとって、凜はもはや「敵」ではなく「戦う価値のある相手」だ。「打ち負かすべき存在」ではなく「共に高みを目指す者」だ。
それほどの敬意を向けられることが、凜にはどうしようもなく嬉しかった。
現実へと意識が戻る。
放課後の校舎は、昼間の喧騒をどこか遠くに置き去りにしたように、しんと静まり返っていた。
宿泊研修の前日。多くの生徒たちは、最後の準備を終えて家に帰っていた。
階段を上る二人の靴音だけが、コンクリートの壁に反響する。
蓮が凜を呼び出したのだ。「最後に話しがある」という理由で。
辿り着いた屋上の重い扉を押し開けると、冷たさを帯び始めた夕方の風が、二人の髪を激しくなびかせた。
夕陽が、校舎の影に隠れようとしている。空は、燃えるような茜色から、深い紫へとグラデーションを描いている。
「ここ、久しぶり」
蓮が、呟くように言った。
「来たことがあったの?」
凜が、質問する。
「うん。気持ちの整理がつかないときにね。あそこから街を見てると、自分の悩みなんて、すごくちっぽけに見える気がして」
蓮が指差したのは、学園の敷地の外に広がる街並み。夕陽に照らされた風景は、本当に美しく、そして無情だった。
二人はフェンス際に腰を下ろし、道すがら買ってきたパンを広げた。
特別な言葉は交わさない。ただ、ビニールの擦れる音と、遠くのグラウンドから響く野球部の掛け声だけが、二人の間の沈黙を繋いでいた。
その沈黙は、決して不快なものではない。むしろ、共犯者同士が感じる、深い「理解」のようなものだ。
「……私、まだ確信が持てないの」
唐突に沈黙を破ったのは、凜だった。
「何が?」
蓮が、問い返す。
「結城くんに対する、この気持ちのこと。これが本当に、世間で言うところの『好き』なのかどうか……私には、分からない」
凜の言葉は、本当のことだ。彼女は、自分の感情を正確に名づけることができない。
学園の聖女として生きてきた彼女は、「感情」というものを、常に「理性」で制御してきた。だから、「好き」という純粋で素朴な感情を、彼女は理解することができないのだ。
蓮は驚いたように目を瞬かせた。それから、慈しむような柔らかい笑みを浮かべる。
「そっか。でもね、凜ちゃん」
パンを一口かじり、空を仰ぎながら蓮は続けた。
「自分の気持ちを『分からない』って正直に言えるの、すごく誠実だと思うよ。私は、好きって決めつけちゃった。もう、引き返せない場所に自分を置いちゃったから」
その声には、揺るぎない覚悟と、裏返しの微かな不安が同居していた。
十年の文通。同居という選択。そして、朝の馬乗りキスという大胆な行動。
蓮は、すべてを賭けた。颯太のために。そして、自分の想いを形にするために。
「蓮さんは、後悔していないの?」
凜が、そう問いかけた。
「後悔?」
蓮が、考えるように呟く。
「あるよ。いっぱい。毎日。本当に大丈夫なのかな。俺、彼に愛してもらえるのかな。そういう不安は、いつもいっぱい抱えてる」
蓮の言葉は、意外だった。凜は、蓮を「迷いのない少女」と思い込んでいたのだ。だが、蓮もまた、彼女と同じく、不安と戦っていたのだ。
「でもね」
蓮は、空を見上げた。その瞳には、星が映り始めていた。
「その不安よりも、彼とここにいる時間の方が大事なんだ。だから、私は前に進むの。もう、後ろを向かない」
その言葉には、決意がある。そして同時に、儚さもある。
蓮という少女は、本当に「天使」なのだ。純粋で、美しくて、そして切ない。
凜は、隣に座る蓮の横顔を凝視する。
残光を浴びて、彼女の存在はどこまでも美しく、そして切ない。
銀白色の髪が風に揺れ、その顔は、本当に天使のようだ。
(でも……)
凜は、心の奥で思った。
その輝きに、私は膝を屈するつもりはない。
なぜなら、凜は「氷室凜」として、この世に存在しているからだ。
「聖女」としてではなく、「優等生」としてではなく、ただ一人の少女として。
「……それでも、久世さん」
凜は祈るように言葉を紡いだ。
「私は、貴女に負けるつもりはないわ。私が私であるために、絶対に」
蓮は一瞬呆気に取られたように動きを止めた。
だが、すぐに吹き出すように笑った。
「あはは! うん、知ってる。そうこなくっちゃ」
その笑顔には、挑発も卑下もなかった。ただ、同じ地平に立つ者への、純粋な敬意だけがあった。
その笑顔を見て、凜も、微かに頬を緩めた。
「一緒に、頑張ろうね」
蓮が、そう言った。
「……そんな風に言われると、毒気が抜けるわ。ずるい人」
凜が、そう返す。
二人は、どこか晴れやかな顔で笑い合った。
その笑顔は、本当のそれに見えて、同時に、悲しみを秘めたものでもあった。
同じ人を想いながら、同じ方向を向くことは決してできない。けれど、こうして同じ高台から、刻一刻と迫る未来を共に見つめることはできる。
それが、二人にとって、最高の「喜び」であり、同時に「苦しみ」でもあった。
夜は、静かに訪れた。
空の色がゆっくりと、夜の冷気へと沈んでいく。
宿泊研修という、日常の境界線が崩れる「非日常」がすぐそこまで来ていた。
明日の朝。学校に集合。そして、バスで目的地へ。
その三日間で、何が起こるのか。誰の想いが夜空に届き、誰が朝露に濡れて立ち止まるのか。
その答えはまだ、風の中にしかない。
その同じ時刻。
颯太は、自室で荷物の最終確認をしていた。
シャツ。ズボン。そして、あの水着。
その水着を見つめるたび、颯太の心臓は激しく鼓動した。
(明日か)
たった一つの言葉が、彼の心に何度も響く。
蓮。凜。隆之介。そして、自分。
その四人が、同じ班で、同じ宿泊施設で、毎日を過ごすのだ。
(俺は、どうすればいいんだ)
その問いに、颯太は答えを持たなかった。
その同じ時刻。
蓮は、自室で颯太からの手紙を読んでいた。
十年分の手紙の中から、最も古いもの。
小学三年生の時に、彼が送った初めての手紙。
「蓮へ。遠く離れるけど、毎日のこと教えてね。そして、迎えに行くからね」
その約束を、蓮は十年間、守り続けてきたのだ。
そして、今日、彼女は最後の歩を踏み出そうとしていた。
宿泊研修という舞台で。
三日間で。
すべてを賭けて。
ただ一つ確かなことは。
二人の少女はもう、自分に嘘をついて後戻りすることだけはしない。
夕闇の中で交わした静かな誓いが、これからの嵐を予感させていた。
朝は、すぐそこまで来ていた。




