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白亜の天使様は離さない。  作者: mukakinoji_


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3/15

第二話

 覚醒の瞬間、肺の空気がすべて吸い出されたような錯覚に陥った。

 視界のすべてを、蓮の顔が占拠していた。

 長い睫毛。涼やかな鼻梁。そして――

 ――あまりにも、近すぎる。

 物理的な距離が、日常の許容範囲をとうに踏み越えていた。反射的に身を引こうとしたところで、結城颯太は自らの身体が自由を失っていることに気づいた。

 みしり、と肋骨のあたりに確かな重みが加わる。

 蓮が、颯太の身体に馬乗りになっていた。

「……っ」

 驚愕が喉の奥で硬い塊となり、声にならない音として漏れる。蓮は微動だにせず、ただ射抜くような視線で颯太を見下ろしていた。

 その瞳は、深海のように静かで、それでいて何か激しい熱を孕んでいるようにも見える。

 朝の七時。結城家の颯太の部屋。ベッドの上での出来事。

「蓮、何を――」

 言葉を続けることはできなかった。

 蓮の双眸が、まるで光を失った深淵のようにも見え、同時に何か別の炎が燃えているようにも見えたからだ。

 沈黙が降り積もる。

 耳元で、心臓の鼓動だけが不自然なほど大きく鳴り響いていた。それが自分のものなのか、それとも、自分を組み敷いている蓮のものなのか、判別がつかない。

(これは……何なんだ)

 颯太の脳裏を、次々と疑問が駆け巡った。

 幼馴染。十年の文通。同居。そして昨夜。

 蓮からの「もう一度、約束して」という懇願。

 それに対して、颯太は答えられなかった。蓮への想いと、凜への想いの間で、揺れ続けたまま。

(俺は、何をしているんだ)

 だが、その思考は、蓮の次の行動によって完全に消し飛ばされた。

 永遠にも思える数秒が過ぎた頃。

 蓮は、ふっと憑き物が落ちたように表情を緩め、自嘲気味に小さく笑った。

 その笑みは、先ほどまでの狂おしい情念を秘めた瞳とはまるで別のもので、まるで天使が浮かべるような、柔らかで儚いものだった。

「……今はまだ、これだけしかできないから」

 掠れた、熱っぽい吐息とともに、蓮がゆっくりと顔を寄せてくる。

 颯太の脳裏に、警告のようなシグナルが灯った。

(何を――)

 咄嗟に目を閉じた。

 その瞬間。

 唇が触れたのは、唇ではなく――頬だった。

 羽毛が掠めたような、あまりにも淡い感触。

 しかし、その一瞬の接触は、電流のように颯太の全身を駆け巡った。

 肌が焼けるような熱さ。心臓の鼓動が、激しく加速する。

 呼吸が、乱れる。

「……許してね」

 懺悔のような呟きを耳元に残し、蓮は素早く身体を離した。困惑する颯太を置き去りにして、彼女は逃げるように部屋を飛び出していく。背後で閉まったドアの重苦しい音が、いつまでも耳の奥で反響していた。

 廊下に飛び出した蓮は、膝の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。結城家の二階。誰もいない、静寂の廊下。心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに跳ねている。顔が焼けるように熱い。耳たぶまで真っ赤に染まっているのが、自覚せずとも分かった。

 両手で顔を覆い、肺の奥に溜まった熱を吐き出す。

「……初キスって、勇気いるって……」

 震える指先で、自分の唇に触れる。

「ホントだったんだなぁ……」

 目標としていた場所には届かなかった。本来なら、彼女は颯太の唇に自分の唇を重ねるはずだった。十年待った。十年想い続けた。その想いを、形にするために。

 けれど。その瞬間が来たとき、蓮は自分の勇気の限界を知った。彼女は怖かった。本当に唇を重ねてしまったら、もう二度と戻れないかもしれない。この「まだ、何もない状態」から。この「可能性に満ちた状態」から。だから。彼女は妥協した。頬へのキス。

 その淡い接触で、十年分の想いを、そして今、この瞬間の決意を、颯太に伝えるしかなかった。

(それでも。それでも……)

 蓮の瞳が、再び輝き始めた。頬にあった彼の体温。耳で拾った彼の乱れた呼吸。彼の驚愕に満ちた表情。すべてが、蓮にとって何より尊い証だった。

「……彼は、私を見てくれた」

 独り言のように、蓮は呟いた。十年間、彼女が祈り続けたのは、この瞬間だ。颯太が自分に気づく瞬間。自分の存在を認識してくれる瞬間。

「もう、迷わない」

 蓮は立ち上がった。顔にはまだ、赤らみが残っている。心臓はまだ、乱れたままだ。だが、彼女の瞳には、確かな決意が燃えていた。

(凜ちゃんに、負けるわけにはいかない)

 蓮は、その時初めて、自分に立ちはだかる敵の存在を、完全に認識した。氷室凜。「学園の聖女」。颯太の隣の席に座る、完璧な少女。十年の文通よりも。同居よりも。その少女は、毎日、颯太の隣にいる。それは、蓮にとって、最大の脅威だった。


 登校中の朝の空気は、皮肉なほど澄み渡っていた。

 結城颯太と五味隆之介は、いつもの通学路を歩いていた。隆之介は、いつも通り軽薄な足取りで口を動かしている。

「そういえば、母さんが言ってたんだけどさ」

 颯太は努めて前を向いたまま、平静を装って言った。

「隆之介。お前、俺が帰ってくるの知ってたんだってな。なんで教えてくれなかったんだよ」

「ん?」

 隆之介は悪びれもせず、大仰に肩をすくめて見せた。

「ああ、言わなかったのはサプラァァァイズ。それにさ、知っってもチキって何もしなかったっしょ?」

「……お前」

 揶揄するような笑みに、颯太は言葉を詰まらせる。図星だった。昨夜、蓮が自室に現れたとき。颯太は、彼女と向き合うことができず、逃げるように目を閉じてしまった。そして、朝の馬乗りでさえ、抵抗することができなかった。

「なんだよ、その顔。朝から悪いな。蓮ちゃんの迎撃を食らった?」

 隆之介が、けらけらと笑った。その笑いの中に、確かな悪意が込められていた。修羅場観賞を愛する男の、その悪意。

「別に」

 颯太は、顔を背けた。だが、その仕草そのものが、隆之介の予想を正解へと導いていた。

「あ、マジか。何があった? 蓮ちゃんがお前に何か仕掛けた?」

「隆之介。朝っぱらからうるさい」

 颯太は、歩を早めた。隆之介も、それに倣って歩を速めた。そんな二人の少し後ろを、蓮は言葉少なについてきていた。颯太の横顔を見るたびに、胸の奥が、そして今朝触れた指先がじりじりと疼く。

 あの瞬間の、彼の吃驚した表情。乱れた呼吸。閉じられた瞳。すべてが、彼女の心に刻み込まれていた。

 そんな奇妙な緊張感が漂う彼らの前に、その影は現れた。

「あら、結城くん。おはよう」

 凜の声だった。

 朝の日差しの中、下駄箱の前に立つ凜。きちんと整えられた紺のセーラー服。完璧に梳かされた亜麻色の髪。そして、慈愛に満ちた笑顔。「学園の聖女」はいつもの通り、完璧であった。

 その瞬間、颯太の肩が目に見えて跳ねた。

 驚愕。そして、隠しきれない焦燥。

 颯太の視線が激しく泳ぎ、居心地悪そうに宙を彷徨う。朝日の中で頬が赤くなったのは、朝露のせいではなく――

 その反応を見た瞬間、蓮の胸にどす黒い独占欲が鎌首をもたげた。

 かつり、と。何かが、颯太の身体を貫いた。

 気づけば、蓮は無意識に颯太の腕を強く抱きしめていた。二人の間に楔を打ち込むように。もうどこへも行かせない、と呪いをかけるように。

 颯太は一瞬だけ蓮に視線を落としたが、すぐに、何かを耐えるように視線を逸らした。

 凜はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、氷のように冷徹で、それでいてすべてを見透かしたような眼差しで蓮を一瞥する。その視線の中には、何かが燃えていた。青白い炎のような。凍える刃のような。

 二人の視線が火花を散らすように交錯した。その一瞬の視線の交わりの中に、世界が二分されたように思えた。蓮のいる世界。凜のいる世界。そしてその間に、颯太がいる。揺れながら。迷いながら。

 凜は何事もなかったかのように、軽やかな足取りで教室の方へ去っていく。その背中を、颯太は呼び止めなかった。呼び止めることができなかった、と言う方が正しいのかもしれない。

 遠ざかる凜の背中を見送りながら、蓮は腕の中にある颯太の体温だけを頼りに、必死に現実を繋ぎ止めていた。


 一年B組。朝ホームルームの直前。

 空気が、明らかに異常だった。

 昨日までと何も変わっていないはずなのに。机の配置も。窓からの光の射し込み方も。だが、教室の「気」は、完全に変わっていた。

 凜が、自分の席で、ノートを広げていた。その表情は、いつもの通り穏やか。いつもの通り完璧。だが、その手に握られたシャーペンが、かすかに震えているのを、隣に座る成瀬雫は見逃さなかった。

「凜、お前の顔、壊れてる」

 雫が、低く囁いた。

「何を言ってるの?」

 凜は、笑顔を保ったまま答えた。だが、その笑顔の下には、何かが煮えたぎっていた。氷のような冷徹さで。絶対に負けないという執念で。

 雫は、その変化を見逃さなかった。小学校からの友人である凜の、本当の顔を。

「あー、また凜の本気が出てる。最高」

 雫は、嬉しそうに笑った。

「聖女の仮面が剥がれるのを見るの、最高だな」

 凜は、雫を見た。その瞳に、わずかに色彩が戻った。

「成瀬。お前、本当に」

「悪趣味? 知ってる。でもさ、凜の本気は最高だぜ。あの蓮ってアイドル、相手になるかな?」

 凜は、再び視線を前に戻した。窓の外。空を行く雲。だが、その瞳が見つめていたのは、現在ではなく、未来だった。これからやってくる戦い。颯太という「特等席」をめぐる、真の修羅場。

「……結城くん、私は……」

 凜は、呟いた。その言葉は、誰にも聞こえない、ただ一人の少女の決意の宣言だった。

「絶対に、負けない」


 学園の図書館。古典文学のコーナー。

 颯太は、『枕草子』を手に取ろうとしていた。昨夜からの混乱を、本に逃げ込むことで紛らわせたかったのだ。

 だが。その手は、半ばで止まった。

「……」

 視線を感じた。

 颯太がゆっくりと振り返ると、図書館の奥で、凜が読書していた。その瞳は、確かに自分を見つめていた。

 何秒間かの視線の交わり。そして、凜は微かに笑った。それは、いつもの聖女的な微笑みではなく、何かを誓うような、冷徹な微笑みだった。

 やがて、凜は視線を本に戻した。颯太も、同じように本に戻った。だが、その後の読書時間は、まるで意味がなかった。凜の存在。蓮の朝の行動。そして自分自身の、どうしようもない鈍感さ。その全てが、颯太の心を乱していた。


 放課後。颯太は、屋上に呼ばれた。

「蓮、ここはさ……」

「いいでしょ? 誰もいない」

 蓮が、屋上の端に立ち、風に髪をなびかせていた。その姿は、本当に天使のようだった。だが、その瞳には、昨夜と同じく、深海のような静寂と、熱い炎が秘められていた。

「十年待ったんだよ」

 蓮が、つぶやいた。

「今朝のキス。あれは、約束」

「蓮……」

 颯太は、言葉を失った。

「だから、もう決めて。そうちゃん」

 蓮の瞳が、より深くなった。

「『私を愛している』って。言ってください」

 その言葉は、懇願ではなく、命令に近かった。

「蓮。それは――」

「答えてください」

 颯太は、蓮の真摯な眼差しと向き合った。だが、その瞳の奥に見えるのは、十年の孤独。十年の想い。十年の「待つ」という地獄。

「俺は――」

 その時。風が、吹いた。蓮の銀白色の髪が、光に照らされた。その一瞬、颯太の心の中で、別の顔がよぎった。

 氷室凜。

「……ごめん」

 颯太は、目を背けた。蓮の表情が、一瞬、歪んだ。だが、すぐに元に戻った。

「……そっか」

 蓮が、笑った。その笑みは、悲しくて、そして狂おしいほどに一途だった。

「まだなんだ。そっか」

「蓮――」

「大丈夫。待つから。十年も待ったし。後、十年待つのも平気だよ」

 蓮は、颯太に近づいた。そして、彼の胸に、静かに抱きついた。

「だから。いつか、『愛してる』って言ってね。その時まで、私は貴方のそばにいる」

 その声は、最も危険で、最も美しい約束だった。


 そしてその時刻。氷室凜は、自室のピアノの前に座っていた。

 ショパンのノクターン。彼女が愛する曲。だが、その音色には、いつもと違う激情が込められていた。指がピアノキーを叩く。激しく。執拗に。

(文通。同居。十年の呪縛)

 凜の脳裏に、言葉が響く。

(それがどうしたというの)

 その言葉を発した瞬間から、凜は変わった。聖女の仮面を被りながらも、その奥で、真実の自分が目を覚ましたのだ。氷のように冷徹な。独占欲に満ちた。絶対に負けない、という決意を秘めた、別の顔。

 指が、より激しくピアノを叩く。月光が、部屋を照らしていた。その光の中で、凜の表情は、もう聖女ではなく、獲物を見つめた狩人のそれであった。

(颯太君。あなたの隣にいるのは、私です)

 その決意は、もう絶対であった。蓮との十年の文通。同居という優位性。それらすべてに、凜は勝つ。いや、勝たねばならない。なぜなら、彼女は既に、その道に踏み出してしまったからだ。聖女の仮面を脱ぎ、本性を露わにする道へ。

 ノクターンが、より一層激しく響き渡った。夜の学園。誰も聞き手のない音楽。だが、その音色には、確かな決意が込められていた。

 三人の運命は、もう後戻りができない状態へと、急速に進み始めていたのだ。


 物語の幕は、静かに、そして確実に上がっていく。

 明日の朝、また新しい戦いが始まるだろう。「隣の席」をめぐる、三人の戦い。時間の価値をめぐる、三人の選択。

 そして――颯太は、何を選ぶのか。

 それは、まだ誰も知らない。颯太自身さえ、知らないのだ。

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