第二十一話
夜。
結城家の居間は、静寂に包まれていていた。
提灯のような優しい照明が、部屋を温かく照らしていた。
だが、その温かさとは裏腹に、心理的な緊張が漂っていた。
結城颯太は、ソファの上で眠っていた。
その寝顔は、無防備だった。心配事が一切、浮かんでいない寝顔。
朝から晩まで。学園での日常。帰路での三人との関係。そして、家での複雑な感情。
すべてが、颯太を疲労させていた。そして、その疲労から、颯太は眠りに堕ちていた。
蓮は、その颯太を見つめていた。
蓮の心は、複雑だった。
夏祭りでのキス。病院での凜の反抗。凜の家出。結城家への受け入れ。
すべてが、蓮の期待と、現実のズレを示していた。
蓮は、凜の席に座っていた。
いや。違う。蓮は、颯太から少し離れた、テーブルの上に座っていた。あえて、颯太の「隣」ではない場所に。
蓮の目は、颯太の寝顔を見つめていた。
その目の中には、何年分もの想いが詰まっていた。
10年。
蓮は、10年待った。
その10年間。颯太からの文通。毎日毎日。朝ドラの撮影で疲弊しながらも。蓮は、颯太のことだけを考えていた。
だが、現実は。
颯太は、蓮と凜の両方を好きだと言った。
その言葉が、蓮を傷つけた。同時に、蓮を強くさせた。
朝ドラで学んだ。儚い少女を演じることで。
自分の弱さを知ることは、強さになるということを。
蓮は、颯太に近づいた。
その動作は、そっとしていた。颯太を起こさないように。
蓮は、颯太の顔をじっと見つめた。
その顔は、本当に無防備だった。
蓮は、口を開いた。だが、その言葉は、聞こえるか聞こえないかくらいの音量だった。
「そう……ちゃん」
蓮が、颯太の名前を呼んだ。
だが、颯太は眠ったままだった。
「10年。本当に長かったんです」
蓮が、言った。その言葉は、颯太に向けられたというより、蓮自身へ向けられた言葉のようだった。
「あなたのことばっかり。考えてました」
蓮の声が、かすかに震えていた。
「朝ドラの撮影で。毎日毎日。あなたのことだけが、私を支えてくれた」
蓮は、颯太の手を握った。その力は、弱かった。
「でも」
蓮が、続けた。
「凜ちゃんのことも。好きなんですね」
その言葉は、申し訳なさと、同時に、別の感情も含まれていた。
それは、理解。受け入れ。
「そして。凜ちゃんも、あなたのことが好きなんですね」
蓮が、言った。
「だから。私は」
蓮の手が、颯太の頬に触れた。
「もう」
その手は、かすかに震えていた。
蓮の心は、複雑だった。
10年待った颯太に。今、別れを告げようとしているのか。
違う。蓮は、そう思った。
これは、別れではなく。新しい段階への入口。
蓮は、颯太の頬に。そっとキスをした。
それは、朝ドラで何度も演じた、そういう場面のようだった。
だが、これは演技ではない。
蓮の全てが、そのキスに込められていた。
10年の想い。
3ヶ月の朝ドラ撮影での疲労と、それでも颯太を思い続けた心。
凜への罪悪感。
そして、すべてを受け入れようとする、覚悟。
蓮のキスが、終わった。
颯太は、相変わらず眠ったままだった。
蓮は、颯太から身を離した。
その瞬間。
蓮の目には、涙が浮かんでいた。
だが、蓮は、その涙を拭わなかった。
蓮は、その涙を、颯太に見せたかったのかもしれない。
たとえ、眠っている颯太には見えなくても。
その時。
廊下の方から、音がした。
誰かが、歩いてくる音。
蓮は、その音に気づいた。
蓮は、颯太から离れた。
テーブルの場所に戻った。
その瞬間。
凜が、居間に入ってきた。
凜は、結城家での初めての夜を過ごしていた。蓮と同じ部屋で。
凜は、眠ることができなかった。
新しい環境。新しい生活。新しい自由。
それらが、凜の脳を刺激していた。眠りを許さない、そういう刺激。
凜は、水を飲むために、居間に来たのだ。
だが、そこには。
蓮がいた。
そして、颯太が眠っていた。
凜は、その光景を見つめた。
蓮の顔には、涙の痕跡があった。
颯太の頬には、キスの跡があった。
凜は、すべてを理解した。
蓮が、今、何をしたのか。
凜の心は、複雑だった。
同じように、蓮も颯太に想いを伝えたのか。
その事実が、凜を傷つけた。同時に、別の感情も与えていた。
蓮と凜の視線が、交錯した。
言葉は交わされなかった。
だが、すべてが理解された。
凜は、颯太に近づいた。
蓮は、何も言わなかった。
凜は、颯太の反対側に近づいた。
蓮の逆のポジション。
凜は、颯太の顔をじっと見つめた。
その顔は、無防備だった。
凜の心は、複雑だった。
三ヶ月間。「隣の席」で積み重ねた毎日。その毎日が、何の意味も持たないのか。
それとも、別の意味を持つのか。
凜は、颯太の手を握った。その力は、蓮が握った時よりも強かった。
「結城くん」
凜が、颯太の名前を呼んだ。その声は、聞こえるか聞こえないかくらいの音量だった。
「私は」
凜の声が、続いた。
「あなたのことが、好きです」
その言葉は、単純だったが、確実な力を持っていた。
「三ヶ月間。毎日毎日。隣の席で。あなたのことを見つめていました」
凜の声が、かすかに震えていた。
「それは、恋愛なのか。それとも、執着なのか。私にも、わかりません」
凜が、続けた。
「だが。確実に。あなたのことが、好きです」
凜の手が、颯太の頬に触れた。
「そして。蓮も。あなたのことが好きなんですね」
凜が、言った。その言葉は、申し訳なさではなく。理解のような響きがあった。
「なら。私も」
凜は、颯太の反対側から。
颯太の左頬に。そっとキスをした。
それは、蓮のキスとは全く違う。
蓮のキスは、柔らかく、儚かった。
だが、凜のキスは、強かった。その強さの中に、執着と、愛と、そして別の何かが混在していた。
凜のキスが、終わった。
凜は、颯太から身を離した。
その瞬間。
二人の女性が、それぞれ、颯太の両頬にキスをした。
蓮が左頬に。凜が右頬に。
颯太は、その全てを、眠ったままで受けていた。
颯太の寝顔には、何の変化も浮かんでいなかった。
だが、その無防備な寝顔は。
蓮と凜の全ての想いを、受けとめていた。
その時。
蓮と凜の視線が、再び交錯した。
言葉は交わされなかった。
だが、その視線の中には。
複雑な感情が満ちていた。
ライバルでありながら。仲間であり。同志であり。
そして。颯太を愛する者同士。
蓮は、凜に頷いた。
その頷きの意味は。
「これからも、一緒にいようね」
そういう意味だったのか。
それとも。
「この戦いは、終わらない」
そういう意味だったのか。
凜も、頷いた。
その頷きの意味も、複雑だった。
二人は、颯太を見つめた。
眠ったままの颯太。
その颯太の両頬には。
蓮と凜のキスの跡が、かすかに残っていた。
それは。
高1の終わりを象徴していた。
そして。
高2への入口を示していた。
蓮は、居間を出た。
凜も、続いた。
二人は、廊下を歩いた。
言葉は交わされなかった。
だが、その並び歩く姿は。
もう、敵ではなく。別の何かであることを示していた。
蓮が、凜に話しかけた。
「凜ちゃんと。これからも一緒にいたいです」
その言葉は、宣戦布告ではなく。共生宣言のようなものだった。
「ええ。そしてあなたも。一緒にいるしかないでしょう」
凜が、答えた。
その言葉は、皮肉ではなく。事実の陳述のようなものだった。
二人は、それぞれの部屋に戻った。
居間に残されたのは。
颯太のみ。
眠ったままの、無防備な颯太。
その颯太の両頬には。
蓮と凜の想いが、刻まれていた。
夜は、深くなっていった。
結城家の中で。
三人の複雑な物語は。
静かに、続いていた。
高1は、終わろうとしていた。
だが。
本当の物語は。
これからなのだ。
高2。
その先。
すべての物語が。
颯太の目覚めから、始まるのだ。
眠ったままの颯太。
その颯太が、いつ目覚めるのか。
そして、目覚めた時。
何を感じ、何を選ぶのか。
それは。
誰にも分からない。
だが、確実なことは。
その時。
すべてが、変わるということ。
それだけだった。
結城家の夜。
その静寂の中で。
新しい朝への予感だけが。
確実に存在していた。




