第二十話
朝。
結城家の玄関が開く音がした。
蓮が、凜を導いていた。颯太は、二人の後ろにいた。
凜は、初めて結城家の玄関に立った。
その家は、特に豪華ではない。だが、温かい。提灯のような温かさではなく。家族の団欒の中にある、そういう温かさ。
凜は、玄関で靴を脱いだ。
その動作は、他人の家に招かれた者のそれだった。完璧で。丁寧で。同時に、堅い。
「凜ちゃん、いらっしゃい」
結城家の母親、由美が、玄関に現れた。
彼女の顔には、何の嫌悪感もなかった。むしろ、包容力のある笑顔。
蓮が、すでに両親に、凜が来ることを説明していたのだろう。
「ああ、凜か。いらっしゃい」
結城家の父親、健一も、奥から現れた。
その顔には、温かさが満ちていた。
凜は、その温かさに、戸惑っていた。
自分の両親から与えられたことのない温かさ。それが、この家には満ちていた。
「あ、あの。お邪魔します」
凜が、言葉を紡いだ。
その声は、学園での「聖女」の声ではなく。病院での「反抗」の声でもなく。
ただ、一人の少女の、恐る恐るした声。
「いえいえ。蓮が、同じように家族として迎え入れてくださいと言ってくれたから。当然ですよ」
由美が、笑顔で言った。
その言葉の中には、何の条件もなかった。
凜は、その言葉に、涙が出そうになるのを感じた。
だが、凜は涙を堪えた。学園の聖女として培った技術で。
由美は、そんな凜の頑張りに気づいていたかもしれない。だが、何も言わなかった。
代わりに、由美は、凜を台所へ導いた。
「朝食を用意していますから。どうぞ」
台所に入ると。
そこには、円卓があった。
朝食が、すでに用意されていた。
ご飯。味噌汁。焼き魚。漬物。玉子焼き。
すべてが、丁寧に、心を込めて作られたものだった。
颯太は、既にテーブルについていた。蓮も、その隣に座っていた。
凜は、その光景を見つめていた。
三人が、同じテーブルに座る。
それは、簡単なことではない。複雑な感情が、そこに存在している。
だが、この家では、それが自然に見えた。
凜は、テーブルについた。
颯太の隣ではなく。蓮の隣でもなく。その反対側に座った。
「隣の席」という特権を、凜は意識的に避けたのだ。
朝食が始まった。
最初は、沈黙があった。
だが、由美が話しかけた。
「凜ちゃん。朝食は食べやすいですか?」
その問いは、気遣いの言葉。何の詮索もなく。ただ、相手を思う言葉。
「はい。とても美味しいです」
凜が答えた。
その答えは、正直だった。母親が作った朝食よりも、ずっと温かみがあった。
颯太は、黙々と食べていた。
その様子は、普通だった。だが、凜は感じていた。颯太が、自分の動きを観察しているのを。
蓮も同じく。
凜は、その視線の重さに、気づいていた。
由美は、そんな三人の微妙な距離感に気づいていたかもしれない。だが、特に何も言わなかった。
代わりに。
「凜ちゃん。今日から、美咲の部屋を使ってもらうので。良かったら、好きなように使ってくださいね」
由美が、優しく言った。
凜は、その言葉に頭を下げた。
「ありがとうございます」
その言葉は、何度も何度も、繰り返した。
朝食が終わった。
由美が、片付けを始めようとした。
だが、凜は立ち上がった。
「あ。私が片付けます」
凜が、言った。
「いいですよ。ゆっくり休んでください」
由美が、言った。だが、凜は首を振った。
「いえ。これは、礼儀だと思いますので」
凜が、続けた。
凜は、食器を片付けた。その動作は、完璧だった。
三ヶ月間。朝から晩まで。両親の顔色を窺いながら、家事をしてきた身。その技術は、完全なものだった。
颯太は、それを見つめていた。
その見つめ方は、複雑だった。申し訳なさと、敬意と、同時に別の感情も。
蓮は、凜を見つめていた。
その見つめ方も、複雑だった。同じように。申し訳なさと、敬意と、同時に別の感情も。
朝食の片付けが終わった。
由美が、凜に声をかけた。
「凜ちゃん。簡単なツアーをしましょうか」
由美が言った。
凜は、頷いた。
由美は、凜を家中に案内した。
一階。二階。すべての部屋。
その過程で。凜は、この家の「温かさ」を感じていた。
それは、経済的な豊かさではなく。精神的な豊かさ。
家族が、本当に愛し合っている家の、そういう温かさ。
凜の実家には、それがなかった。
「ここが、美咲の部屋ね。今は、蓮ちゃんが使ってるけど。凜ちゃんも一緒に使ってもらいます」
由美が説明した。
凜は、その部屋を見つめた。
白を基調とした、清潔な部屋。蓮の選んだ色合いなのだろう。
そこに、凜のための荷物が、既に置かれていた。蓮が、病院から取ってきたのだろう。
凜は、その光景を見つめていた。
両親の家から連れてこられた荷物。
それが、新しい環境に置かれている。その違和感。同時に、新しい可能性の感覚。
「では、朝ご飯の後は、学校があるので」
由美が、時間を確認して言った。
凜は、頷いた。
朝は、まだ早かった。学校までは、時間がある。
由美は、凜を居間に案内した。
颯太は、既に机に向かって、古典文学の本を読んでいた。
蓮は、スマホを触っていた。おそらく、マネージャーや事務所からの連絡確認だろう。
凜は、そのどちらでもない場所に座った。
ソファの片隅。窓際。外の景色が見える場所。
凜は、外を見つめていた。
学園までの道。その道沿いに見える風景。
いつもの毎日。だが、凜にとっては、完全に違う毎日に変わろうとしていた。
時間が、経過していく。
颯太は、本を読み続けていた。
蓮は、スマホを終わらせて、窓を見つめていた。
凜は、同じく窓を見つめていた。
三人の間には、沈黙があった。
だが、それは、気まずい沈黙ではなかった。
夏祭りの直後のような、複雑な沈黙。だが、時間が経つにつれ、その複雑さは薄れていった。
やがて。
美月が、学校から帰ってくると予想される時刻に。
由美は、凜に声をかけた。
「凜ちゃん。学校へ行く準備をしましょうか」
凜は、頷いた。
由美は、凜に新しい制服を渡した。
凜のサイズの、学園の制服。
凜は、その制服に、戸惑っていた。
それは、両親の家から持ってきたものではなく。新しく購入されたものだった。
「あ。蓮ちゃんが、朝、買ってきたんですよ」
由美が説明した。
凜は、その制服を見つめていた。
蓮からの、新しい生活へのプレゼント。
その意味を、凜は理解していた。
凜は、その制服に着替えた。
完璧に。丁寧に。
だが、この時の着替えは、両親の期待に応えるためのものではなかった。
新しい人生を歩むための、装い。
そう感じた。
朝。出発の時刻。
由美が、三人を玄関まで送った。
「では、気をつけて行ってらっしゃい」
由美の言葉。
その中には、特に誰かを指していない。三人全員への、同等の言葉。
凜は、その言葉に、再び涙が出そうになるのを感じた。
だが、堪えた。
三人は、家を出た。
颯太。蓮。凜。
この三人が、一緒に学園へ向かう。
その光景は、誰の目にも、三角関係の延長に見えるだろう。
だが、その三角関係は、もう前と同じではない。
夏祭りでの出来事。病院での反抗。
すべてが、この三人の関係を、新しい段階へと進ませていた。
学園への道。
その途中で。
隆之介が、合流してきた。
「おす。あ、凜も?」
隆之介が、驚いた表情で言った。
凜は、その反応に応えなかった。
代わりに、蓮が説明した。
「凜ちゃんが、今日から結城家に」
蓮が、簡潔に言った。
隆之介は、その言葉の深い意味を理解していた。
凜の両親との決別。
蓮による助け。
そして、結城家への受け入れ。
「なるほど」
隆之介が、言った。その言葉の中には、詮索がなかった。
四人は、学園へ向かった。
その道中。
雫が、学園近くで合流してきた。
「凜。大丈夫?」
雫が、凜に話しかけた。
凜は、その言葉に頷いた。
「ええ。何とか」
凜の答えは、簡潔だった。
だが、雫は、その返答の中に、凜の本当の心情を感じていた。
五人は、学園に到着した。
正門前。
その場所で、五人は立ち止まった。
これからの毎日が、前とは全く違うことを。
すべてが、わかっていた。
颯太。蓮。凜。隆之介。雫。
この五人の関係が、これからどうなるのか。
誰にも、完全には予測できなかった。
だが、確実なことは。
ここから、新しい物語が始まるということ。
それだけだった。
颯太は、古い友人と新しい状況の間で。揺らぎ続けるだろう。
蓮は、颯太への想いと、凜への罪悪感の間で。揺らぎ続けるだろう。
凜は、新しい自由と、その自由に適応する困難の間で。揺らぎ続けるだろう。
だが、すべてが。
この朝の光の中で。
新しく始まった。
学園の正門。その場所で。
高1の物語は、終わりへと向かっていた。
同時に。
高2への物語が、始まろうとしていた。
その物語の中で。
颯太は、何を選ぶのか。
蓮は、どのように戦うのか。
凜は、どのように生きるのか。
すべてが、これからの時間に委ねられていた。




