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白亜の天使様は離さない。  作者: mukakinoji_


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第一話

 窓外から射し込む朝の光は、空中に舞う微細な埃の一つ一つまでを黄金に染め上げ、このありふれた教室を劇場の舞台へと変えていた。

 私立聖蹟学園高等部。一年B組。朝八時四十分。

 結城颯太の心臓は、隣席に鎮座する「学園の聖女」氷室凜の吐息を拾い上げるたび、不規則な鐘の音を鳴らしていた。

 朝日を透かした亜麻色の髪が揺れた。凜が、愛読する文庫本に銀の栞を挟む仕草。その優雅さは、誰かに見せるためのものではなく、極めて自然であり、だからこそ破壊的なまでに美しかった。

「――おはよう、結城君。また私の横顔を観察していたの? そんなに熱心に見つめられると、頁の文字が逃げ出してしまいそうだわ」

 鈴を転がしたような、透徹した声。

 凜は、いたずらっぽく小首をかしげた。その仕草は、一瞬で颯太の全身を電撃が走った。朝陽を透かした亜麻色の髪、そして指先の白さは磨き抜かれた象牙のようで、颯太のような時代に取り残されたアナログな人間には、眩しすぎるほどだった。

「あ、いや……おはよう、氷室さん。その、光の加減が、あまりに綺麗だったから」

 颯太は、素直に答えた。詭弁ではなく、本当のことだ。朝日が窓を通して、氷室凜の身体を包み込む光景は、もはや自然現象ではなく、芸術作品だ。

「ふふ、君は時折、小説のような言葉を吐くのね。嫌いじゃないわ」

 その微笑み――完璧に計算された、聖女的な微笑み――に、颯太は自らの拙い恋心が救われるような気がしていた。

(この「隣の席」という境界線こそが、僕の世界の均衡を保つ唯一の支柱であったのだ)

 隣の席で凜を眺める。凜の横顔を見つめる。その日常こそが、何もかもを支えていた。秩序を。平穏を。世界の法則を。

 物理的には数十センチの距離。だが、それは何光年もの隔たりとなり、同時に最高に近い距離でもあった。

「朝から当てられっぱなしだぜ、結城」

 背後から響く、聞き慣れた嘲笑。共通の幼馴染、五味隆之介だ。彼はバスケ部の県大会レギュラーで、学年二位の秀才で、そして何より修羅場観賞が最高の娯楽という、危険な趣味を持っていた。

「お前の視線で聖女様の氷が解け始めてるんじゃないか?」

 隆之介は、肩を叩きながら嘲笑した。その嘲笑は友情に満ちていたが、その下には確かな悪意があった。修羅場を愉しむ男の悪意。

「だが、お前のその『偽りの平穏』も、どうやら今日が最終回らしいぜ」

 不吉な予言が、預言者の口から零れ落ちた。

 颯太は、その言葉の意味を理解できなかった。

 その時、予鈴が鳴った。

 担任の田中先生が、教室へと滑り込んできた。温厚な中年の国語教師。だが、その顔は奇妙に高揚し、背後からは大気そのものを震わせるような「異質」な芳香が漂っていた。何か。何かが、変わろうとしていた。

「さて、今日は転入生を紹介する。特例での転入だから、皆は失礼のないようにな」

 田中先生は、教室の奥を見た。

「転入生を紹介する。……久世君、入りなさい」

 扉が開かれた。

 その瞬間。

 教室内の時間は、冷気によって一瞬で凍結した彫刻のように静止した。

 そこに立っていたのは、現実という枠組みを軽々と踏み越えた、神話的な美貌を持つ少女だった。

 雪のように透き通った肌。銀河を閉じ込めたような瞳。そして、何色にも染まることを拒絶する「純白」の威光。

 セーラー服を纏いながらも、それはあたかも宮廷の正装のように見えた。Luminousのセンター。国民的アイドル。全SNS合算で数千万人規模の熱狂的ファンを持つ超人気アイドル。

 久世蓮。

 だが颯太にとって、彼女は――

「久世……蓮……?」

 僕の唇から零れ落ちたその名は、静寂という池に投じられた重い石となった。

 その瞬間、教卓の前にいた少女の表情が変わった。

 アイドルの無機質な微笑がひび割れ、内側から狂おしいほどの情念が噴出する。

「――颯太そうたぁぁーーーーーーっ!!」

 それは叫びであり、絶唱であり、祈りでもあった。

 彼女は世界を、そして周囲の困惑を置き去りにして、脱兎のごとく教室の深部へと躍り出た。

「わっ、ちょっと、蓮――!?」

 椅子が床を鳴らし、立ち上がろうとした颯太の胸元に、暴力的なまでの質量が衝突する。

 蓮が、正面から颯太を「捕獲」したのだ。

「やっと……やっと見つけた! 迎えに来たよ、そうちゃん!」

 柔らかな肉体の重み。そして記憶の深淵に澱んでいた、懐かしい花の香りが鼻腔を蹂躙する。

 蓮は颯太の首に腕を絡め、自らの命を繋ぎ止めるように、力任せに抱きしめてくる。

「あの日、泣きながら誓った通り、私はあなたを迎えに来たんだから!」

 教室は、爆発した。

「嘘だろ、あの『白亜の天使』だぞ!?」

「なんであんな奴と!?」

「つーか、あいつ、アナログ人間じゃん」

 喧騒は暴動に近いものへと変貌していた。Luminousを、いや久世蓮を知らない人間がこの世にいるなんて。そんなことが可能なのか。

 だが、その嵐の中心で、颯太は見てしまった。

 隣の席で、つい先ほどまで慈愛の微笑を湛えていた氷室凜の瞳から、一切の色彩が欠落し、どろりとした深淵のような暗黒が広がっているのを。

 彼女の纖細で白い指が、握りしめたシャープペンシルを、断末魔のような悲鳴を上げさせながら砕き散らしたのを。

 そしてその瞳が、蓮と颯太を見つめ、何かを誓うように冷たく輝いたのを。


 放課後。

 颯太の世界は屈強な男子生徒と狂信的なドルオタたちによって包囲された。

 図書館の奥。人目につかない場所。それは一時間にも及ぶ、逃げ場のない「公開尋問」であった。

「吐け! 貴様のようなアナログ人間が、なぜ我らが久世蓮様を『蓮』と呼び捨てにできる!」

 狂信者たちの眼差しは、まるで異教徒を見つめるようだった。

「『そうちゃん』だと……!?」

 別の狂信者が、悲鳴を上げた。

「その親密すぎる呼称の裏にある穢れた過去を詳らかにせよ!」

 颯太は、ただ言い張った。自分たちの関係を。

「ただの幼馴染なんだ……! ずっと、文通をしていただけで……」

 その一言が、さらに火に油を注いだ。

「文通だと!?」

「古風すぎて逆に恐ろしいわ!」

「その十年分の呪いの重さを教えろ!」

「文通、同居、十年の呪縛」――彼女たちは、無意識のうちに、真実に到達していた。

 隆之介だけがその断末魔を動画に収め、愉悦に浸っていた。後々、修羅場観賞の栄光の瞬間として、何度も見返すのだろう。

 ようやく解放され、肩で息をしながら自宅の門を潜ったのは、黄昏が夜に呑み込まれようとする六時であった。

「……やっと、この悪夢から逃げられる……」

 祈るような心地で、リビングの扉を引いた。

 その瞬間。

 颯太は、そこに「真実の絶望」を見た。

「あ、おかえりそうちゃん! 遅かったね、みんなであなたを待っていたんだよ?」

 そこには、私服を纏い、すっかり「我が家の主」のような顔をした蓮がいた。

 結城家の円卓の中心で、彼女は微笑んでいた。

 その両隣には、颯太の両親がいた。父は、温厚に笑っていた。母は、蓮を見つめる眼差しで満ちていた。まるで失われた娘を取り戻したかのように。

 そして、妹・美月は、白目を剥いて、悶絶していた。

「推しが……推しが家に……夢?夢なの……?」

 気を失いかけている。

「蓮ちゃんは、今日からここに住むことになったの。いいでしょ?」

 母が、優しく言った。

「……なんで、ここに……」

 颯太の声は、呻きに近かった。

 蓮は、立ち上がり、颯太に近づいた。その動作は、計算尽くされていた。タイミングも。距離も。すべてが。

「今日からここが、私とそうちゃんの聖域。お姉さんの部屋を、私の居室として頂いたから」

 その言葉の響き――「聖域」「そうちゃん」「同居」――それらは、颯太の理性を一瞬で焼き尽くした。

 一日中にわたって晒され続けた精神的重圧と、目の前の異常事態。

 何百人もの狂信者からの質問責め。公開尋問。そして家に帰ってきたら、転校してきたアイドルが同居している。

 颯太の意識の糸はそこでぷつりと断ち切られ、身体は重力に身を委ねるまま、床へと崩れ落ちた。


 再び意識の岸辺に辿り着いた時、颯太は自室のベッドに横たわっていた。

 蒼い月光が差し込む、沈黙の部屋。

 夜中の二時。世界が眠っている時間。

 枕元には、椅子に座り、颯太の寝顔をじっと見つめる蓮がいた。

 その瞳は、輝いていた。涙で。

「……起きた? お疲れ様、そうちゃん」

 その声は、昼間の狂騒とは対極にある、繊細なガラス細工のような響きを帯びていた。柔らかく。そして、その奥に無限の深さを秘めた声。

 蓮は鞄から、一つの重厚な塊を取り出した。

 麻紐で丁寧に束ねられた、手紙の山。

 その一つ一つが、颯太の字で埋め尽くされている。颯太の美しい書道の文字。彼が毎回、丁寧に綴った、不器用な墨痕。

「これ……私の命よりも重いものなんだよ」

 蓮の声が、震えていた。

「孤独に押し潰されそうな夜も、あなたがくれたこの言葉があったから、私は天使を演じられたの」

 彼女の瞳から、涙が零れ落ちた。

 それは、Luminousのセンターとしての「白亜の天使」ではなく、ただ一人の少女の涙だった。

 世界中から愛と羨望を一身に浴びる「白亜の天使」が、たった一人の男が綴った、不器用な墨痕だけを信じて生き抜いてきたのだ。

 その歪なまでの一途さ。

 その狂おしいほどの情念。

 颯太の心は、氷室凜という聖女への「憧れ」という名の薄氷を突き破り、蓮という底知れぬ「愛」の深淵へと、ゆっくりと沈み始めていた。

「十年、待ったよ」

 蓮は、颯太の手を握った。

「でも、もう待たなくていい。私が迎えに来たから。だから」

 彼女の瞳が、深くなった。

「もう一度、約束して。『蓮のことを、愛している』って」

 颯太は、その言葉に答えることができなかった。

 蓮への想い。凜への想い。その両方が、彼の胸の中で、激しく衝突していた。


 同時刻。

 氷室凜は独り、自宅の机で颯太が落とした消しゴムを見つめていた。

 深紺の瞳が、画面に映る久世蓮のニュース記事を、冷徹に走査する。

「国民的アイドル、久世蓮が私立聖蹟学園に転校」

 その文字に、凜の指が反応した。

 握りしめたシャープペンシルが、かつかつと机を叩く音。

(文通。同居。十年の呪縛)

 凜の脳裏に、すべてが映った。

 朝日の中、彼が凜のノートを拾い、「字、綺麗だね」と褒めてくれた時。

 毎日、隣の席で、彼の横顔を眺めていた時間。

 その全てが、十年の文通と、同居という圧倒的アドバンテージの前に、無意味に見える。

「……文通、同居、十年の呪縛。……それがどうしたというの?」

 凜は、つぶやいた。

 その声は、聖女の仮面の裏から零れ落ちた、真実の呟きだった。

「今の颯太君の隣、その特等席にいるのは私。……絶対に、渡さないわ」

 彼女の指が、消しゴムを粉砕せんばかりの力で握りしめられた。

 月光の下、聖女の仮面は静かに、しかし決定的に剥がれ落ちていた。

 その奥に隠れていた、氷のように冷徹な、独占欲に満ちた真実の顔が露わになった。

 シャープペンシルは、砕けていた。

 消しゴムは、粉々になっていた。

 だが、凜の決意は、より強くなっていた。

(絶対に、負けない)

 それは、宣戦布告だった。

 颯太という「特等席」を巡る、真の戦いの、まさに幕開けだったのだ。


 三人の運命は、この瞬間から、完全に交錯する。

「隣の席」という均衡は、もう二度と戻ることのない、遠い過去になった。

 そして、颯太の「偽りの平穏」は、完全に終焉を迎えたのだ。

 次の朝、颯太は何を選ぶのか。

 蓮の「十年の愛」を選ぶのか。

 凜の「今」を選ぶのか。

 それとも――

 物語は、ここから始まるのである。

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