第十八話
颯太の「凜も好きだ」という言葉が、夜空に響き渡った。
その言葉は、蓮の全てを変えた。
いや。違う。
その言葉は、蓮の中で何年も前から続いていた、「このままでいいのか」という問いに、最終的な答えを与えたのだ。
蓮は、颯太から一歩身を離した。
その距離は、物理的には僅か数十センチ。だが、心理的には、途方もなく遠い距離。
蓮の心の中は、混乱していた。
期待していた。颯太が「蓮が好きだ」と言ってくれると。そう期待していた。
朝ドラの撮影中。毎日毎日。颯太のことだけを考えていた。
颯太からの文通の束を毎晩読み返す。その美しい書道の字を見つめる。その字に込められた、颯太の想いを感じようとする。
「絶対に迎えに行くからね」という、10年前の約束。その約束が、蓮の人生を支えてきた。
だから。
蓮は、颯太が自分だけを好きになると信じていた。
いや。信じたかった。
だが、現実は違った。
颯太は、凜も好きだと言った。
その言葉が、蓮の心を引き裂いた。
蓮の脳裏に、一つの光景が浮かんだ。
教室の「隣の席」。そこで毎日、颯太と凜が共有する時間。その時間の中での、何気ない会話。
蓮は知っていた。その「隣の席」という環境が、どれほどの力を持つのか。
毎日。毎日。「隣」という距離は、心理的な距離を縮め続ける。
それは、蓮が朝ドラの撮影中に経験していないもの。
蓮は、颯太のそばにいなかった。その三ヶ月間、蓮は颯太の「隣」にいなかった。
だが、凜は。凜は、毎日、颯太の隣にいた。
その事実が、蓮を追い詰めた。
蓮の体が、震えていた。
それは、怒りか。それとも、悔しさか。あるいは、絶望か。
すべてが混在していた。
だが、同時に。
蓮の中に、別の感情が目覚めた。
朝ドラで学んだこと。毎日、役を演じることで獲得した、何か。
「儚い少女」を演じることで学んだ、強さ。
それは、弱さをそのまま受け入れることではなく。弱さを知った上で、それでも前に進む力。
蓮は、その力を今、必要としていた。
颯太は、蓮を見つめていた。その目は、申し訳なさと、同時に何かの覚悟で満ちていた。
蓮は、その目を見ることができなかった。
自分の視線を、颯太から逸らした。
代わりに、蓮が見つめたのは、自分の両手。
その両手は、震えていた。爪が、手のひらに食い込んでいる。血が出ているかもしれない。だが、蓮には痛みを感じる余裕がなかった。
蓮の心は、別の場所にあった。
夏祭りの喧騒。提灯の光。花火の音。すべてが、蓮の意識の中では、音のない世界に変わっていた。
蓮は、深呼吸をした。その呼吸は、何度も何度も繰り返された。
朝ドラの撮影で学んだ、感情コントロールの方法。その方法を、蓮は今、使用していた。
心臓の鼓動が、徐々に落ち着いていく。
呼吸が、落ち着いていく。
だが、蓮の心は、完全には落ち着かなかった。
なぜなら。
蓮は、もう決断していたから。
颯太に言われるまでもなく。蓮は、自分の心の中で、すでに答えを出していた。
蓮は、颯太を失うことはできない。
だが、颯太は、蓮と凜の両方を失いたくないと思っている。
その優柔不断さ。その甘さ。その鈍感さ。
すべてが、蓮には愛おしかった。同時に、許せなかった。
だから。
蓮は、決断した。
颯太に、自分の想いを、体で伝えよう。
言葉は、もう必要ない。颯太は、蓮の言葉を聞いても、理解することはできないだろう。
だが、体で伝えることは、どうか。
そう思った。
蓮の顔が、真っ赤になっていた。
その赤さは、羞恥と、勇気と、決意の混在。
蓮は、颯太を見た。
その目には、何か新しいものが映っていた。
それは、子どもの瞳ではなく。朝ドラで学んだ、「儚い少女」でもなく。
純粋な女性としての、覚悟。
颯太は、その目の変化に気づいた。
だが、その意味を、颯太は理解することができなかった。
蓮は、一歩、颯太へと近づいた。
その距離は、もう数十センチ。
蓮は、颯太の顔を見上げた。
その時。
蓮は、颯太にキスをした。
それは、朝ドラの撮影で何度も演じた、そういう場面のように。
計算された、演技的なキスではなく。
純粋な、蓮の全てをぶつけるようなキス。
蓮の両手は、颯太の腕を掴んでいた。
その力は、強かった。絶望的な、離さないという力。
10年。
蓮は、10年待った。
その10年が、このキスに凝縮されていた。
朝ドラの撮影中の3ヶ月。その間、蓮は何度も、颯太にキスしたいという衝動に駆られた。
だが、それは、撮影の役の中での感情。
今は、違う。
これは、蓮の全てが込められたキス。
颯太は、その力に圧倒されていた。
拒否することもできず。受け入れることもできず。
ただ、蓮のキスを、受け止めるしかなかった。
蓮は、キスを続けた。
数秒か。数十秒か。
時間は、意味を失っていた。
ただ、蓮の想いだけが、その時間を満たしていた。
そして。
蓮は、颯太から離れた。
その時、蓮の目には、涙が浮かんでいた。
「……ごめんなさい」
蓮の声が、かすかに聞こえた。
その声の中には、申し訳なさと、同時に別の感情も。
蓮は、颯太の手を離した。
そして。
蓮は、颯太から走り去った。
提灯の光の中で。人々の喧騒の中で。
蓮は、颯太から逃げた。
いや。違う。
蓮は、颯太に追いかけさせるために、走ったのかもしれない。
だが、それは。
蓮自身にも、分からなかった。
颯太は、蓮の走り去った方向を見つめていた。
その瞬間。
背後から、颯太の名前が呼ばれた。
「颯太」
その声は、氷のように冷たかった。
颯太は、振り返った。
そこには、氷室凜が立っていた。
凜は、物陰から、全て見ていた。
蓮と颯太の会話。蓮のキス。すべてを。
凜の表情は、何も感情を示していなかった。それは、「学園の聖女」そのもの。だが、その目は、違う。
凜の瞳の奥に映るのは、氷。そして、黒い炎。
三ヶ月。
凜は、蓮がいない三ヶ月を、颯太の「隣の席」で過ごした。
毎日。毎日。颯太との時間を、積み重ねた。
その積み重ねが、何の意味もないのか。
そう思った時。
凜の中で、何かが壊れた。
いや。壊れたのではなく。聖女の仮面が、完全に剥がれ落ちたのだ。
凜は、颯太に近づいた。
その歩き方は、通常の歩き方ではない。それは、猛獣が獲物に近づくような、そういう歩き方。
颯太は、凜の異常さに気づいた。
「凜?」と呼びかけようとしたが、その言葉を発する前に。
凜は、颯太を掴んだ。
凜の力は、信じられないほどの強さだった。
颯太は、凜に押し倒された。
夏祭りの会場。誰も通らない、通行禁止の裏路地。
その場所で。
凜は、颯太を地面に押し倒した。
颯太の身体が、地面に叩きつけられた。
痛みが、颯太の脳に走った。
だが、それ以上に。
凜の行動に、颯太は何もすることができなかった。
凜は、颯太の上に覆いかぶさった。
その顔は、真っ赤に染まっていた。
そして。
凜は、颯太にキスをした。
それは、蓮のキスとは全く違う。
蓮のキスは、三ヶ月の朝ドラ撮影で失われた、柔らかさ。甘さ。そして、純粋さ。
だが、凜のキスは。
生々しい。圧倒的。支配的。
凜の全てが、そのキスに込められていた。
三ヶ月。凜は、何をしていたのか。
颯太の隣の席。その特権的な位置で。毎日。毎日。
颯太の横顔を見つめていた。
颯太の行動を観察していた。
颯太が、自分だけを見ることを、期待していた。
だが、蓮が帰ってきた。
蓮が、颯太を奪い返した。
そして、蓮が、キスまでした。
その事実が、凜を許すことができなかった。
凜のキスは、それに対する、反発。反抗。そして、支配宣言。
「結城くんは、私の隣にいるの。隣の席は、私なの」
凜が、キスの間に、颯太の耳打ちした。
その声は、聖女のそれではなく。獣のそれ。
凜のキスは、続いた。
数秒か。数十秒か。
数分か。
時間は、意味を失っていた。
ただ、凜の独占欲だけが、その時間を満たしていた。
そして。
凜は、颯太から離れた。
その時。
凜の手が、シャーペンを握りしめていた。
そのシャーペンが、その瞬間。
砕けた。
バリバリという音が、夜の空気を切った。
凜の手から、シャーペンの破片が、落ちた。
その破片は、月の光に照らされ、光った。
凜は、颯太を見つめた。
その目には、最高の執念が映っていた。
「私は、負けない」
その瞬間。
凜の両手が、颯太のシャツの襟を掴んだ。
引き裂くぞという、そういう力で。
だが。
その時。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「蓮!」
颯太の声。いや。
颯太の声ではなく。別の誰かの声。
凜は、その声に気づいた。
そして。
凜は、颯太から身を引いた。
そこに立っていたのは。
蓮だった。
蓮は、走って戻ってきていたのだ。
颯太を追いかけるために。
そして、凜の行動を見てしまった。
蓮の顔は、真っ白だった。
その白さは、恐怖の白。そして、別の感情も。
蓮は、凜を見つめた。
凜は、蓮を見つめた。
二人の視線が、交錯した。
その瞬間。
いや。その瞬間より前に。
凜は、動いていた。
凜の足が、もつれた。
凜の体が、倒れた。
その瞬間。
颯太は、凜を掴もうとした。
だが、凜は、颯太の手を払いのけた。
その力は、もう、ない。
凜の意識が、遠ざかっていた。
視界が、暗くなっていた。
三ヶ月。
聖女を演じ続けた。
両親の顔色を窺いながら。完璧さを求め続けた。
蓮が戻ってきて。キスをされて。
その上、自分まで颯太にキスしてしまって。
ここで倒れるのか。そう思った。
凜は、完全に意識を失った。
その時、凜の唇からは、わずかに血が流れていた。
それは。凜のキスが、その力の強さから。颯太の唇を傷つけたことを示していた。
颯太は、凜を抱きかかえた。
蓮は、その光景を見つめていた。
二人の関係の、すべてが、この瞬間に表現されていた。
愛。執着。支配。そして、自己破壊。
颯太は、凜の体温を感じていた。
その温もりは、もう、ない。
凜は、焼けるような体温になっていた。
颯太は、蓮を見た。
蓮は、颯太を見つめていた。
言葉は交わされなかった。
だが、すべてが理解された。
凜は、病院に運ばれる必要があった。
颯太は、蓮の手を掴むことなく。
凜を抱きかかえたまま。
夏祭りを去った。
蓮は、その後ろ姿を見つめていた。
その瞬間。
蓮も、自分の足がもつれそうになるのを感じた。
だが、蓮は、倒れることを許さなかった。
蓮は、手すりを掴んで。支えた。
自分を支えた。
蓮は、颯太と凜を見つめていた。
その二人が、夏祭りの光の中から消えていく。
蓮は、その光景を目に焼き付けた。
そして。
蓮は、何かを決めた。
これからの自分の道。
これからの行動。
すべてが、この瞬間から始まるのだと。
蓮は、夏祭りの喧騒の中で。
ただ、立ち尽くしていた。




