第十六話
放課後の教室。
大半の生徒が帰路についた時間帯。だが、完全には空いていない。
結城颯太は、机の上で本を読んでいた。古典文学。いつもの光景。
その本は、相当に古いものだ。明治時代の著作。その世界に完全に没入していた颯太は、時間の経過すら忘れていた。
だが、その平穏は、一本の電話によって破壊された。
スマホが鳴った。
あの会議室での出来事から三ヶ月ぶり。電話の主は、久世蓮。
颯太は応答した。先ほどの通話と同じく、電話の向こう側から蓮の声が聞こえてきた。
「そう……ちゃん」
その声には、何かが違っていた。
先ほどの夜中の通話とは異なる。より近い。物理的な距離感の感覚がない。
「蓮?」
颯太は、相手の名前を呼んだ。その声は、戸惑いに満ちていた。
「今、どこにいますか?」
電話の向こう側からの問い。
その声は——
段々と、近づいてくるのが分かった。
学園の廊下を歩く足音が、聞こえ始めた。カタン、カタンと。その音は、段々と大きくなっていく。
教室への扉へ向かう音。
その足音に、颯太の心臓が異常なほどに鼓動を始めた。
この三ヶ月。蓮を見ていない。
朝ドラの撮影の話を電話で聞いた。その疲弊した声を聞いた。だが、実際に蓮の姿を見たのは、もう三ヶ月も前だ。
その時間の重さが、一気に押し寄せてきた。
胸が高鳴る。足が動かない。
「蓮、まさか……」
颯太の言葉は、完成しなかった。
教室の扉が、ゆっくりと開く音がした。
その音は、まるで時間そのものが動く音のようだった。
そして——
蓮が立っていた。
三ヶ月ぶりの、蓮の姿。
朝ドラの撮影で変わったのか。細身の身体はさらに華奢に見え、だがその目は、三ヶ月前の儚さを失っていた。
銀白色の髪セミロング。透き通る青灰色の瞳。まさに「白亜の天使」そのものの姿。だが、その表情には。
確かな意志があった。
蓮は、スマホを握ったままだ。電話を終わらせることなく、颯太を見つめていた。
「ただいま」
その言葉が、教室に響き渡った。
それは、単なる帰宅の挨拶ではなく。
三ヶ月分の想い。三ヶ月分の時間。そのすべてが詰まった、一言。
その瞬間。
蓮は颯太に向かって、歩き始めた。
教室の中央を通る。その歩き方は、堂々としていた。
颯太の机の前に到達した時。
蓮は、スマホを握ったまま、颯太を抱きしめた。
三ヶ月ぶりの、蓮の温もり。
颯太は、その感覚に圧倒された。
実在する。蓮は、ここにいる。その事実だけで、颯太の世界は揺れた。
「蓮……」
颯太の声が、蓮の肩越しで途切れた。何を言えばいいのか分からなかった。
感謝。喜び。申し訳なさ。不安。
それらすべてが、一言に詰まろうとしていた。
だが、蓮は颯太を離さなかった。
むしろ、その力を強めた。
「三ヶ月。長かった。本当に、長かった」
蓮の声が、颯太の耳に直接届く。
その声には、泣きそうな響きがあった。だが、蓮は涙を見せなかった。
その言葉の重さ。
颯太は、蓮の髪の香りを感じていた。
銀白色の髪。その匂いが、颯太の脳裏に焼き付いた。
この香り。この温もり。この感覚。
三ヶ月間、失われていた感覚が、今、戻ってきた。
颯太は、蓮の髪に顔を埋めたいという欲望に駆られた。
だが、その時。
蓮は颯太を離した。
その動作は、急速だった。まるで、自分を抑制していた何かが、限界に達したかのような。
だが、その動作は、別の方へ向かっていた。
氷室凜。
彼女は、自分の席に座っていた。窓際。午後の光が彼女に降り注ぐ席。
その凜に向かって、蓮は歩いていった。
颯太の腕から離れ。別の少女へ。
その光景を見た颯太の心に、わずかな違和感が生じた。
だが、それを認識する時間もないまま。
「凜ちゃんにも、会いたかった」
その言葉と共に。
蓮は凜も抱きしめた。
凜の身体が、一瞬、硬くなった。
それは反射的な拒否だ。三ヶ月間、颯太を独占していた凜にとって。この光景は、予想外だった。
だが、その硬さは、すぐに消えた。
蓮の強さに。蓮の主導性に。すべてを奪われるような恐怖に。凜は身を委ねた。
「蓮……」
凜の声が、驚きと、戸惑いと、複雑な感情で満ちていた。
その中には、何かを失う恐怖も含まれていた。
蓮は、凜を抱きしめながら。
颯太の方を見た。
その視線。それは、確実に颯太へと向けられていた。
「明後日、二人と夏祭り、行きたいんですけど」
その言葉は、申し出ではなく、既定事実のような響きがあった。
蓮の声には、三ヶ月の沈黙を経て、確実に何かが変わった。
「白亜の天使」のような儚さではなく。
「朝ドラの儚い少女」のような脆さでもなく。
目的を持った、強い意志。
それは、朝ドラで百回、千回と演じた役から得たものかもしれない。
それとも、三ヶ月の孤独が、蓮に与えたものかもしれない。
「朝ドラ、終わったから。やっと、自分の時間ができたから」
蓮は、凜を離した。
そして、二人を見つめた。
その視線の中には、決定的な何かがあった。
「一緒に、行きませんか」
その問いかけに。
颯太は、答える前に。
蓮の目を見ていた。
その目の奥に、何があるのか。三ヶ月間、何を経験したのか。そのすべてが、その目に映っていた。
そして、凜は。
僅かな間を置いた後。
「……ええ。いいでしょう」
その返答は、驚きつつも、了承するものだった。
だが、その言葉の裏には。何かが隠されていた。
凜の表情は、複雑だった。
顔面には、変わりない「聖女」の笑顔が浮かんでいた。だが、その瞳には。怒りと、悔しさと、そして別の何かが。
黒い独占欲が。鎌首をもたげている。
だが、凜は拒否することができなかった。
蓮の強さに。蓮の主導性に。そして何より。
颯太を抱きしめた時の、蓮の本気に。
その時。
教室の隅にいた五味隆之介が、けらけらと笑い始めた。
その笑い方は、心底楽しそうで。同時に、何かを予期しているようだった。
「ああ、最高。最高だ。こりゃあ、修羅場の予感がしますな」
その笑い声は、教室全体に響き渡った。
それは、警告ではなく。期待の表現だった。
隆之介は、この三ヶ月、何が起きるのかを楽しみにしていたのだ。
蓮がいない日々を。颯太と凜の関係が深まる様子を。
そして、その両者が再び交錯する瞬間を。
その瞬間。
教室のざわめきが、大きくなった。
「え、ちょっと。蓮が戻ってきた?」
「マジで?三ヶ月もいなかったんだ」
「朝ドラ。あの、白亜の天使がやってた?」
「颯太と凜と蓮が夏祭り?」
「何それ。三角関係?」
「知ってる。蓮はアイドルだよ。Luminousの」
「えっ、本当?」
クラスメイトたちの声が、次々と重なり始めた。
その混乱の中で。
蓮は、颯太と凜の両方を見つめていた。
その視線の先には、確かな意図があった。
この三ヶ月。
蓮は、何かを決めたのだろう。
何かを覚悟したのだろう。
朝ドラで百人の視聴者の期待を背負った。
毎日、死ぬような思いで、役に向き合った。
そして、そこから得たのは。
恐怖を押し出す力。
儚さではなく、強さ。
そしてそれは、これからの全てを変えるだろう。
颯太は、蓮の顔を見つめていた。
三ヶ月ぶりに見た、蓮の表情。
そこには、以前の儚さはなかった。
あるのは、強さ。
そして、決意。
だが、同時に。
颯太の心には、複雑な感情が渦巻いていた。
蓮を抱きしめたいという欲望。
蓮に、ずっと会いたかったという想い。
三ヶ月の間、蓮のことだけを考えていたという事実。
だが、その一方で。
凜の表情を見ていた自分がいた。
凜の複雑な感情を感じていた自分がいた。
そして、その両方を傷つけてしまっているような申し訳なさがあった。
自分は、何者なのか。
蓮の、幼馴染なのか。蓮の、いえ、蓮が待ち続けた存在なのか。
それとも、凜の、隣の席の人間なのか。
その答えが、まだ見えていなかった。
教室のざわめきは、続いていた。
だが、その音の中でも。
蓮の目は、颯太だけを見つめていた。
それは、確実で。確固として。決して揺るがない視線。
夏祭り。
明後日。
その時間が、全ての決着の舞台になるのだろう。
そう、誰もが感じていた。
だが、颯太だけは。
自分がその舞台で、何を選ぶべきなのか。
その答えが、いまだに見えていなかった。
蓮の強さ。凜の執念。隆之介の笑い。
クラスメイトたちの期待。
すべてが、颯太に向けられていた。
だが、颯太は。
本を握ったまま。
その上に、落ちた影の中に、立ち尽くしていた。
時間は、刻々と進んでいく。
明後日まで、あと48時間。
その時間の中で。
颯太は、何を選ぶのか。
それは、まだ誰にも分からないだろう。
唯一の確実性は。
蓮の視線だけ。
それが、颯太に向けられ続けているという、それだけが。
確実な現在だった。




