第十五話
あの会議室での出来事から、三ヶ月が経っていた。
結城颯太にとって、その三ヶ月は奇妙な時間だった。
蓮の消息が、ぱったりと途絶えたのだ。
「隆之介、蓮のことなんだけど……」
放課後、バスケ部の隆之介を掴まえて、颯太は何度も同じ質問をしていた。
もう十回以上だろうか。いや、数十回かもしれない。毎日のように。
その度に隆之介は、同じ答えを返した。
「知らん。一点張り。マジで」
いつもなら茶化す隆之介が、この話題だけは真摯に答える。その顔つきから、本当に何も知らないんだと颯太は理解していた。
だが、隆之介が本当に何も知らないというなら。
蓮は、どこへ行ったのか。
その疑問が、颯太の胸の奥に、常に重くのしかかっていた。
結城家での蓮の姿を見たのは、いつが最後だろうか。颯太は何度も思い返した。
あの会議室での出来事から数日後。蓮は朝食のテーブルに現れなくなった。学園の教室にも。図書館にも。
颯太が蓮を探しに、彼女の部屋の前に立ったとき。ドアは施錠されていて、中からは何の音もしなかった。
その時、颯太は初めて理解した。
蓮が、物理的に消えたのだ。
蓮からの文通も途絶えた。
いや、途絶えたというより。送る機会がなかったのだろう。蓮は完全に、颯太の生活圏から消えたのだ。
朝、家で会うこともなくなった。学園でも。図書館でも。
結城家を離れた形跡もない。だが、部屋には彼女の荷物がある。衣服は。靴は。写真も。
そして、何より。
颯太からの文通の束は、相変わらず機の引き出しの中にあるはずだ。
蓮がそれを持ち出さない限り。
つまり、蓮は物理的には結城家に存在している。だが、精神的には、どこか別の世界に行ってしまったようだ。
それは、生きながらの幽霊のような状態。
同じ屋根の下にいながら、完全に隔絶された世界。
その事実が、颯太に与えた心理的な負荷は計り知れなかった。
その三ヶ月間。
颯太は何度、蓮に連絡するかを考えたか分からない。
スマホを手に取った。普段はメールと電話のみ。SNSなど一切しない彼が、自分でも信じられないほど迷っていた。
あの会議室で交換した、蓮の連絡先。
その番号は、颯太の手のひらの中にある。
だが、彼は何度も、連絡することを躊躇した。
連絡するべきか、しないべきか。
その問いの中で、三ヶ月が過ぎていった。
理由は、シンプルだった。
相手のいない時間が、あまりに長すぎたのだ。
三ヶ月。その間に、蓮がどんな理由で消えたのか。なぜ自分に連絡をしないのか。その答えを、颯太は想像することすら恐れていた。
もし連絡して、迷惑だったら。
もし、蓮が何か理由があって連絡を避けていたら。
もし、蓮がもう自分のことを——
その考えに至ると、颯太の胸が締まるような痛みを感じた。
言葉にならない、ただの痛み。
それが、颯太を、ずっと動けなくしていた。
だが、その一方で——
蓮のことを知りたい。
蓮が何をしているのか。なぜ連絡がないのか。無事なのか。その想いが、確実に颯太の中で膨らんでいた。
朝、家の中で。
颯太は何度も、蓮の部屋の前を通った。その度に、心臓が高鳴った。
だが、ドアを叩くことはできなかった。
ドアの向こう側で、蓮が何をしているのか。眠っているのか。それとも、颯太のことを考えているのか。
そのすべてが、不確実だった。
学園で。
颯太は何度も、蓮の名前を検索しようとした。だが、アナログ人間の彼は、検索の仕方さえ分からなかった。
インターネット。
その世界は、颯太にとって、蓮がいる場所なのだろうか。
蓮は、そのデジタルな世界に吸収されて、颯太の手の届かないところへ行ってしまったのか。
妹に聞くのも考えた。
美月はLuminousの狂信者だ。蓮の情報なら、彼女は詳しいはずだ。だが、蓮の情報を聞けば、すぐに大事になるだろう。
「お兄ちゃん、蓮お姉ちゃんのことなんか聞いてるんですか?」
その言葉を想像するだけで、颯太は躊躇した。
あの会議室で交換した連絡先。
それを使うという選択肢も、何度も浮かんだ。
だが、それも行動に移すことができなかった。
何を送ればいいのか。
どう言葉を紡げばいいのか。
三ヶ月の沈黙を、どう埋めればいいのか。
その問いの前に、颯太は立ち尽くしていた。
毎晩、その問いが彼を苦しめた。
三ヶ月。
それは、短い時間ではない。人生において、三ヶ月は確かな重みを持つ。
蓮がいない三ヶ月。その間に、何が変わったのか。何が変わっていないのか。
颯太にはそれが分からなかった。
そして、深夜。
颯太は自分の部屋で、スマホを握りしめていた。
手元は震えていた。
キーボードを操作するのさえ、力が入らない。だが、その小さな画面に、蓮の名前を呼び出す。
連絡先を開く。
その瞬間、颯太の心臓は激しく鼓動していた。
三ヶ月。その時間の重さが、一気に押し寄せてきた。
それは、崖の上に立つような感覚。
一歩踏み出せば、すべてが変わる。だが、その一歩が、どんな結果を招くのか。想像することもできなかった。
颯太は一度、スマホを置いた。
深呼吸をする。
その呼吸さえ、不安定に聞こえた。
もう一度。
キーボードに、指を置く。
『蓮へ』
その三文字だけで、一度削除した。
その言葉は、あまりに無責任だ。三ヶ月も沈黙した者からのメッセージ。それが、どれほど唐突で、不遜で、失礼なものなのか。颯太は痛いほど理解していた。
もう一度。
『お疲れ。最近、見かけないけど』
その程度の内容で、何度も消した。
それは、蓮に対して失礼だ。まるで、何もなかったかのように。三ヶ月の沈黙を、無視するかのように。
では、どう言えばいいのか。
その問いの中で、深夜は更に深まっていった。
颯太の心は、千々に乱れていた。
蓮への想い。
蓮に対する申し訳なさ。
そして、蓮が今、どこで何をしているのか知りたいという、切実な欲望。
それらすべてが、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
そして、ようやく。
夜明け前。
颯太は一つのメッセージを送った。
『蓮、大丈夫ですか。連絡ください』
短く。丁寧に。相手に負担をかけないように。
だが、その言葉の奥底には、三ヶ月分の不安と、蓮への想いが詰まっていた。
また別の何かも。颯太が言葉にすることすら躊躇う、複雑な感情。
送信ボタンを押した直後、颯太は後悔した。
迷惑だったかもしれない。夜中に、急に。三ヶ月も沈黙した後に。
相手がどんな状況にあるのかも分からないまま、無神経にメッセージを送ってしまった。
颯太は目を閉じた。
もう取り消すことはできない。
送られたメッセージは、蓮のスマホへと届いている。
そう思いながら、スマホの画面を見つめていた。
朝の光が、窓から差し込み始めた。
その瞬間だった。
既読。
小さな文字が画面に浮かんだとき、颯太の心臓が跳ねた。
蓮は、メッセージを見た。
今、この瞬間に。
つまり、蓮は——
蓮は、このメッセージを待っていたのか。
それとも、偶然、今この瞬間にスマホを見たのか。
その判断もつかないまま。
そして——
電話が鳴った。
着信音が、あの会議室での「ダメ!」という声と同じくらいの衝撃で、颯太の耳を貫いた。
蓮からの電話。
三ヶ月ぶりの、直接的な連絡。
蓮の音声。
颯太は、呼吸をするのを忘れた。
スマホを手に取る。その動作さえ、恐ろしく感じた。
画面に映る、蓮の名前。
その名前を見つめること、数秒。
数秒。それは短いように思えるが、その数秒の中に、颯太の心は無数の葛藤を経験していた。
答えるべきか。答えないべきか。
答えたら、すべてが変わる。
答えなかったら、また何か月も待つことになるのか。
颯太は応答ボタンに指を置いた。
その指が、実際に押される瞬間——
コール音は止まり。
「そう……ちゃん……」
蓮の声がした。
それは、颯太が知っている蓮の声ではなかった。
疲れている。限界まで疲弊している。だが、その声には何かがあった。
安堵。
いや、それ以上の何か。
まるで、長い水中にいた者が、ようやく息をする許可が下りたかのような。
その声には、三ヶ月分の想いが詰まっていた。
「蓮……?」
颯太は、相手の名前を呼ぶことしかできなかった。
その一言に、どれほどの疑問と、不安と、喜びが含まれていたのか。颯太自身も分かっていなかった。
それは、純粋な呼び声。
相手が本当にそこにいるのか確認するための、唯一の手段。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
蓮の声が、何度も繰り返される。
それは謝罪ではなく、絶望的な何かだった。
自分の存在を、何度も否定するような。
その背景には、何かが動く音が聞こえた。窓の音か、それとも人の気配か。
蓮は、今、どこにいるのか。
その場所から、どう見えているのか。
颯太はそれを考えることさえできなかった。
ただ、蓮の声を聞くことだけで精一杯だった。
「蓮、どこに……」
「撮影終了。ようやく……ようやく手が空いた。三ヶ月、ずっと……」
蓮の言葉は、断片的だった。
息つく間もなく、言葉が次々と溢れてくるようだ。
その中で、颯太は「朝ドラ」という単語を聞いた。
朝の連続テレビ小説。
蓮が主演で出演していたのだ。
毎日放送される、国民的なドラマ。
その撮影に、蓮は追われていたのか。
「蓮、朝ドラ……」
「はい。急遽、決まったんです。三ヶ月前。あの日の翌日に。事務所から連絡があって、『これ以上ない機会』だって」
蓮の声が、その経緯を語り始めた。
その中には、後悔も、申し訳なさも、そして一種の覚悟も混じっていた。
「でも、撮影が始まったら。毎日、朝4時起床。撮影は深夜まで。移動も多くて。スマホを触る時間さえ……」
その言葉の途中で、蓮の声が途切れた。
不覚にも、泣いているのだろう。
その泣き声さえ、颯太には愛おしかった。
「毎日毎日、朝日新聞の視聴者にどう見られているのか。国民的な期待。その重さで、何度も潰れそうになって。撮影の合間に、あなたのことを思い出すたびに、胸が痛くて……」
その声の奥底に、蓮の素顔がある。
「白亜の天使」ではなく。
ただの、疲弊した少女。
限界まで追い詰められながらも、何かに耐えている少女。
颯太は、その声を聞きながら、涙が流れていることに気づいた。
いつから流れ始めたのか。そもそも、いつ涙が出たのか。
颯太にはそれが分からなかった。
「連絡したかった。毎日毎日。でも、マネージャーから『個人的な連絡は控えるように。今はドラマに集中しろ』って。そして、撮影の疲弊で。気づいたら、三ヶ月が経ってた」
蓮の説明。
それは、彼女が颯太に伝えたかった、最初の言葉。
三ヶ月の沈黙の、全ての理由。
だが、それ以上に。
颯太は感じていた。
蓮が、どれほど精神的に限界だったのか。
颯太への想い。
それが、蓮を支えていたのか。それとも、蓮を苦しめていたのか。
その答えは、蓮の次の言葉にあった。
「毎晩、撮影が終わって。宿泊施設に戻ったら。あなたからの文通の束を読み返してました。あなたの字を見るたびに。『ああ、あの人は、私のことを覚えていてくれてるんだ』って。それだけで、次の日も頑張れた」
三ヶ月。
その期間、蓮は颯太だけを思い続けていたのだ。
いや。
颯太の文通の束を。
颯太の字を。
ただそれだけで、生き延びていたのだ。
毎晩。
撮影の疲労で全身が悲鳴を上げている中。
心が折れそうになっている中。
蓮は、颯太の字を読んでいたのだ。
「あたし、朝ドラで演じたのは。儚い少女でした。親を失った。友人を失った。そして、最後には、自分さえも失うんじゃないかって恐怖の中で生きる。そういう役」
蓮の声が、その役について語り始めた。
その役は、実は蓮自身だった。
颯太はそう感じていた。
「毎日、その役を演じながら。私自身も、同じような気持ちになってました。『私は、ここにいてもいいのか。あの人は、もう私のことを忘れてるんじゃないか。三ヶ月も連絡がないんだから』って」
その告白。
それは、蓮の本当の状態を示していた。
朝ドラで演じていた「儚い少女」。
それが、実は蓮の素顔だったのだ。
蓮も、親を失った。祖父母も失った。天涯孤独だ。
そして、今。
颯太さえも失うのではないか。
そんな恐怖の中で、蓮は生きていたのだ。
「でも、あなたからのメッセージで。全部、報われた気がします」
その言葉が、颯太の胸を打った。
蓮の絶望が、一転した瞬間。
「あなたは、私のことを忘れてくれなかった。三ヶ月間、文通を大事にしてくれた。そして、今。連絡くれた」
蓮の声が、その瞬間の感動を表現していた。
それは、単なる喜びではなく。
三ヶ月分の絶望が、一気に反転した瞬間。
その衝撃が、蓮の声に充満していた。
「ありがとう。ありがとう。本当に、ありがとう」
蓮の言葉が、何度も繰り返される。
その度に、颯太の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。
蓮に対する罪悪感。
なぜ早く連絡してあげなかったのか。
なぜ、蓮が何をしているのか知ろうとしなかったのか。
だが、同時に。
その罪悪感さえも、蓮にとっては価値があるのだという理解。
蓮は、待っていたのだ。
颯太の連絡を。
颯太が自分に気づいてくれることを。
そして、それが叶った瞬間。
蓮の三ヶ月分の苦悩は、報われたのだ。
電話の中で、蓮の呼吸が徐々に落ち着いていくのが分かった。
疲弊しきった少女が、ようやく安息の地に辿り着いた。
そんな感覚。
颯太は、蓮の呼吸音を聞きながら、自分の涙を拭った。
もう、涙を止めることはできなかった。
三ヶ月。その時間が、今この瞬間に、全て詰め込まれていた。
しかし、颯太は同時に、別の不安を感じていた。
学園の隣の席では。
氷室凜が、この瞬間、何をしているのか。
蓮の消息。
その三ヶ月間、凜はどう過ごしていたのか。
電話の向こう側で、蓮が颯太の名前を呼び続けていた。
だが、颯太の心の片隅には、別の少女の顔があった。
いや。その片隅ではなく、もっと深いところに。
もっと本質的な場所に。
その事実が、これからの物語の全てを決定づけるだろう。
三ヶ月の沈黙が、解かれた瞬間。
新しい、より複雑な沈黙が、生まれようとしていた。
それは、決して音のない沈黙ではない。
音のない世界の中で、最も大きな音。
それが、今この瞬間、颯太の心を満たしていた。
蓮の呼吸音。
そして、心の奥底で鳴り響く、別の少女への想い。
二つの感情が、颯太の中で激しく拮抗していた。




