第十四話
社長が去ったあと、会議室には奇妙な沈黙が残されていた。
その沈黙の中で、颯太は一つの矛盾を感じていた。天王寺社長の言葉は確かに恐ろしいものだった。だが、それ以上に恐ろしいのは、自分がその言葉の重さを理解していないということだ。蓮の気持ち。凜の気持ち。そして、何より自分自身の気持ちが、霧の中に閉ざされている。
重たい空気に耐えきれず、颯太が椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「ねえねえ、結城くん」
軽やかな声とともに、目の前に影が差す。
振り向く間もなく、ぐいっと距離を詰めてきたのは――
火野朱音だった。
彼女の瞳に映る興味は、純粋で悪意がない。だからこそ、その行動は無防備だった。
「さっきから見てて思ったんだけどさ。……蓮の幼馴染って、想像以上に面白い立ち位置よね」
「え、あ、は、はい?」
颯太の反応など気にも留めず、朱音はにこやかにスマホを取り出す。その動作は自然で、何の疑問も伴わない。Luminousのセンターの友人。だから、何でも聞いていいはずだ。そう彼女は思っていた。
「ね。ちょっと情報交換しない?
私は"アイドルの蓮"、あなたは"素の蓮"。……公平でしょ?」
その一言に。
部屋の奥で、蓮の肩が――ぴくりと跳ねた。
微かな動き。他の誰も気づかない、ほんの一瞬の反応。だが、颯太にはそれが何を意味するのか、言葉にならずとも伝わってくるものがあった。
「連絡先、交換しよ」
「えっ、ええっ⁉」
なすすべもなく差し出されたスマホを前に、颯太は反射的に受け取ってしまう。その行為に、意志はなかった。ただ、与えられた選択肢に従っただけ。
「ちょ、朱音……」
蓮が止めようとしたが、もう遅い。
ピコン。
軽快な音が鳴り、連絡先交換は成立してしまった。その音は、何かの境界線が引かれた音のようにも聞こえた。
颯太は気づいていなかった。蓮の声に含まれていた、微妙な震え。それは怒りではなく、もっと複雑な何か。自分以外の誰かが、颯太との「繋がり」を持つことへの、本能的な不安。
その一連を。
氷のような視線で見つめていた凜が、静かに一歩前へ――出る前に。
誰かが近づいてきた。
「…………あっ」
背後から、突然ぬくもりが押し寄せた。
「……え?」
颯太の背中に、柔らかな感触。驚いて振り返ろうとした瞬間、ぎゅっと腕が回される。
その感触の主は、水瀬葵だった。
「ご、ごめんなさいっ……!」
慌てた声。だが、それは本当の謝罪なのか、それとも言い訳なのか。葵自身にも判断がつかないほどの混乱がそこにはあった。
「えっ、み、水瀬さん⁉」
「ち、違うんです! その、私、こういう"普通の男の人"と話したことなくて……距離感が……!」
言い訳とは裏腹に、完全なバックハグの体勢。葵は戸惑っている。だが、同時に何かを思い出そうとしている。颯太という男が、アイドルの蓮にとってどれほど特別な存在なのか。そしてそれが、今この瞬間にどんな意味を持つのか。
葵自身も状況を理解した瞬間、耳まで真っ赤に染まる。
「は、離れなきゃって思ったら、余計に……っ!」
ぎゅっ。
腕の力が強まる。それは不安の表現だった。颯太という存在が、自分たちの世界にどれほどの重量を持つのか。その重さに耐えるため、思わず力が入ってしまった。
「ちょっと、離れ――」
――その時。
「ねえ結城くん!」
今度は正面から、無邪気な声が飛んできた。
星野陽葵。最年少で、常に明るく、誰の心にも寄り添うことができる彼女。だからこそ、彼女の無防備さは、時に他者の痛みを無視する。
「蓮と小さい頃どんな遊びしてたの?
ケンカとかした? 初恋っていつ?
え、もしかして蓮の昔のあだ名知ってる?」
星野陽葵が、至近距離で質問を連射する。その言葉の一つ一つが、颯太と蓮の間にある十年という時間を、まるで展示品のように扱っている。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一つずつ――」
「えー、一つじゃ足りないよ!」
陽葵は屈託なく笑い、さらに距離を詰める。その行為に、悪意はない。ただ純粋に、蓮の幼馴染という存在に興味を持っているだけだ。
だからこそ、それは最も無防備な侵犯だった。
その様子を少し離れた場所から。
「……これは、いい画だなぁ」
と呟きながら、桃瀬桃香がにやにやとスマホを構えていた。彼女は最年少だが、最も計算高い。その視線は、人ではなく「コンテンツ」を見ている。
「センターの幼馴染×メンバー総絡み。
はい、記念に一枚。……あ、二枚」
カシャカシャ。
シャッター音が響く。その音は、颯太という人間が、もはや私的な存在ではなく、グループの共有資産になったことを告げているようだった。
――その光景を。
部屋の隅で、完全に唖然としながら見つめていた二人。
久世蓮。
氷室凜。
二人は言葉を交わさなかった。だが、二人の目に映るものは同じだった。自分たちの最も大切な人が、他者の領域に侵された光景。
蓮の場合、それは十年間の絆の冒涜に感じた。
凜の場合、それは「隣の席」という特権の喪失に感じた。
時間にして、ほんの数秒。
だが、その数秒は二人にとって、永遠にも等しい地獄だった。
(……は?)
蓮の思考は、完全に停止していた。
(……何を、しているの)
凜の思考も同じだった。
視線が交錯する。言葉はいらなかった。その目の奥に、共通の感情が灯っていた。
それは、怒りではない。
それは、恐怖だった。
自分たちの世界が、蝕まれている。颯太という光が、自分たち以外の人間にも照らされ始めている。それは、彼の特別性を失わせることではなく、自分たちが特別でなくなることを意味していた。
次の瞬間――
「「ダメ!!!!!!!!」」
会議室の空気が、物理的に震えた。
その声は、同じ周波数を持っていた。同じ感情の発露。同じ必死さ。
メンバーたちは驚いて振り返った。蓮はいつもの「白亜の天使」ではなく、何かを守ろうとする本能剥き出しの少女に見えた。凜は「学園の聖女」ではなく、獲物を前にした肉食動物のような冷徹さを放っていた。
「な、なにっ⁉」
朱音の驚きの声。
だが、彼女たちに構う者はない。
蓮は颯太の片腕を、
凜は反対側の腕を、
同時に、全力で引き寄せた。
その瞬間、颯太の体は、二人の領域へと回収された。
「ちょ、ちょっと待――」
颯太の抗議は、完全に掻き消された。二つの力が同時に働く。引き寄せる力。保護する力。そして何より、他者を拒否する力。
凜が口を開いた。
「触らないでください」
その声は鋭く、氷の刃のようだった。だが、その刃の先には、怒りではなく傷つきがあった。自分たちの領域を侵されることへの、致命的な恐怖。
「この人は、勝手に"絡んでいい存在"じゃないわ」
彼女の言葉は絶対だった。「隣の席」という特権意識。毎日の時間の積み重ね。それらが与えてくれた、譲れない矜持。
続いて、蓮。
彼女の声は異なっていた。凜のそれが「所有権の主張」なら、蓮のそれは「責任の表現」だった。
「ファンサービスの範疇を超えてる」
十年の文通。朝起きてから寝るまで共にしてきた時間。そのすべてが、蓮にとって颯太を守る責任を与えていた。
「……それ以上は、私が許さない」
蓮と凜に挟まれ、完全に保護された形になった颯太は、もはや何が起きているのか理解できていない。
二人の腕の力。その強さが意味するもの。
「え……え? 俺、なんか悪いことしました?」
その問いに、二つの声が同時に返された。
「してない」
「何もしてないわ」
二人の声が、ぴたりと重なる。
その瞬間、メンバーたちは初めて気づいた。自分たちが何かを踏み越えてしまったこと。そして、その踏み越えた先に、自分たちが決して入り込めない領域があることを。
朱音が苦笑い。
「あー……」
彼女の顔には、申し訳なさと同時に、別の感情が浮かんでいた。それは、蓮とこの少女、颯太を中心とした何かの物語が、自分たちの知らないところで深く刻まれているんだという理解。
「ごめんごめん、やりすぎたかも」
葵は顔を覆った。
「……なんで私は抱きついたんだろ……」
彼女は、自分の行為の無思慮さに気づきはじめていた。
「いやー、これは完全に"地雷"でしたね」
桃香は楽しそうにスマホをしまった。彼女は、この光景を記録することの危険性を初めて理解した。
部屋に残ったのは。
腕を掴まれたままの颯太と、
一歩も引く気配のない二人の少女。
蓮と凜は、互いを見ることなく、
ただ同じ一点――颯太だけを見据えていた。
言葉はなかった。
だが、はっきりと示されていた。
――彼は、私たちの領域だ。
――彼を傷つけることを許さない。
――彼は、私たちだけの光だ。
颯太の心臓は、今日何度目か分からないほど、限界を超えて騒音を立てていた。
そして、その心臓の音を聞いている二人の少女は、今ようやく気づき始めていた。
自分たちの感情が、怒りや独占欲ではなく、もっと原始的で、もっと切実な何かなんだということを。
颯太を失うことへの恐怖。
そして同時に、もう二度と手放さないという、絶望的な覚悟。




