第十三話
三日目、四日目の宿泊研修は、驚くほど平穏だった。
まるで、世界そのものが意図的に息を潜めているかのように。
詰め込まれた研修内容を消化し、点呼を終え、消灯とともに眠りに落ちる。
それはどこにでもある、代わり映えのしない「学校行事」の光景だった。
――表面上は。
凜と颯太の間に、爆発的な事件は起きなかった。
蓮と颯太の関係も、決定的な破綻や進展を迎えたわけではない。
だが、何も起きていないからこそ、危険だった。
言葉にされなかった想い。視線だけが交わした感情。触れなかった距離にこそ宿る、濃密な熱。
それらは逃げ場を失い、各々の胸の奥底で澱のように沈殿し、やがて臨界点へと向かって静かに温度を上げていた。
凜は、颯太を見つめることしかできない少女になった。
彼の表情の微かな変化を。彼の呼吸のリズムを。彼が誰かを見つめる時の瞳の色を。
すべてを記憶し、分析し、その意味を考え続けた。
蓮は、颯太の隣に座り、時折彼の手が自分に触れるのを待った。
十年間待ったその手。その温度。その意味。
いつ彼は、自分を「選ぶ」のか。その日を、彼女は待ち続けていた。
そして、颯太は。
二人に挟まれ、どちらにも応えられず、ただ息をする日々。
その葛藤は、毎日、彼の心を削っていった。
そして――最終日。
その均衡は、あまりにもあっさりと崩れ去る。
学校へ直帰する大型バスの前。
生徒たちが雑多に集まり、荷物を詰め込み、席を確保しようとしていた、まさにその時だった。
「……で?」
誰かの、何気ない、しかしあまりに無神経な声。
「結城の隣、誰が座るんだ?」
――それは、地雷原の中心に投げ込まれた一言だった。
刹那、空気が凍結する。
笑い声が止み、雑音が消え、視線だけが音を立ててぶつかり合う。
誰もが理解してしまったのだ。この問いには「安全な答え」が存在しないということを。
バス内の「座席」という物理的な現実が、抽象的だった「三角関係」を、具象化してしまったのだ。
沈黙を破ったのは、白亜の天使だった。
久世蓮は、当然のことを当然のように言った。
「決まっていないなら、私が座るけれど?」
躊躇も遠慮もなく、一歩前に出る。
その所作には、疑いようのない"格"があった。
この場の空気を支配してきた者だけが持つ、絶対的な重み。
十年間の時間が作り出した「重さ」。
文通という毎日の積み重ねが生み出した「優位性」。
同居という日常が保証する「特権性」。
そのすべてが、蓮の一歩に凝縮されていた。
だが――
「……私も」
その一歩と、ほぼ同時だった。
氷室凜が、震える声で、しかし明確な意志を込めてそう告げる。
彼女は蓮の隣へと並び立ち、真っ直ぐに前を向いた。
「颯太さんの、隣がいいです」
その言葉には、すべてが込められていた。
朝に拒絶されたこと。屋上で言えなかったこと。海辺で名前を呼び合ったこと。
夜中に蓮の部屋を訪れて宣言したこと。
そのすべての集大成が、この一言に凝縮されていた。
二人の視線が交錯する。
火花は散らない。
だが、譲らないと決めた者同士にしか生まれない、静かな圧力がその場を満たしていく。
周囲の生徒たちは、その圧力を感じた。
「学園の聖女」と「白亜の天使」。
二人の最強の少女たちが、対峙している。
その現実に、誰もが息を呑んだ。
「え、あ、ちょ、ま……!」
当の本人、結城颯太の制止は、完全に場違いだった。
彼の言葉は、その場の誰の耳にも届かない。
なぜなら、この状況は、もはや颯太の「選択」ではなく、蓮と凜の「決定」だからだ。
結論は、極めて物理的だった。
三人掛けの座席。
中央に颯太。
右に、完璧な沈黙を纏った女神・蓮。
左に、颯太の制服の袖をぎゅっと掴み、彼しか見ていない聖女・凜。
――そうしてバスは走り出した。
その光景は、学園の全員に目撃されていた。
後の数日間で、その光景は「伝説」となり、やがて「史実」へと変わるだろう。
数分も経たないうちに、颯太はようやく異変に気づく。
「……なあ。これ、めちゃくちゃ見られてないか?」
「見られてるどころか、目撃されてる」
通路側から、隆之介が腹を抱えながら笑いを堪えていた。
彼の嘲笑は、確かに状況の深刻さを物語っていた。
「教科書に載る案件だぞ。『学園の象徴二名、一人の一般男子を挟撃』。記念写真、撮っとくな」
「やめろォ!!」
軽快なシャッター音。
颯太の精神力が、確実に削られていく。
だが、その削られる様子さえも、隆之介は楽しんでいるのだ。
修羅場観賞家としての本領発揮。
両隣は対照的だった。
蓮は一切反応せず、ただ前を見据える。
その沈黙は、圧倒的だ。
十年間の「想い」が、言葉を失わせているのだ。
彼女は、今、何を感じているのか。
颯太の隣に座ることで、十年間の「願い」が形になったのだ。
凜は、周囲の視線など存在しないかのように、颯太だけを見ていた。
恐怖はない。迷いもない。
彼女の世界には、今、颯太しか存在していなかった。
自分が見た最初の朝。
「氷室さん、今日も可愛かったな」という独り言。
その言葉で、彼女は確かに「見られていた」ことを知った。
そして、その「見る」という行為は、相手を「失う」ことへの恐怖をもたらす。
だから、彼女は見つめる。逃げさせないために。
バスが学校の正門に到着する。
――そこに広がっていたのは、非日常だった。
異常な人だかり。黒塗りの高級車。空気を切り裂く歓声。
「……なに、あれ……」
颯太は、その光景の意味を理解できなかった。
だが、蓮は即座に察した。
Luminousのマネージャーからの連絡。事務所からの指示。
そして、彼女が知る「現実」。
蓮は、誰よりも早くバスを降りた。
人垣を割り、中心へ。
その瞬間、彼女は「久世蓮」という個人ではなく、「国民的アイドル」へと姿を変えた。
遅れて降りた颯太の目に映ったのは――
久世蓮。そして、彼女が所属する国民的アイドルグループの全員。
正門前は、一瞬でライブ会場と化した。
黄色い声。フラッシュ。完璧な笑顔と、完璧なファンサービス。
颯太は、初めて「蓮」の本当の姿を見た。
アナログ人間である彼は、これまでLuminousを知らなかった。
だが、その瞬間、彼は理解した。
蓮が背負っているもの。蓮が失うことのできない「別の自分」。
十年間、文通で繋いだ「蓮」は、実は、この「白亜の天使」と同じ一人なのだ。
それは、颯太にとって、衝撃だった。
呆然と立ち尽くす颯太の前で、その即席握手会は唐突に終わる。
「……見つけた」
Luminousのメンバーの一人が、迷いなく颯太の腕を掴んだ。
「ちょっと来て。話があるの」
それは、火野朱音。Luminousのダンスリーダーで、蓮の姉的存在だ。
抵抗は許されない。
他のメンバーも自然に周囲を固め、彼を校内へと連れて行く。
会議室。
そこには、颯太の両親がいた。
そして、蓮の育ての親であり、スターライトエンターテインメントの社長である男が待っていた。
天王寺剛三。業界の大物。蓮の「父」だ。
「結城くん」
低く、静かな声。
その声は、何十年も人を支配してきた男の、本当の声だ。
「蓮のことが、好きか?」
心臓が、嫌な音を立てる。
この男の前では、嘘をつくことはできない。
「俺、は……」
「待って、お父様――!」
蓮が止めに入る。
その声は、颯太の知る「蓮」そのものだ。
だが、社長はそれを制した。
「私は今、経営者ではない。蓮の父親として、そして一人の男として聞いている」
その言葉には、強い力があった。
十年間、蓮を支えてきた男。彼女の「親」として、この瞬間を待ってきた男。
逃げ場はなかった。
颯太は、深く息を吸う。
浮かぶのは、海辺で名前を呼び合った凜の笑顔。
そして、幼い頃からずっと隣にいた蓮の、不器用な優しさ。
二人。どちらも本当だ。
どちらの想いも本当だ。
そして、自分の想いも、本当だ。
だが、それを言葉にする勇気が、颯太にはまだない。
「……今の俺は」
言葉を選び、覚悟を込める。
「まだ、誰かを好きだと胸を張って言える人間じゃありません。だから……あなたの望む答えは、返せない」
その答えは、蓮に対する逃げだ。
だが、同時に、誠実さでもある。
颯太は、自分の心の中の混乱を、誤魔化さなかった。
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、社長は短く息を吐いた。
「……不合格だが、嫌いじゃない答えだ」
立ち上がり、扉へ向かう。
「私はこれで失礼する。あとは、好きにしたまえ」
扉が閉まる。
両親も、続いて出ていった。
蓮は、颯太を見つめたままだ。
その瞳には、何を感じているのか。
颯太には、それを読むことができない。
宿泊研修は、終わった。
バスに乗り、学園に戻り、解散式を迎え。
その翌日から、颯太たちは普通の学園生活へ戻った。
だが――彼らの物語は、ここから本格的に動き出す。
「隣の席」という「均衡」は、完全に崩壊した。
そして、その跡地に、新しい「関係」が生まれようとしていた。
蓮と凜。
二人は、もはや「敵」ではなく、「同志」だ。
だが、その「同志」は、同じ一人の男を求めているという、究極の矛盾を抱えている。
そして、颯太は。
自分が誰を選ぶべきか、まだわからない少年だ。
だが、選ばなければならない日が、確実に近づいている。
春は進み、季節は動く。




