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白亜の天使様は離さない。  作者: mukakinoji_


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第十二話

 窓の外、夜の帳が下りた相模湾の潮騒が、微かに室内まで届いていた。

 海辺の宿。その一室で、久世蓮は窓際のベッドに腰掛けたまま、指先でシーツの縁をなぞっていた。

(……うまく、やってるかしら)

 その問いは、夜の静寂に溶けて消えた。

 脳裏に浮かぶのは、不器用で、誠実で、どこまでもアナログな幼馴染――結城颯太。そして、彼と二人きりで夜の海へと向かった「聖女」、氷室凜。

 互いを傷つけることを極端に恐れ、慎重に距離を測るあの二人。その姿を思い浮かべた途端、蓮の胸の奥が、氷を飲み込んだように微かに軋んだ。

 それは、俗な嫉妬ではなかった。

 むしろ、その正反対だ。蓮が感じているのは、一種の「喜び」だ。

 ただ、十年間「文通」という細い糸だけを命綱にして、彼を想い続けてきた自分だけが抱える――祈りにも似た、痛烈な執着。

 その執着が、彼女の心をどのように支配しているのか。

 蓮は、その感情と向き合おうとしていた。

 なぜなら、彼女が「白亜の天使」として生きるためには、その執着を認識し、統制する必要があるからだ。

「……っ」

 そのとき、控えめな、それでいて意志の強いノックの音が、停滞していた空気を断ち切った。

 蓮は指先の震えを止めるようにシーツを握りしめ、ゆっくりと声を出す。

「……どうぞ」

 扉が開き、廊下の明かりを背負って一人の少女が立っていた。

 氷室凜。

 学園一の高嶺の花と称される彼女の佇まいは、しかし、蓮が見慣れた「完璧な聖女」のそれとは決定的に異なっていた。

 背筋は凛と伸びている。制服に乱れもない。

 だが、内側から溢れ出す熱を抑えきれないかのように、呼吸は僅かに浅く、その美しい瞳の焦点は、どこか遠い場所を彷徨っている。

 蓮は、その瞳の中に「本気」を見た。

 完全に制御された「学園の聖女」ではなく、素の「氷室凜」が、そこにいた。

「……お邪魔、だったかしら」

 掠れた声。蓮は静かに首を振った。

「いいえ。隆之介は気を利かせてシャワーへ行ったわ。今、この部屋には私しかいない」

 蓮は、あえて凜を一人にするチャンスを与えたのだ。

 そして、その機会を使い、凜がここに来たという事実は、彼女の「覚悟」を示唆していた。

 凜は小さく頷くと、重い足取りで部屋の中へ踏み込んだ。

 だが、ベッドの数歩手前――まるで見えない境界線が存在するかのように――ぴたりと足を止める。

 その距離感は、意図的だ。凜は、蓮との「距離」を維持しようとしていた。

「久世さん」

 その呼び声に、蓮は意識を一段、研ぎ澄ませた。

 国民的アイドル『Luminous』の不動のセンターとして培ってきた、人の本質を見極めるための感覚。

 それが、目の前の少女が「仮面」を脱ぎ捨てようとしていることを告げている。

 凜は一度、己の唇を強く噛みしめた。白い肌に赤みが差す。

 その赤みは、彼女の感情の激しさを示唆していた。

 それから、自らの退路を断つように、はっきりと言葉を紡いだ。

「……話したいことが、あるの。卑怯なままの自分でいたくないから」

 その言葉に、蓮は微動だにしなかった。

 彼女は、凜の決意の重さを感じていたからだ。

 蓮は微笑まなかった。アイドルとしての営業用の笑顔も、幼馴染としての慈愛も、今は必要ないと判断したからだ。

 彼女はゆっくりとベッドから立ち上がり、一人の女として凜と対峙した。

 その立ち上がる動作には、何かの「宣言」が込められていた。

「ええ。聞くわ。……全部」

 逃げ道を塞ぐ、静かなる宣戦布告。

 凜は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げ、夜の海で起きた出来事を告げた。

「……結城くんと、海に行ってきたの。二人きりで。……ううん、デートのようなことをしてきたわ」

 その言葉は、簡潔だが、すべてを語っていた。

 颯太と凜が、二人きりで海に向かった。そして、何かが変わった。

 それが何を意味するか。鈍感な颯太がどう反応したかはさておき、凜がどのような「覚悟」で彼の隣に立ったか。説明など不要だった。

 蓮は無言のまま、続きを促す。

 その沈黙は、凜を追い込むためのものではなく、むしろ彼女の言葉を受け止めるためのものだった。

「私は……今日まで、自分の感情を完璧に"管理"できているつもりだった。氷室凜という聖女を演じ、誰にも深入りせず、誰も傷つけない。それが一番正しい道だと信じてきたわ」

 凜の指先が、スカートの布地を千切れんばかりに握りしめる。

 その握りしめる動作は、彼女の内面の混乱を物語っていた。

 完璧さを保つために、どれほどの力が必要か。

 その力が、今、崩壊しようとしている。

「でも、あの人と話して分かった。……もう、管理なんてできない。彼に触れるたび、私の中の『聖女』が死んでいくの。ドロドロとした独占欲や、醜い嫉妬で、自分が塗り潰されていくのが分かる」

 静かな、しかし凄絶な告白だった。

 蓮の胸の奥で、何かがパリンと音を立てて割れた。

 それは、痛みだ。

 凜が、颯太に惹かれている。その事実は、蓮の十年間が「十年間」として成り立たないことを意味する。

 だが、同時に。

 蓮は、その痛みを受け入れていた。

 なぜなら、凜の告白は、蓮にとって「最高のライバル」の出現を示唆していたからだ。

「久世さん。あなたが、結城くんのことを誰よりも大切に思っているのは知ってる。十年間の文通、その重みに私が勝てるとは思っていない」

 凜の視線が、真っ直ぐに、鋭く蓮を射抜いた。

 その視線には、敵意はない。ただ、誠実さと、自分たちが同じ「立場」にあることの認識がある。

「それでも……私は、あの人に惹かれている。この疼きを、"なかったこと"には出来ない。……いいえ、したくないの」

 その言葉は、凜の覚悟の完成を示していた。

 彼女は、蓮と対抗することを決めたのだ。

 十年間の「やさしさ」を放棄して。

 自分の「完璧さ」を破壊して。

 颯太のために。

 張り詰めた沈黙。部屋の湿度が上がったかのような錯覚さえ覚える。

 蓮は、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。

 その呼吸は、感情を整理するためのものではなく、新しい「自分」を迎え入れるためのものだった。

 十年間、彼女は「幼馴染」として、「想い人」として、颯太に接近しようとしてきた。

 だが、その道には、もう一人の少女が立っていた。

 そして、その少女は、蓮の期待を遥かに上回る「強さ」を持っていたのだ。

 蓮は、凜の内に秘められた「白亜の天使」としての矜持を、言葉に乗せる。

「……正直ね、凜」

 その声は、驚くほど澄んでいた。

 蓮は、その瞬間に「宣戦布告」の意味を変えた。

 これは、凜への拒絶ではなく、承認だ。

「あなたがここに来る前から、予感はしてた。私が見込んだライバルが、あんな素敵な人の隣にいて、何も感じないはずがないって」

 凜の瞳が、驚愕に揺れる。

 蓮は一歩、その境界線を越えて歩み寄った。

 威圧ではない。共に戦う者への敬意。

「私ね、アイドルだから、誰かに選ばれる厳しさを知っている。だから……選ばれなかった理由を、あなたの遠慮や誤魔化しのせいにされたくない。私は、全力のあなたを振って、颯太くんを独占したいの」

 蓮は凜の目を、至近距離で見つめ返した。

 その視線には、敵意はなく、むしろ「期待」がある。

「あなたが今日、ここへ話しに来たこと。私は、最高のライバルとして誇らしいと思っているわ」

 その言葉に、凜は唖然とした。

 蓮は、凜を受け入れたのだ。

 敵ではなく、「同志」として。

「……それでも、私は止まらないわよ、久世蓮」

 凜の喉がひくりと鳴り、その瞳に「聖女」ではない、一人の情熱的な少女の火が灯った。

「本気だから。たとえあなたの十年間を壊してでも、私は彼の手を取りたい。……卑怯なこともしない代わり、慈悲もかけない」

「望むところよ」

 蓮の声は、確かだった。

 十年間の「やさしさ」は、終わった。

 これからは、「戦い」だ。

 二人の間に、敵意はなかった。

 あるのは、結城颯太という唯一無二の光を求めてしまった者同士の、絶対的な連帯と、それゆえの不譲。

 二人は、その時初めて、「対等」になったのだ。

「聖女」ではなく、「白亜の天使」ではなく、ただ一人の少女として。

 凜は、深く、深く頭を下げた。

 その仕草は、敬意と決意の表現だ。

「……報告は、以上です。おやすみなさい」

 その言葉が、宣戦布告の完了なのか、あるいは一時の停戦なのか。

 背を向け、部屋を出ていく凜の後ろ姿を見送りながら、蓮は微かに口角を上げた。

 その笑顔は、「白亜の天使」のそれではなく、一人の戦士のそれだ。

「いいえ。……これで、やっと同じ土俵に立てただけ」

 パタン、と扉が閉まる。

 窓の外では、また一つ大きな波が砕ける音がした。

 十年間の停滞は終わり、均衡は静かに、しかし暴力的なまでの速度で、崩壊へと向かい始めていた。

 蓮は、ゆっくりと窓に歩み寄った。

 夜の海を見つめる。

 その海の中に、彼女は何を見ているのか。

 十年間待った彼。そして、新しく現れた彼女。

 その両方を見つめながら、蓮は静かに呟いた。

「さあ、始めましょう。本当の戦いを」

 その呟きは、独白ではなく、自分自身への誓いだ。

 蓮は、もう逃げない。

 蓮は、もう「やさしさ」に逃げ込まない。

 ただ、自分の「本気」で、颯太のためにできるすべてを尽くすのだ。

 翌朝。

 宿泊研修の最終日が始まろうとしていた。

 三人は、もはや「三角形」ではなく、「三つの頂点」として、新しい戦いの舞台に立とうとしていたのだ。

 時は、満ちた。

 そして、物語の真実は、ここからが「本当の始まり」なのだ。

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