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白亜の天使様は離さない。  作者: mukakinoji_


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第十一話

 二日目の研修という過酷な行程が終焉を告げる頃、西の稜線は燃え上がるような朱に染まっていた。

 山の影は巨大な生き物のように這い出し、宿泊棟へと続く舗装路を刻一刻と飲み込んでいく。

 日中の喧騒は潮が引くように遠のき、後に残されたのは、肺の奥に澱のように溜まった疲労と、張り詰めた糸が切れた後のような、虚無に近い安堵だけだった。

 久世蓮は、自身の歩調を厳密に制御していた。

 乱れがちな呼吸を悟られないよう、肺に流れ込む冷たい夕気を一定の律動で刻む。

 白いブラウスの裾が風に揺れるたび、彼女の輪郭は夕闇の境界に溶け、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。

 その危うさの正体は、彼女の心の動揺だ。

 颯太と凜が、共に海へ向かう姿を見つめながら、蓮は何を感じたのか。

 それは「負けた」という感覚ではなく、むしろ「次のステージへ進む準備ができた」という、複雑な感情だった。

 十年の文通。同居という優位性。朝の馬乗りキスという大胆な行動。

 それらすべてが、この瞬間に結実するのではなく、むしろ「新しい局面」へと移行するための布石だったのだ。

 蓮は、その事実を受け入れ、同時に次なる戦略を練り始めていた。

「……もう、いいだろ」

 隣を歩く隆之介が、低く、押し殺した声で告げる。

 彼は蓮の横顔を直視しなかった。ただ、彼女が踏みしめるアスファルトの音に耳を澄ませ、その微かな乱れを鋭敏に感じ取っていた。

「今日は動きすぎた。お前のその顔色、ずっと周囲を欺けるほど安っぽくないぞ」

 隆之介の言葉には、確かな観察が込められていた。彼は、蓮の心の奥を見透かしているのだ。

 蓮の唇が、滑らかな弧を描く。それは数多の社交の場で磨き上げられた、非の打ち所のない「完璧な微笑」だった。

 だが、その微笑みの奥には、別の感情が隠れていた。

「ごまかしてなんていないわ、隆之介。私はただ――"やるべきことを、正しく全うしていた"だけよ」

 その言葉の裏にある、鋼のような自律心。隆之介はそれ以上、彼女の聖域に踏み込むことはしなかった。

 友人としての責任と、プライバシーの尊重のバランスを、彼は見事に保ち続けていたのだ。

 ただ、無言のまま階段を上がる歩幅を縮め、彼女の影に寄り添うように速度を落とした。

 その優しさが、蓮にはどれほど有難かったか。

 部屋の重い扉が閉まった瞬間、蓮を支えていた見えない糸が、ぷつりと断ち切られた。

 彼女は崩れるようにベッドの端へ腰を下ろし、深く、長い吐息を零す。

 指先が微かに震え、膝の上で強く握りしめられた。

 その身体から発せられるのは、もはや「白亜の天使」ではなく、ただ一人の少女の、疲労と混乱だ。

「先に戻るという選択は、賢明だったな」

 隆之介が壁に背を預け、腕を組んで窓の外を見る。

 彼は、蓮が颯太と凜の元へ向かわなかった理由を理解していた。

「ええ……」

 蓮は、乱れた前髪を払う気力すら惜しむように、ゆっくりと頷いた。

「……今、あの場所には、あの二人だけの純粋な沈黙が必要なのよ。私たちが混ざれば、それはただの雑音に成り下がってしまう」

 誰のことを指しているのか、説明するまでもない。

 蓮の瞳の奥には、今もまだ、ロビーに残してきた二人の残像が焼き付いていた。

 凜の震える手を握る颯太。そして、颯太の優しさに包まれながらも、自らのプライドを手放す凜。

 その光景は、蓮の心を揺さぶった。

「……負けては、いないのよ」

 蓮は、そう呟いた。その言葉は、自分自身への確認でもあり、誓いでもあった。


 一方、凜と颯太は、宿の裏手に広がる静謐な入江へと足を向けていた。

 引率の目から逃れたわけではない。それは「自由時間」という名の下に許された、危うい均衡の上に成り立つ二人だけの時間だった。

 彼女たちは、その時間を大切にしていた。なぜなら、その時間こそが「本当の二人」を作り出すからだ。

 入江へ続く小道は、海風に洗われた潮の香りが濃密に立ち込めている。

 波の音が、言葉という不確かな伝達手段を凌駕するほど、雄弁に耳を打った。

 凜が足を止める。視線の先には、空の茜を映し込み、鈍い光を放つ大海原があった。

 彼女は、初めて海を見た。

 写真や映像で予習しても、現実は全く異なるものだ。

 色彩。匂い。音。感覚。すべてが彼女の予想を上回っていた。

「……本当に、ここなんですね」

 彼女の声は、潮騒に溶けてしまいそうなほど細かった。

「映像や写真で、何度も予習したはずなのに。……温度も、この肌にまとわりつく湿り気も、全然違う」

 颯太は、その言葉を聞いて、彼女がどれほど「完璧さ」を求めてきたのかを改めて感じた。

 映像で予習する。写真で確認する。そうすることで、現実に起こりうる「不測の事態」を最小限に抑える。

 それが、凜のやり方だ。

 だが、今、彼女はそれを放棄している。完全な予測なしに、この海に立っている。

 それは、彼女にとって、どれほどの勇気を必要としたのか。

 夕暮れの海は、すべてを飲み込むような深淵の色を湛えながらも、決して二人を拒絶してはいなかった。

 近づけば触れられる距離。けれど、一歩でも足を踏み外せば、自分という存在の輪郭さえ失われてしまう――そんな、絶対的な境界線。

 海は、二人の関係を象徴していた。

 二人は砂浜の上に並び、しばらくの間、無言で寄せては返す波の規則性を見つめていた。

 その沈黙は、不快ではない。むしろ、共鳴するような深さを持つそれだ。

「……朝のこと」

 凜が、防波堤のように固く閉ざしていた口を開いた。

「あなたを突き放すような言い方をした。それは、あの時の私にとっては必要不可欠な防衛だった。……けれど、それが正しかったかどうかは、また別の話ね」

 彼女の言葉には、完全な謝罪ではなく、自分の心情の説明がある。

 それは、凜が「聖女」ではなく「人間」として、相手と向き合おうとしている証だ。

 颯太は、波に洗われる濡れた石を見つめたまま応じた。

「俺の方こそ、距離を読み違えていた。善意を免罪符にして、君の領域に土足で踏み込んでいたのかもしれない。……結果が君を苦しめるのなら、その過程にどんな理由があっても、俺の落度だ」

 彼の言葉には、相手を責めようとする気持ちはない。ただ、自分の責任を認め、相手の苦しみを引き受けようとする姿勢がある。

 互いに、相手を責めるための言葉を放棄していた。

 逃げ場のないほどに剥き出しの誠実さが、潮風に乗って二人の間を通り抜けていく。

「昔……まだ、自分が何者でもなかった頃、ひどく転んだことがあるの」

 凜は、遠い水平線を見つめながら、独白するように続けた。

「膝を擦りむいて、あまりの痛さに泣きそうだった。でも、泣くことは許されなかった。……そんな時、不意に、誰かが手を貸してくれたの」

 凜の視線が、わずかに揺れて颯太の手元に落ちる。

 その手は、十年前に彼女を救った手と同じものなのか。それとも、別の存在なのか。

「名前も知らない。顔も思い出せないほど微かな記憶。……でも、昨日、あなたが私の腕を支えてくれた時、その手のひらから伝わってきた熱が、記憶の奥底にある温度と重なったの」

 颯太の喉が、小さく鳴った。

 それが、幼い日の自分であったのか。確証はない。証拠もない。

 だが、心臓の鼓動が激しく打ち付け、胸の奥が熱い疼きを上げ始める。

 その疼きは、確実に何かを物語っていた。

「だから……混乱したの。その『温度』がもたらす感情を、今の私はどう処理すればいいのか、分からなかった」

 凜の言葉は、自分の弱さを認めるものだった。

 完璧さを失った自分。感情に支配される自分。そうした「弱さ」を、彼女は初めて相手に打ち明けたのだ。

 沈黙が再び二人を包み込む。

 しかし、それはもはや拒絶の壁ではなかった。お互いの存在を、等身大の人間として受け入れるための、聖なる「間」だった。

 波の音が一段と高く響いた時、凜が意を決したように息を吸い込んだ。

「……結城くん、じゃなくて」

「はい」

 颯太の返事は、即座だった。

「颯太って、呼んでもいい?」

 その問いは、稚拙な「恋」という言葉で片付けるにはあまりに重く、しかし確かに未来へと踏み出す、最初の一歩だった。

 それは、名前を変えることで、関係を変えることを意味する。

「学園の聖女」から「氷室凜」へ。

「結城くん」から「颯太」へ。

 そうした変化は、二人の関係が新しい段階へ進もうとしていることを示唆していた。

 颯太は驚きに目を見開き、それから、宝物を扱うような慎重さで深く頷いた。

「……光栄です。じゃあ。俺も、君のことを――凜、って呼んでもいいですか」

 その問いには、同等性がある。

 彼も、彼女と同じく、一人の人間として相手を見つめようとしているのだ。

「ええ……いいわよ」

 凜の返事は、柔らかかった。

 名前が、潮騒の残響に紛れて交わされる。

 他愛のないはずの音節が、空気を震わせ、世界を塗り替えていく。

「凜」

 颯太が、彼女の名を呼ぶ。

 その名前は、彼女の全てを呼びかけるようなそれだ。

「……颯太」

 凜が、彼の名を呼ぶ。

 その名前は、彼女が十年前に聞いた、あの温度を伝えるそれだ。

 ただ名前を呼ぶ。それだけの行為が、二人の間に通い始めた微かな熱を肯定していた。

 けれど、まだそれを"好き"とは呼ばない。言葉にしてしまえば、この美しい均衡が壊れてしまうことを、二人は本能的に知っていたから。

 だから、二人は何も言わない。ただ、名前を交わし、存在を確認し合うのだ。

 波が寄せては返すように。

 息をするように。

 自然に。

 そして、必然的に。


 その頃、宿の静まり返った一室で、蓮は横臥したまま天井の染みを見つめていた。

 身体は鉛のように重く、休息を欲している。だが、彼女の研ぎ澄まされた意識だけは、遠い砂浜で交わされているであろう二人の呼気を感じ取っていた。

 それは、超感覚ではない。むしろ、彼女自身の心が、遠く離れた彼らの心と通じ合おうとしているのだ。

「……正々堂々、よね」

 蓮は、誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟いた。

 同じ土俵に立つために、あえて踏み込まない場所を選ぶ。

 愛する者を奪わないために、最も残酷な「距離」を保ち続ける。

 それが彼女にとっての、唯一にして絶対の愛の証明だった。

 十年の文通。同居。朝の馬乗りキス。

 それらすべては、颯太が自分を見つめるための「準備段階」だったのかもしれない。

 そして、その準備が完了した今、蓮は別の戦い方を選んだのだ。

 白亜の天使は、未だ何も掴もうとはしない。

 ただ、崩れやすい硝子細工のような均衡の中で、静かに、そして気高く、自分の順番が巡ってくるのを待ち続けていた。

 その待ち方は、受動的ではない。むしろ、最も能動的で、計算し尽くされたそれだ。

 隆之介は、彼女のベッドの横に立ち、その横顔を見つめていた。

 彼は、何も言わなかった。言葉は不要だからだ。

 ただ、友人の側に立つことが、彼にできる全てだったのだ。


 残照が消え、夜が降りてくる。

 入江に響く潮騒だけが、三人の交錯する運命を静かに見守っていた。

 颯太と凜が、名前を交わすその瞬間。

 蓮が、天井を見つめながら、次なる戦略を組み立てるその瞬間。

 すべてが、必然として、この時間へ向かっていたのだ。

 宿泊研修は、最後の一日を残していた。

 その最後の一日で、三人の運命は、どのような形へと結実するのか。

 それは、誰も知らない。

 だが、確実なことは。

 三人それぞれが、自分の全てをかけて、この時間を過ごしているということだ。

 夜の暗闇の中で。

 波の音に包まれて。

 三人の心は、複雑に、そして深く、交錯し続けていたのだ。

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