第十話
朝の空気は、昨夜の残像を切り離せないまま、宿泊棟の廊下に沈殿していた。
山の朝特有の冷えが、板張りの床から足裏を刺す。氷室凜はその痛みに近い冷感をあえて受け入れながら、一歩ずつ踏みしめて歩く。
そうでもしていなければ、意識がすぐに昨夜の闇へ引きずり戻されそうだったからだ。
――転びかけた自分を支えた、強い腕。
――至近距離で重なった、熱い吐息。
――彼の胸元に聞いた、激しい鼓動。
凜は無意識に、自分の右手の甲を左手で強くさすった。まるで、そこにこびりついた熱を削り落とそうとするかのように。
だが、その熱は決して冷めない。むしろ、指先に残された温度は、彼女の一部となってしまったのだ。
(……くだらないわ)
凜は足を止め、深く息を吐き出す。白く濁った吐息が、冷たい空気に溶けて消えるのを冷ややかに見つめた。
あれはただの事故だ。物理的な接触に過ぎない。そこに意味を見出すのは、規律を重んじる自分に対する背信行為だった。
凜は、そう自分に言い聞かせた。
だが、その言い聞かせがどれほど無駄であるかを、彼女は既に知っていた。
自分を欺くことなど、もうできないのだ。
昨夜、彼女の手の中に残された熱は、彼女のすべてを証言している。
食堂へと続く曲がり角で、前方に見慣れた背中を見つける。
結城颯太。
その姿を認めた瞬間、抑え込んでいたはずの心臓が、肋骨の裏側を叩いた。
凜は、その鼓動を止めようとした。だが、それは不可能だ。心臓は、その人間の意志とは無関係に、鼓動を続けるのだから。
「……結城くん」
呼び止めるつもりはなかった。だが、名前を呼ぶ唇がわずかに震え、制止を振り切って声が漏れた。
その声は、彼女が発したものではなく、別の存在が彼女の体を借りて発したもののように聞こえた。
颯太が足を止め、ゆっくりと振り返る。
彼の眼差しには、昨夜と同じ熱が宿っていた。
彼も、眠れなかったのか。彼も、昨夜のあの瞬間を何度も思い返していたのか。
彼は何かを言いかけ、わずかに眉を寄せたが、結局は何も言わずに視線を数センチ下にずらした。
その仕草が、凜にはまるで「拒絶」のように見えた。
実際には違うのだ。彼も、彼女と同じく、混乱し、揺れ動いているのだ。だが、凜にはその真実を受け入れる余裕がなかった。
「……おはよう、凜さん」
「おはよう」
形式的な挨拶。凜は努めて背筋を伸ばし、顎を引く。昨夜の熱を打ち消すための、冷たい仮面を被り直す。
だが、その仮面は完璧ではなかった。彼女の声は、微かに震えていた。
「……昨日のことだけど」
一拍。凜は、自分の心臓が鼓動するたび、痛みが走るのを感じた。
「適切な距離を、保ってちょうだい」
その声音は、自分でも驚くほど硬く、拒絶の響きを含んでいた。
それは、本当の凜の声ではない。だが、彼女は、その硬い声を発することで、自分の心を守ろうとしていたのだ。
颯太の肩が、びくりと跳ねる。彼は、昨夜彼女を支えた自らの両手を所在なげに握り込み、それから力なく下ろした。
その仕草が、凜の心を貫いた。
「……分かりました。すみません」
彼が視線を逸らした瞬間、凜は胸の奥に、冷たい氷の楔を打ち込まれたような錯覚を覚えた。
自分が拒絶した。自分が距離を置いた。
そして、彼は、その拒絶を受け入れた。
その事実が、凜をどれほど傷つけているかを、彼女自身も理解できなかった。
班行動が始まってからも、二人の間には目に見えない境界線が引かれていた。
凜は必要以上に地図を注視し、颯太は一歩下がって周囲の警戒に集中する。
会話は途切れ、足音だけが砂利道に空虚に響く。
隆之介と蓮は、その光景を見つめていた。
「……あー、もう見てらんねぇな」
隆之介が、首の後ろをさすりながら溜息をついた。
その溜息には、呆れと、そして同情が込められていた。
「昨日まであんなに良い雰囲気だったのに、今は氷点下じゃねぇか」
「……凜は、急激に上がった熱を下げようとしてるだけだよ」
蓮が静かに、二人の背中を見据えて言った。
彼女は、凜が時折、自分の右手をぎゅっと握りしめる癖を見逃さなかった。
その握りしめる動作は、何かを失うことへの抵抗。何かを保つことへの必死の試みだ。
「あの子にとって、自分の心が制御不能になるのは恐怖なの」
蓮の言葉には、確かな洞察があった。彼女は、凜の心を理解していたのだ。
「だから一度、すべてを凍りつかせようとしている。自分の感情さえも」
蓮は、その光景を見ていて、自分がかつて経験したのと同じ「恐怖」を感じた。
十年の文通という時間の重さ。それでもなお、確信が持てない。
凜も、同じなのだ。昨夜のあの瞬間で、彼女の「完璧さ」が崩壊した。そして、彼女はそれが怖いのだ。
「結城はどうなんだよ。あいつ、さっきから死にそうな顔してるぞ」
隆之介が、颯太の方に視線を向けた。
確かに、颯太の表情は、絶望に満ちていた。
「あの子はあの子で、自分の熱が相手を傷つけたんじゃないかって怯えてる」
蓮が、静かに言った。
「颯太の『優しさ』は、時に自分を縛る。彼は、凜さんを傷つけることが怖いんだ」
「それってさ、両思いってやつじゃねぇか。阿呆かよ、二人とも」
隆之介が、ため息をついた。
その言葉は、確かにそうなのだ。だが、二人には、その「阿呆らしさ」に気づく余裕がなかった。
「……夕方の自由時間。二人で向き合わせるしかないわね」
蓮が、その時から計画し始めたのだ。
どのようにして、二人の心を繋ぎ直すのか。
一方で、颯太は隆之介の隣で、何度も拳を握り締めたり開いたりしていた。
その動作は、昨夜の凜の手の感覚を確認するためのものだった。
指先に残された温度。指の関節に伝わった脈動。すべてが、彼の心に刻み込まれていた。
「……俺さ、なんか、指先がずっと熱いんだよ」
颯太が、無意識に呟いた。
「あ?」
「凜さんに、言わなきゃいけないことがある気がするのに。昨日の夜、あんなふうに触れたのは、助けるためだけじゃなかった気がして……」
颯太の声が、湿り気を帯びて低くなる。
彼は、昨夜の瞬間の意味に気づいていたのだ。
あれは、単なる「救助」ではない。あれは、彼の心が、彼女を求めていたのだ。
「だったらさ」
隆之介が前方を指差した。
「夕方、海に誘えよ。あそこなら逃げ場もねぇし、波の音が沈黙を埋めてくれる。お前のその熱い指先を、冷やしてこい」
隆之介の言葉には、確かな指針があった。
彼は、修羅場観賞を愛する男だが、同時に友人を助けたいという気持ちも持っていたのだ。
自由時間が近づくにつれ、凜の歩幅は次第に小さくなっていった。
その日の班行動は、施設周辺の散策だった。だが、凜にはそのすべてが無意味に見えた。
彼女の心は、すでに夕方の「海」へと向かっていたのだ。
言わなければならない。冷たく突き放したままでは、自分の心まで凍えて動かなくなってしまう。
その悟りに達した時、凜は初めて、自分が彼女の完璧さを手放す決断をしたことに気づいた。
自由時間。夕焼けの光が差し込む中。
「……あの」
凜が、彼に話しかけた。
「……あのさ」
同時に、颯太も、彼女に話しかけた。
二人の声が重なった。
互いに顔を上げ、視線が衝突する。凜は、颯太の瞳の中に、昨夜と同じ熱が宿っているのを見て、息を呑んだ。
その瞳には、迷いはない。確かな想いが燃えていた。
「……先にどうぞ」
「……いえ、そちらから」
二人の言葉が、再び重なった。
互いに笑い、照れた。
その瞬間、朝の冷たさは完全に消滅していた。
凜は、強く握りしめていた自分の手を解放し、勇気を振り絞って言葉を絞り出す。
「夕方の自由時間……あなたの時間を、少しだけいただけないかしら」
同時に、颯太も真っ直ぐに彼女を見据えて言った。
「夕方の自由時間、海に行きませんか。……二人で、話したいんです」
静寂が、凪いだ海のように二人を包む。
だが、その沈黙は、決して不快なものではない。むしろ、共鳴するような、深い理解の沈黙だ。
凜は驚いたように目を瞬かせ、それから、自分の熱を自覚するように頬を染めた。
「……海?」
「はい。海なら、その……広いから。適切な距離を保ちながらでも、話せると思って」
颯太の不器用な言い回しに、凜の唇がわずかに綻んだ。
その綻んだ笑顔は、朝の彼女とは別人のそれだった。聖女ではなく、一人の少女の笑顔。
「……私、海に行ったことがないの」
一拍。彼女は指先で自分の服の裾を弄りながら、視線を足元に落とした。
その仕草は、儚く、そして美しかった。
「それに、その……今日のために、水着を、用意してきたの」
凜は、ゆっくりと視線を上げた。
彼女の瞳には、確かな決意が燃えていた。
「あなたに……見て、もらいたくて」
その言葉は、凜の全身全霊をかけた、告白に近いものだった。
颯太は、思考が真っ白に燃え上がるのを感じた。
その燃え方は、蓮からのキスで感じたそれとは全く異なっていた。
蓮のそれは「急速な熱」だ。だが、凜のそれは「深い熱」だ。
十年の時間をかけて、積み重ねられた熱。
「……え、水着、ですか」
彼の声は、裏返っていた。
「……ええ。だめ、かしら」
上目遣いに、震える声で問われる。
その震えは、勇敢さと恐怖が共存していることを物語っていた。
颯太は、首の骨が鳴るほどの勢いで激しく頷いた。
「行きましょう! 海! 全力で、目に焼き付けます……!」
声が裏返り、颯太の顔は夕陽よりも赤く染まった。
その反応が、凜にはこれ以上ない喜びに見えた。
凜は、そんな彼の様子を見て、今日初めて心からの笑みをこぼした。
その笑顔は、聖女のそれではない。「氷室凜」という一人の少女の、最も美しい笑顔だ。
凍りついていた朝の空気は、今、二人の足元から静かに溶け始めていた。
その光景を、遠くから見つめる蓮と隆之介。
蓮の瞳には、複雑な感情が映っていた。
喜び。そして同時に、何かの終わりを見つめるような、切実な想い。
颯太という「特等席」をめぐる三角関係は、今、新たな局面を迎えようとしていたのだ。
宿泊研修は、まだ二日目。
最後の一日で、すべてが決まる。
海へ向かう凜と颯太の背中を見つめながら、蓮は思った。
(負けないからね。凜ちゃん)
そして、彼女の瞳には、もはや敵意ではなく、確かな「戦意」が燃えていたのだ。




