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白亜の天使様は離さない。  作者: mukakinoji_


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第九話

 颯太と蓮と凜 第九話「手と手が紡ぐもの」

 夜の山は、昼間よりもはっきりとした輪郭を持っていた。

 太陽がすべてを等しく照らしていた時間は終わり、今は濃密な闇が木々の境界を塗り替えている。昼間はただの風景だった枝葉が、夜の帳の中で鋭利な影となって空を突き刺し、その静かな威圧感に、凜は浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

 肝試しのコースは、暗い林の中を歩くというものだ。懐中電灯一本を手に、教師が配置した「脅かし役」を避けながら、ゴールのテントへと向かわなければならない。

 それは、単なる「怖さを克服するゲーム」ではなく、凜にとっては「試験」そのものだった。

 足元では、懐中電灯の放つ青白い円が、不格好に揺れ動いている。

 光の輪が照らし出すのは、腐食した土と無造作に折り重なる枯葉の集積だ。湿った地面に足を踏み出すたび、靴底は音を立てて沈み込み、足の裏から伝わるその生々しい弾力が、皮膚を通じて直接脳の警戒心を刺激した。

 凜は、懐中電灯を握る手が、冷たく汗ばんでいるのに気づいた。

 不安ではない。恐怖でもない。だが、何かが彼女の心を揺さぶっていた。

 その「何か」が、彼女のすぐ隣に立っているという事実。

 結城颯太。あの少年。その男は、彼女のすぐ隣を歩いている。

 距離にして、わずか数十センチ。だが、その距離は、彼女にとっては何光年もの隔たりに感じられた。

「……足元、気をつけて」

 すぐ隣から、結城颯太の声が降ってきた。

 その低く落ち着いた響きは、霧の立ち込める森を導く灯台のように、凜の意識を一点に繋ぎ止める。

 彼女は、その声に応じるために、精一杯の理性を動員した。

 凜は短く「うん」とだけ返事をした。

 視線は前方に固定したままだが、思考の焦点は無意識のうちに別の場所へ向かっていた。自分の右手が、いつの間にか彼の左手を固く掴んでいる。

 その事実を認識した瞬間、凜の思考回路は寒冷地で凍りついた機械のように、沈黙をもって停止した。

 いつから掴んでいたのか。いつ自分の意志で繋いだのか。それとも、彼が差し出したのか。

 凜は、その記憶を遡ろうとした。だが、思考は真っ白に遮断されていた。

 けれど、立ち止まって手を放すという選択肢は、どこにも見当たらなかった。

(暗いし……転ぶといけないだけ。これは合理的な判断よ)

 そう自分に言い聞かせる凜の胸中では、言い訳の言葉が虚ろな洞穴に響く風の音のように、空しく鳴り響いていた。

 聖女の仮面は、すでに完全に剥がれ落ちていた。凜は、その下の「本当の自分」と向き合わざるを得ないのだ。

 指先に伝わる体温は、この冷え切った夜の中で唯一の真実だった。

 脈動する血液の熱が、指の節々を伝って、自身の血管へと流れ込んでくる。それは、彼の心臓の鼓動だ。彼も、緊張しているのか。彼も、彼女と同じく揺れ動いているのか。

 肝試しのコースは終わりが見えず、蛇のように長く、深い闇の奥へと続いているように思えた。

 唐突に、林の奥から不自然に乾いた物音が響いた。

 脅かし役の教師が潜んでいるのだと理性では理解していても、反射的に肩が強張る。凜は無意識に、彼の手を握る力をさらに強めていた。

 その時。

 颯太が何かを言いかけて口を噤む気配が、繋いだ手を通じて微かな震えとして伝わってくる。

 彼は、何を言おうとしたのか。

「大丈夫」という言葉か。それとも「俺がいる」という保証か。

 だが、その言葉は発せられなかった。かわりに、彼の指が僅かに握り返してきたような感覚が、凜を襲った。

 二人の間に流れる沈黙は、深海に積もる澱のような重みをもって、足取りを慎重にさせた。

 その沈黙は、言葉よりも多くを語っていた。

 懐中電灯の光が、木々の隙間にゴールを示すテントの白い布を捉えた。

 もう少しだ。あの明かりまで行けば、肝試しは終わりだ。

 安堵が全身の緊張を解きほぐそうとした、その瞬間。

 不意に現れた木の根が、凜のつま先を無慈悲に捕らえた。

「あ――」

 視界が急激に傾き、重力が体を前方へと引きずり出す。

 凜は、その瞬間に絶望した。

 転ぶ。地面に叩きつけられる。汚れ、傷つく。そうした「失敗」が、彼女に訪れるのだと思った。

 次の瞬間、墜落するはずだった体は、温かな檻に閉じ込められた。

 颯太の腕が、肩と腰を同時に、そして強引なほど確実に支えていた。

 体勢が、異様なほどに近い。服の繊維越しに、彼の肋骨の硬さまでが伝わってくるほどの距離だった。

 凜は、その瞬間に世界が一変するのを感じた。

 完璧さなど、どうでもよくなった。「学園の聖女」という仮面など、この瞬間には何の意味も持たない。

 呼吸が、至近距離でぶつかり合う。

 彼女が吸った空気は、彼の呼吸を含んでいる。彼が吐いた空気は、彼女の肺へと流れ込む。

 その瞬間、胸の奥で、何かが激しく警鐘を鳴らした。

 それは「ドクン」という規則的な鼓動などではなく、激しい嵐に叩きつけられる扉のような、荒々しく暴力的な衝撃だった。

 十年前の公園で感じた温度とは、比較にならない熱が、彼女の全身を襲った。

 耳の裏で、血の流れる音が直接響いている。

 その音は、彼女のすべてを支配していた。

(……うるさい)

 凜は、自分自身の臓器を呪った。その音はあまりに巨大で、この森に息づく全ての静寂を塗り潰してしまうのではないかと、本気で危惧したからだ。

「大丈夫? ケガしてない?」

 颯太の問いかけは、水底から聞く音のように遠く、現実味を欠いていた。

 凜の視界は、彼の胸元だけを映し出す極端に狭いレンズのように固定され、周囲の闇さえも消失していた。

 彼女は、その胸の鼓動を聞いていた。彼の心臓の音を。

 それは、彼女の心臓と同じリズムで鳴っていた。

 二つの心臓が、同じ速度で、同じ激しさで、鼓動している。

「……平気」

 ひりつく喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど不自然に高揚していた。

 その声は、凜のものとは思えない。何かに支配された少女の、切実な叫びのように聞こえた。

 そのとき――。

「おーい、そこ大丈夫か?」

 闇の向こう側、テントの方角から教師の声が礫のように飛んてきた。

 その一撃で、凜の中で張り詰めていた緊張の糸が、鋭い刃物で断ち切られた。

(……見られた)

 実際には、彼らの姿はこの距離の闇に溶け込んでいただろう。だが、彼に触れられているという事実自体が、凜にとっては法を犯した罪人のような、耐え難い羞恥を伴うものだった。

 現実が、彼女に襲いかかった。

「氷室さん?」

 颯太が、彼女の名を呼ぶ。

 だが、凜は、それに応えることができなかった。

 凜は弾かれたように颯太の腕から離れ、命綱を捨てるようにその手を放した。

 触れるべきではない手。掴むべきではない手。

 彼女は、その手から自分の手を引き抜いた。

 途端に、流れ込んできた夜の空気が氷の刃となって、熱を持った肌を削り取る。

 その寒冷感だけが、凜を現実へと引き戻した。

「……先、行く」

 吐き出すようにそれだけ告げると、凜は振り返る余地も与えず歩き出した。

 逃げるような足取りでテントへと滑り込む。背後に、彼が取り残されているという感覚が、抜き忘れられた棘のようにチクチクと刺さる。

 けれど、それを確認するために振り返る勇気は、今の凜には一片も残されていなかった。

 彼女は、その棘を心に背負ったまま、前へ進むしかなかった。


 宿泊棟に戻り、布団に入ってからも、闇は粘りつくように静かだった。

 同級生たちの規則的な寝息が、凪いだ海のように部屋を満たしている。

 凜は意識的に目を閉じ、脳裏に浮上しようとする昼間の残像を、泥の中に沈めるようにして拒絶した。

 あの瞬間。彼の腕に支えられた時の感覚。彼の胸元に映った自分。彼の鼓動。

 すべてを忘れようとした。だが、それは不可能だ。

 けれど、シーツを握りしめる指先だけが、炭火を押し当てられたかのような異常な熱を帯び続けている。

 凜は布団の中で、そっと自分の手を握りしめた。

 その指先に残る颯太の体温の残滓を、眠りという冷たい海で強引に押し潰すために。

 だが、その試みは失敗した。

 彼女の手の中に残された熱は、決して冷めることなく、朝まで生き続けるのだ。


 その同じ時刻。

 颯太も、自分の部屋で、あの瞬間を何度も何度も思い返していた。

 彼女の体が、自分の腕の中に落ちてきた時の感覚。彼女の髪の香り。彼女の呼吸。

 そして、彼女が自分の手を放した時の、あの絶望的な喪失感。

 颯太は、自分の手のひらを見つめた。

 そこには、彼女の手の温度だけが残されていた。

(氷室さん……)

 彼女の名を呼び、その存在を感じようとした。

 だが、回答はなかった。夜の暗闇の中に、彼女の影さえ見えない。

 颯太は、その無応答の中で、自分自身の感情の大きさを知った。

 彼は、凜に対して何を感じているのか。

 それは「恋」なのか。それとも「保護欲」なのか。

 その答えは、依然として彼の中で混濁していた。


 そして、朝は来た。

 翌朝のオリエンテーション。二日目のスケジュール説明。

 凜と颯太は、それでも「隣同士の班」として、同じテーブルを囲んでいた。

 だが、その間に流れるのは、昨夜の「触覚」の記憶だけだ。

 凜は、颯太に視線を合わせない。颯太は、凜の視線を追うことができない。

 二人の間には、何かが生まれた。

 そして、その「何か」が、彼らを次のステージへと導いていくのだ。

 宿泊研修は、まだ二日目である。

 あと二日。その二日の間に、三人と一人の男の関係は、どのような形に変わるのか。

 朝日が、冷え切った宿泊棟の窓を照らしていた。

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