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『縁側に咲いた恋』──春に出逢い、秋に寄り添い、夏に咲いたひとつ屋根の恋

作者: 河崎ゆう

静かな一軒家の縁側。年上の大家さんと、苦学生の大学生。

ひとつ屋根の下で、少しずつ育っていった恋が、季節を越えて花開く。



第一章:春、上京、出会い

春の風は、期待と不安の匂いを運んでくる。


東京駅のホームに降り立った瞬間、僕はその空気を肺いっぱいに吸い込んだ。地元の北陸とは違う、乾いた空気。人の多さと喧騒、そして胸の奥が妙にそわそわする感覚。これが、東京なんだなと思った。


僕の名前は高木蒼真たかぎ そうま。この春から都内の私立大学に進学することになり、今日から新生活が始まる。両親は「せっかくだから下宿でもしたら」と言っていたけど、実の姉の陽菜ひなが、昔の親友の家に空き部屋があると教えてくれた。彼女が信頼できる人なら…と、その話に乗ったのだ。


「一軒家って聞いてたけど、どんなところだろうな」


大きな荷物を抱えて、指定された住宅街の地図をたどる。都心からは少し離れた静かな住宅地。古びたアパートやマンションが並ぶ中に、ぽつんと現れたその家は、思った以上に風情のある、そしてどこか懐かしい雰囲気の平屋だった。


深緑の瓦屋根に、白く塗られた木の壁。小さな庭には、桜の木が一本、ほころびかけた蕾を揺らしている。


「ここ…か?」


門の前に立つと、ちょうど玄関の引き戸が開いた。


「高木くん、だよね?ようこそ。待ってたよ」


現れたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。黒髪をゆるく束ねていて、アイボリーのエプロンをつけたまま。おそらく30代前半だろうか。上品な笑みが自然で、どこか懐かしい感じがする。


「あなたの姉の陽菜ちゃんとは、高校のころからの親友なの。彼女に頼まれちゃってね、しっかり面倒見させてもらうわ」


そう言って彼女は手を差し出した。


「私は白川楓しらかわ かえで。この家の大家であり、いまのところ同居人でもある、かな」


僕は思わず、彼女の手をぎこちなく握った。


「よ、よろしくお願いします!」


部屋は意外なほど広く、そして清潔だった。


畳の香り、障子から差し込むやわらかな光、そして庭の木々が風に揺れる音が心地よく耳に残る。こんな家が東京にもあったのか、と驚くほどだった。


「家具は一通り揃えてあるから、足りないものがあれば言ってね。男の子の一人暮らしって、最初は何かと困るでしょ?」


「いえ、本当に助かります。家賃も…こんなに安くていいんですか?」


「陽菜ちゃんの頼みだからね。でも、それなりに家のことも手伝ってもらうよ?」


「もちろんです!」


彼女はふふっと笑って、キッチンへと戻っていった。その背中に、妙にドキドキしている自分がいた。


大学生活は、慌ただしく始まった。


講義、サークルの勧誘、履修登録。都会の空気にまだ慣れない僕にとって、白川さんの家はまるで“避難所”のようだった。夕方になると、玄関の引き戸からただよう味噌汁の香りが胸にしみる。


「今日も頑張ってたみたいね。ごはん食べていく?」


「え、いいんですか…?」


「高木くん、まともなもの食べてなさそうだもの。ほら、お椀出して」


あったかいご飯、野菜たっぷりのお味噌汁、ふっくら焼けた鮭。豪華ではないけど、どれも丁寧に作られていて、美味しかった。


「おふくろの味…って、こういうのを言うのかも」


「それ、年上の女性に言うセリフじゃないわよ?」


くすくす笑う彼女を見て、僕は何か言い訳をしようとして、それをやめた。ただ、お礼を言って、目を伏せた。


そんな日々が続いて、気づけば夏が過ぎていた。


蝉の声が聞こえなくなり、風がひんやりと感じられる頃、白川さんの長袖のセーター姿が目に映るたびに、なぜか胸の奥がきゅっとなるようになっていた。


僕がこの家に来て、半年。最初は“憧れのお姉さん”だった彼女が、いまでは“特別な誰か”になりつつあった。


それが恋かどうかは、まだわからなかった。


でも、夕ご飯を待っているときの僕の気持ちは、もうそれに近いものだったかもしれない。



第二章:秋の気配、距離の変化

九月の終わり、風が肌に少し冷たく感じられるようになったころ。


大学では後期の授業が始まり、キャンパスには再び活気が戻っていた。夏休み明けの友人たちの顔に混じって、僕は静かに思っていた。


「帰りたいな、あの家に」


白川さんの家。――いや、もう「家」じゃなく、「帰る場所」だと感じていた。


学校の帰り道、駅前のスーパーで食材を買う。少しでも家事を手伝いたいと、最近は夕飯の買い物を分担するようになっていた。彼女は言葉にはしないが、僕が手伝うことを喜んでくれているようだった。


「今日のメニュー、なにがいいかな…」


かぼちゃ、しめじ、豚こま。温かい煮物が似合う季節だ。


「ただいま戻りました」


「おかえりなさい。うん、いいタイミング。お風呂、わかしてあるよ」


玄関に入ると、白川さんがソファから顔を出して微笑んだ。部屋にはお出汁の香りが漂い、障子の向こうには、オレンジ色に染まった夕暮れが見えていた。


「なんか、いい匂いがします」


「肉じゃがにしてみたの。あなた、甘めの味付け、好きでしょ?」


「…なんで分かるんですか?」


「ふふ。半年も一緒に暮らしてたら、分かるわよ。ご飯のときの顔で」


そう言って、彼女は照れくさそうに目をそらした。


僕も、何か言いたくて、でも言えずに、黙って台所の手伝いを始めた。


その沈黙は、以前よりもずっと穏やかで、心地よいものだった。


ある夜。


白川さんが、珍しく酔って帰ってきた。


職場の同僚と飲み会だったらしく、頬を赤らめて、ふらりと玄関に立っていた。


「たかぎくん~ただいまぁ~」


「大丈夫ですか!? ちゃんと歩けます?」


「うん、だいじょばない…ちょっとだけ、休むね……」


ふらっとして、僕の肩に寄りかかる彼女の身体は細くて、驚くほど温かかった。


「ほら、こっちに座ってください。お水持ってきます」


彼女は、僕の腕にしがみついたまま、ぽつりと言った。


「……なんだかね、寂しくなるのよ、秋って」


「え?」


「あなたが来るまでは、毎日が静かで。ひとりの時間も好きだったけど……最近は、音がないと、つまらなくて」


不意に僕の胸が高鳴った。言葉が出なかった。


白川さんは、それ以上何も言わず、僕の膝に頭を乗せて、すうすうと眠ってしまった。


その夜は、彼女が目を覚ますまで、僕はそっと頭を撫でていた。


これ以上、近づいていいのか。踏み込んでしまえば、何かが変わってしまう気がした。


でも、変わっていくことが、少しだけ嬉しくもあった。


季節は少しずつ深まり、秋が町を染めていく。


僕たちの距離も、少しずつ、近づいていた。



第三章:冬支度、心の

十二月。吐く息が白くなり始めると、街も一斉に冬の装いを始める。


商店街の通りにはツリーが立ち、控えめなイルミネーションがぽつぽつと灯っていた。


あの家も、すこしだけ冬の準備を始めていた。障子の隙間から入る隙間風を防ぐために、白川さんが一枚一枚、断熱シートを貼っている。僕も隣で手伝いながら、ふと気づいた。


「白川さんって、本当に手際いいですね。僕、実家じゃ全然こういうのやってなかったです」


「昔、祖母と一緒にやってたの。あの人、冬が苦手でね。風が入るだけで『ひゅう』って文句言ってた」


くすくす笑う横顔が、どこか懐かしさを帯びて見えた。


年末が近づくにつれて、バイトとレポートに追われる日々。苦学生という肩書きが、いよいよ本領を発揮し始めていた。


夜、白川さんは僕の部屋の襖をそっと開ける。


「たかぎくん、おでん作ったから、休憩しない? 大根、しみしみだよ」


「うわ……今、それ言われたら断れないです」


湯気の立つおでん鍋を囲んで、二人でちゃぶ台をはさんで座る。ストーブの音、茶碗の触れる音、そしてたまに交わす言葉が、まるで冬のリズムだった。


「……最近、なんだか、家族みたいですね」


そう言ったとき、彼女の箸がふと止まった。


「家族、かぁ……」


「……違いました?」


「ううん、嫌じゃない。ただ……そういう言葉で済ませてしまうには、ちょっと、あったかすぎるかなって」


それはきっと、僕も思っていたことだった。


ある日、バイトから遅く帰った僕を、白川さんが玄関で待っていた。


「たかぎくん、今日は……ちょっとだけ、付き合ってくれる?」


そう言って連れていかれたのは、近くの公園。冷たい空気のなか、誰もいないベンチに座る。


「どうしてここに?」


「……たまに来るの。誰もいない、静かな場所で、いろんなことを整理するの」


ベンチに並んで座る。息が白く、指先が冷たい。だけど、心は不思議と温かかった。


「……私、離れてた友達とも、家族とも、あんまり会わなくなっちゃったの。仕事が中心の生活で。だけど、たかぎくんが来てから、毎日が少しずつ、色づいていったの」


「僕も、です」


彼女の視線が、そっと重なる。


「……ねえ、たかぎくん。あなたは、春が来たら、この家を出ていく?」


答えられなかった。出ていくべきなのか、居ていいのか、自分でも分からなかった。


「……まだ、分かりません。でも、できれば……」


「できれば?」


「もう少しだけ、ここにいたいです。白川さんのそばに」


それは、告白でも、約束でもない。


けれどその夜、僕らの距離は、静かにひとつ、線を越えた。


冬が深まり、街に雪の気配が近づくころ。


僕たちの胸にもまた、静かな灯りがともっていた。



第四章:春の予感、そして選択

三月。

庭の梅が咲き始め、風の匂いが少しずつ春めいてきた。


東京での一年が、もうすぐ終わる。


白川さんと過ごした日々は、季節と一緒に静かに流れた。日常のすべてが、当たり前で、かけがえのない時間だった。


だけど、終わりが近づいているのを、僕はどこかで感じていた。


大学の講義も一区切り。バイト先でも「進級おめでとう」と言われるたびに、胸が少しざわつく。


春。

出会いと別れが混ざる季節。

あのとき、彼女が言っていた「春が来たら、出ていく?」という言葉が、ずっと頭に残っていた。


「たかぎくん、ちょっと来てくれる?」


夕方、彼女が庭から手招きする。


そこには、小さな鉢植えが並んでいた。チューリップ、パンジー、そしてまだ芽の出ていない朝顔の鉢。


「これ、今年は一緒に育てようって思って」


「朝顔って……夏の花ですよね?」


「うん。だから、あなたがいなくなったあとも、ちゃんと咲くようにって、思ってた。でもね……」


彼女は微笑んで、続けた。


「今はちょっと、願いが変わったかもしれない」


夕陽が、彼女の髪を金色に照らしていた。


その夜、僕は意を決して言った。


「……白川さん。僕、この家を出ようと思います」


箸を持つ彼女の手が、一瞬止まった。


「そう……そっか」


「でも、ただ出ていくだけじゃないんです。独り立ちして、ちゃんと生活して、改めて……もう一度、向き合いたいと思って」


「向き合うって、なにに?」


「白川さんに。ちゃんと、大人として」


彼女は驚いたように、そしてすぐにふわりと笑った。


「……ほんと、頼りなくて、かわいかったのに」


「今は?」


「少しだけ……大人になったかもね」


その夜、初めて彼女は、僕の頬にそっとキスをした。


引っ越しの朝。

僕の荷物は段ボール三箱だけだった。


彼女は最後まで玄関まで見送ってくれた。いつものエプロン姿、いつものやさしい笑顔。


「朝顔、育てておくね」


「はい。僕も、ちゃんと咲かせられるように頑張ります」


「……待ってる」


その言葉が、背中を押してくれた。


桜が咲いた春の朝。

僕は新しいアパートのベランダで、小さな鉢に種をまいた。


きっとまた、会いに行く。

今度は、「ただの同居人」じゃなく。


ひとつ屋根の下で始まった恋は、

春を越えて、きっと、もう一度──咲く。


後日談:夏の午後、朝顔の咲くころ

六月の終わり。

梅雨の晴れ間、蝉の声がまだ遠い午後。


ピンポーン。


インターホンの音が、縁側に座る白川遥しらかわ・はるかの耳に届いた。


「あら……」


麦茶のグラスを置き、彼女はそっと玄関へ向かう。

玄関を開けると、そこに立っていたのは――


「こんにちは。……ただいま、です」


たかぎくん。

いつの間にか、背が伸びた気がする。表情も、少し引き締まった。

けれど、目の奥に宿る不器用な優しさは、何も変わっていなかった。


「おかえり」


それだけを言って、彼女は玄関に引き入れる。

靴を脱ぐ様子を見ながら、なぜか胸が騒いだ。


「朝顔、咲いてますか?」


「……ええ、とっても元気よ。あなたのぶんも育ててた」


縁側の向こう、小さな鉢に咲いた薄紫の花が、夏を待ちわびるように風に揺れていた。


「僕のほうも、咲きました。……小さかったけど、すごく、うれしかったです」


「……そう」


ふたりで並んで座る。

あの日と同じ縁側、けれど距離は、もう少しだけ近い。


「一人暮らし、どうだった?」


「洗濯物がたまってたまって……料理も、白川さんのすごさを思い知りました」


「ふふ、でしょうね」


「……でも、全部、自分でやりました。なんとか、ちゃんと」


彼女は彼の横顔を見る。

照れくさそうなその横顔が、たまらなく愛おしい。


「もう、家族じゃないよ。……そう言ってたでしょ?」


彼は、静かにうなずいた。


「だから今日は――ひとつだけ、確かめたくて来ました」


「なにを?」


「俺のこと、男として……ちゃんと見てくれてますか?」


目をそらさずに、そう問いかける彼に――


白川さんは、ゆっくりと頷いた。


「ずっと……見てたよ。あなたが知らないうちから。ちゃんと」


その言葉に、たかぎくんは、はにかんだように微笑んだ。


「じゃあ、これからは――恋人として、見てもらっていいですか?」


風が吹く。朝顔が揺れる。


彼女は少しだけ照れて、そして、柔らかく笑った。


「うん。……よろしくね、たかぎくん」


夏が来る。


ひとつ屋根の下で育まれた想いは、季節を超えて、静かに実を結んだ。


そして、数年後。

この家の縁側に座るふたりの間には、もうひとつ、小さな麦茶のグラスが並ぶのだった。




【スピンオフ短編】白川遥視点


『静かに芽吹くもの』

──白川遥、三十路。恋はもう遠いと思っていたのに


『静かに芽吹くもの』本文

この家に引っ越してきて、もう七年が過ぎていた。

春と秋に花を植え、夏には朝顔を育てて、冬には炬燵で静かに本を読む。

そんな穏やかな暮らしを守るために選んだ「ひとり」の時間。

もう、誰かにときめくことなんてないと思っていた。


それなのに。


「白川さん、お姉ちゃんから紹介されて来ました。今日からお世話になります」


玄関に立っていた男の子――いや、青年。

ぶかぶかの服と、慣れないスーツケース。

大学入学の春、あの子がこの家に来た日を、私はずっと忘れない。


最初は、年下の弟のようだった。

ときどきおっちょこちょいで、けれど根がまじめで素直で……。


そのうち、夕飯を作るのが楽しみになった。

朝、いってらっしゃいと声をかけ、夜、おかえりなさいと迎える。

それだけのことが、こんなにも胸を温かくするなんて。


でも、気づいたときには、もう遅かった。

私はあの子に、恋をしていた。


「春になったら……この家、出ていくよね?」


何気なく言ったその一言が、胸を刺した。

願わくば、ずっと一緒にいたかった。


だけど私はもう、大人だ。

彼には彼の未来がある。

私がその足を引っ張るようなこと、したくない。


それでも、あの子は帰ってきた。

数ヶ月後、ちょっとだけ大人になって、まっすぐな目で「恋人として向き合いたい」と言った。


――ああ、春が来た。


長い冬を越えて、私の心にも春が芽吹いた。


彼がこの家に来てくれた日。

あの日から、私の人生は、少しずつ色を取り戻していたんだ。


今、庭ではまた朝顔が咲いている。


あの子が蒔いた種が、今年もちゃんと咲いた。

――私の心と同じように。

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