初戦
急に見慣れない男が盤の前に座ったため、ホームレス達はざわめいていた。
考えてやった行動ではなかった。
盤の前が空いたのを見て体が勝手に動いたのだ。
中々の俺の相手は現れない。
次の対局者を誰にするかもめているようだ。
当然だ。
よそ者で訳の分からない服を着ている男が乱入してきたのだ。
俺は開き直って、背筋を伸ばし対局相手を待った。
この何もかも見慣れない世界で初めて慣れ親しんだものを見つけたのだ。
少しでも離れたら幻のように消えてしまうのではないか。
俺は不安だった。
いざ始まって全然違うゲームだったらどうしようか。
やがて、俺の前に一人の老人が腰をおろした。
痩せて黒ずんだ体に襤褸切れを巻いている。
真っ白だが、毛量の多い髪と髭をゆらし、目を細めて俺を観察していた。
やがて老人が何か言ったが、当然俺には何を言っているか分からない。
俺は無言で砂に描かれた盤を指さした。
そして先手をどうぞという気持ちを込めて老人に手を向けた。
老人は少し笑ったように見えた。
そして小石を持つと第一手を指した。
俺も挨拶の礼をし、一手を返した。
本当に将棋だった。
相手の最初の数手はこちらを伺うように居飛車にも振り飛車にも出来る手の広い打ち方だったが、やがて矢倉に組んできた。
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歩歩歩
歩歩銀金
王金角
香桂
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【矢倉囲い】
矢倉。将棋の純文学と呼ばれる優秀な囲いだ。
金銀の連結が強く、上部からの攻めに強い。
昔から人気の囲いだが、ある戦法により、一時期使われることがめっきり減ったことがある。
矢倉を駆逐したその戦法の名前は左美濃急戦。
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歩
歩歩 歩歩
角銀 金
香桂王金
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【左美濃】
組むのに時間がかかってしまうことが矢倉の弱点だ。
組む手数が少ない左美濃で王を守り、あとはひたすら攻め倒す。
それが、左美濃急戦による矢倉対策だ。
もっとも最近はその対策も生まれ矢倉も盛り返してきている。
俺は左美濃に玉を囲った。
盤上では俺の左美濃急戦が相手の矢倉を徐々に崩していった。
守りの金銀が剥がされ、矢倉側は劣勢になりつつある。
局面は優勢だが、俺は強い衝撃を受けていた。
この老人はめちゃくちゃ強い。
左美濃急戦を受けそこなったために劣勢にはなっているが、それでも見事に受け踏ん張っている。
金銀が剥がされたが、王の周りが広くなったことを利用し、巧みに俺の攻撃を躱している。
将棋は攻めると相手に駒を渡してしまう。
このまま相手を詰ませられないと、逆襲を食らってしまう。
俺の打つ手を老人は避け続ける。
俺は攻め続けた。
手に汗をかいていた。
やがて、老人はポツリと何かを呟いた。
もちろん俺は何を言ったのか分からず相手の出方を伺っていたが、老人が局面を並び替えているのを見て何をしようとしているのか理解した。
老人は投了し、感想戦をやろうとしているのだ。
俺は遅ればせながら礼をした。
対局が終了すると猛烈な空腹が俺を襲った。
対局中は空腹も対局場所が河原だあることも俺が異世界転移し、死にかけていることも忘れていた。
俺は感想戦で喋りまくった。
言葉が通じないことは百も承知だが、前世で得た将棋の最新知識を惜しみなく分け与えた。
俺の並べた局面を老人は時折組み換え、局面の変化を聞いてきた。
俺も駒を並び替えそれに答える。
言葉の違う俺たちは将棋を通じて会話をしていた。
やがて、感想戦が一段落すると、俺は身振り手振りで自分が空腹であること、何か食べ物を貰えないかと、訴えた。
感想戦で、あれだけ最新の変化を教えたのだから、何か食べ物くらいもらえるだろうという目論見があった。
目まぐるしく表情を変え、腹を押さえたり、口をパクパクさせている俺はさぞ滑稽に見えただろう。
俺のジェスチャーを見て老人は察してくれようで、廃木材と布で出来たホームレスにしては立派な家に戻ると何かを持ってきた。
遂に食事を取ることが出来る。
俺は泣きそうになって老人が近づいて来るのを待った。
俺には老人が輝きを放つ神に見えた。
長くボサボサの髭もそれっぽいし、良く見れば何となく高貴な顔をしている気がする。
老人は無言で俺に手にしているものを渡してきた。
それは、うねうね動くカラフルなイモムシだった。
「マジか!ホンマにこれ食うんか!?」
思わず大声が出た。
ホームレス達がざわついている。
自分達の食べ物が侮辱されていると気づかれれば、これから生きていくために協力してくれなくなるかもしれない。
俺はイモムシを持ち上げると鼻をつまみ、目を閉じてそれを口元に持っていった。
「これも貴重なタンパク源です」
俺は食べ終えた時のコメントまで準備していたが、イモムシを口に入れる直前に手を押さえられた。
対局していた老人とは別の中年男が俺の手を掴んでいた。
もう覚悟を決めたのだ。
邪魔しないでほしい。
俺はその中年男をつい睨みつけた。
中年男は困惑したような、怯えた表情をしていた。
他の男達も似たような顔だ。
どうやら俺は彼らにドン引きされているようだ。
もしかして、このイモムシは食べ物ではないのか、俺が急にイモムシを食べようとしたから引かれてしまったのか。
俺は急に恥ずかしくなった。
中年男は俺からイモムシを取り上げると真っ黒なでこぼこの球体を渡してきた。
今度こそ食べ物だろうか。
俺は恐る恐るそれに食いついた。
めちゃくちゃ固いが、どうやらパンのような食べ物のようだ。
かび臭く、酸味の強いそれはお世辞にも美味しいとは言えない味だったが、俺は夢中でそれを咀嚼した。
少し塩辛い味だった。