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月下

夢は終わった。

関西将棋会館からの帰り道、俺は夜道を歩きながら、苦い思いを噛み締めていた。

高校3年生時点で三段になることが奨励会を続ける条件だった。

高校3年生で三段になれなかったら、プロ棋士は諦めて大学に通うことを両親と約束していた。

かろうじて二段まで上がることは出来たが、勝率は振るわず、黒星が積み上がった。

そして今日の対局で敗北したことで今期の昇段が絶望的になった。

「17歳8ヶ月、投了か」

俺は自嘲して呟いた。

親を説得して、大学生になっても奨励会を続けることは不可能ではないかもしれない。

だが、俺にはもうその気力は残っていなかった。

タイトルホルダーとして活躍する棋士は高校生までにプロになっているケースが多い。

タイトルホルダーでも二十代でプロになっているケースはあるが、少数派だ。

俺の場合プロになれるかも怪しい上、仮になれてもタイトルホルダーとして活躍することはないだろう。

それに何より、俺は負ければ内臓がよじれるような悔しさを感じ、対局前には気持ちが悪くなるような、熾烈な奨励会を辞めることが出来ることにホッとしてしまっているのだ。


沈んでいる俺の気持ちとは裏腹に、大阪の町はいつも以上に騒がしい。

阪神タイガーズが日本一になったのだ。

同じ日に俺のプロ棋士への夢が終わったことは皮肉と言うほかない。

足を引きずり歩く俺の脇を六甲おろしを歌う虎柄の集団が追い越していった。

虎柄の集団はそのまま歩き続けるかと思いきや、橋の上で立ち止まった。

彼らは手すりにもたれてしばらく歌っていたが、おもむろにシャツを脱ぎ出した。

どうやら、川に飛び込む気らしい。

道頓堀でもない名前も知らない川に、誰が見ているわけでもないのに飛び込もうとは、何が彼らをそこまで駆り立てるのだろうか。

俺は特に野球ファンでもないので、彼らと一緒に騒ぐ気もなく、彼らの背後を通り抜けようとした。

「龍一!?」

上半身裸の不審者集団から不意に俺を呼び止める声が上がった。

見ると同じクラスの田中がポヨンポヨンの腹を出して立っていた。

「こんなとこで何してるん?」

「上半身裸のやつが何ゆうてんねん!お前こそ何してんねん」

「飛び込むねん。お前もこいや」

田中は満面の笑みを浮かべて言った。

普通の精神状態なら絶対に断っていた。

だが、その日俺は破れかぶれになっていた。

「やったるわ!」

俺は一声叫ぶと手すりを踏みつけ川に向かって跳躍した。

「アイ・キャン・フライ!」

おれは叫んだ。

裏返って最高にカッコ悪い声で、某卓球漫画のセリフを。

後ろで歓声が上がった。

真っ暗な川面が近づき、俺は目を閉じた。

衝撃の後、秋の冷たい水が体を包んだ。

音もなく、光もない水の中で数時間前に見た光景が脳裏をよぎった。


対局に敗れ将棋会館を出ようとする俺を呼び止める声があった。

「龍一くん」

俺は立ち止まった。

俺は振り向かなかったが、声で師匠の香宗我部九段だとわかった。

俺が奨励会を続ける条件は師匠も知っている。

重要な対局だから、わざわざ将棋会館まで来て控室で待っていてくれたのだ。

「今日は残念やった。

あの対局がどういう意味を持つのかはわかっとる。

もし、奨励会を辞めるとしても、それはそれで現実的な賢い選択や。

親御さんが君を大事におもうちょるゆうことや。

将棋だけが人生やない。

大学に行って他のなりたい職につくのも立派な人生や。

でも、一つだけ言うとしたら、君は間違いなく才能がある。

どっちの道を選ぼうとも、それは誇りに思って欲しい。

プロにしてやれんくて、ホンマにすまんかった」

師匠が俺を慰めようと懸命に言葉を紡いでくれているのはわかっていた。

だが、師匠の顔を見ることはできなかった。

対局に敗れた悔しさ、恩に報いられない後ろめたさ、そして何より涙にまみれた顔を見せることをちっぽけなプライドが許さなかった。

「…お世話になりました」

俺は絞り出すようにそう言うと、逃げるように将棋会館を後にした。


師匠との一幕が終わっても次から次へと思い出が溢れて止まらなくなった。

両親にねだってタイトル戦を観戦に行ったこと。

その時に宿泊した宿で月を見ながら露天風呂に入ったこと。

初めて奨励会で指したときに緊張のあまり駒を取り落としたこと。

昇段した時に喜ぶよりも安堵したこと。

奨励会の試験に落ちて泣いたこと。

祖父が立派な将棋盤をプレゼントしてくれたこと。

大人を負かすほど強くなり、両親が喜んでいたこと。

黄昏れる小学校の教室で友達と将棋をうっていたこと。

将棋が強くなることが、楽しくて仕方がなかった。

絶対にプロ棋士になろうと何度誓ったことか。


冷たい水の中で、熱い思いが湧いてくるのを感じた。

「助かっていないと思っていても助かっている」何度も聞いた格言が浮かんだ。

ちょっと上手くいかなかっただけで、何を弱気になっているんだ。

将棋の勉強を続けながら、大学の勉強もしたらいいだけじゃないか。

棋士を続けながら大学を卒業したプロは何人もいた。

早くプロになれなけばタイトルは難しい?

二十代半ばでプロになり、四十代で初タイトルを獲得した棋士もいただろ。

全力で将棋を指すのだ。

全力で勉強するのだ。

全力で二兎を追うのだ。

全力で生きるのだ。

全力で生まれ変わるのだ。

俺の体を水が押し上げる。

やがて水面越しに揺れる月が見えた。


俺は水面から顔を出し、大きく息を吸った。

生まれ変わった最初の呼吸だ。

不意に月が見えなくなった。

次の瞬間、俺の頭を固く大きなものが強打した。

俺はその大きなものに押し下げられるように川の中に沈んでいった。

脱出しなければと思うのだが、脳震盪を起こしているようで体が動かない。

ようやく俺はそれが何か気がついた。

それは、薄汚れたカーネル・サンダースだった。

カーネルは俺に抱きついてニッコリ笑っている。

死神の微笑みだ。

俺が飛び込んだことに興奮した奴らが上から投げ込んだのだ。

「道頓堀でやれ!」

俺の叫びは一連の泡となって消えた。

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