黄色いガーベラ
それはまるで、初めての口づけのようだった。
クリスマスに浩平としたキスとは、全然違う。
夢の中で直樹と何度もしたはずなのに、今まで感じた事の無いような感覚だった。
このまま幽霊としてでも直樹の側にいれたらどんなに幸せだろう。そう思った瞬間、亜美の顔が頭に浮かんだ。
直樹の袖をつかんで、お墓に行きたいと言った。
「おあか?」
直樹が恵美の口の動きを声に出すが、お墓が通じなくて、恵美は手にひらがなを書いた。
「あ、お墓ね。墓参りってこと?」
そう言われて恵美は頷いた。直樹は一瞬不思議そうな顔をしたけど、すぐに笑顔になった。
「うん。行こう」
直樹に寒いからとジャケットを着せられ、二人で外に出た。雨はやんでいたが、いつ降り出してもおかしくない天気模様だった。
直樹はぎゅっと恵美の手をつなぐ。直樹の方を向くと、直樹は何か考え事をしているのか、すこし怖いくらい真剣な顔をしていた。そして更に強く恵美の手を握る。
恵美が直樹の手をきゅっと引いて、直樹に顔を向けさせた。
直樹、痛い。と言うと、直樹は一瞬ぽかんとした。再び、直樹?と呼ぶと、すぐに優しく手を握ってくれた。
それが嬉しくて、そのまま手をつないで駅まで歩いた。
現実の世界で、直樹と手をつないで歩く。
どんなに願っていたか。今がどんなに幸せか。嬉しくて、嬉しくて仕方が無かった。
時間が止まればいいのに。
直樹についていくように、電車に乗って、二人でぼーっと窓の外を眺めていた。鎌倉に行った時も、こうして二人で電車に乗っていたことを思い出す。
突然、直樹に言ってしまったあの言葉を思い出した。自分勝手な、あの言葉を。
直樹が覚えていませんように。そう願った。
あの自分勝手な恵美の言葉を、直樹が覚えていませんように。恵美にとってはついこの前のことだが、直樹にとっては3年も前のことだしきっと覚えてないに決まってる。でも、不意にでも思い出さないように。忘れていますように。
電車の中は温かくて、いつのまにか体がふわふわしてきたのを感じた。雨にうたれすぎて風邪をひいてしまったのだろうか?直樹に悟られてはダメだ。だって私は幽霊なんだから。
着いたよ。と直樹に起こされて、気がついた。寝てしまっていたようだった。
立ち上がると、恵美は無意識に直樹の手を探してつないだ。駅から霊園にいく途中にある花屋で直樹が立ち止まり、花を買おうかと言った。
「毎年買ってたんだ」
直樹の言葉に、恵美は頷いた。
知ってるよ。あなたがいつもお墓に供えてくれていた事。そう恵美が微笑むと、直樹が恵美の顔をじっと見て、花を選んだ。
「はい」
渡された花は、黄色のガーベラだった。恵美の好きな花で、思わず花束を見て微笑んだ。
亜美の眠る新井家の墓は、天気のいい日は東京の街を一望できる霊園にあるが、今日は靄がかかって高層ビル群は見る事ができなかった。
墓に着くと、すでに綺麗に掃除されており、仏花も供えられていた。恵美は、両親が来た事を悟った。
直樹が線香に火をつけて手を合わせた。それを見た瞬間、再び涙があふれてきた。
亜美はここに眠っている。そして、亜美の恋人と、亜美を殺した女が今ここにいる。
恵美は持っていた花束を墓に供え、手を合わせた。
亜美。亜美。ごめんね。
涙は止めどなく流れ、声にならない嗚咽が出る。どうしたらいいんだろう。私は。
どうしたら許してくれる?許してなんかくれないよね?
死ねばよかったのに。自分なんて。さっき死ねばよかったんだ。
そう思った瞬間、直樹に抱きしめられた。
嫌だ。
そう思って、恵美は、直樹の腕から逃れようとした。
この場所で、亜美の前で。直樹に抱きしめられるところなんて見せられない。
「亜美」
亜美じゃない。亜美はここに眠っている。
亜美は死んだ。
私のせいで!
そう叫んでも、声は出なかった。
亜美じゃない。
亜美は私が殺したの。
そう言っているのに、直樹に凄い力で抱きしめられた。抗えないくらい。
離して!離して!
私が、殺したの!
あなたの恋人を!
私が!
声の無い叫びが、息を吐くように空に消えていく。
暴れても叩いても、直樹は離さなかった。
「大丈夫だ。大丈夫」
「大丈夫、大丈夫。大丈夫だよ」
どれくらい時間が経っただろう。泣きわめく子供に諭すような直樹の声が、体中に染み込んでいた。
大丈夫。大丈夫。大丈夫…。
複雑に心にからまった紐を、直樹が一つずつ丁寧にはずしてくれたような気がした。
直樹の心臓の音が、規則正しく鳴っているのを感じる。いつのまにか直樹の胸に顔をあずけていた。
「おなか空かない?」
のんびりした直樹の声に、思わず顔を上げた。
優しい顔をした直樹が、こっちをみて笑う。
苦笑とともに息をはいた。息とともに、小さな声が鳴った。
直樹が気づかないほど小さな。けれど恵美には十分にわかるくらいの。




