亜美の幽霊
直樹のくれた着替えに袖を通すと、直樹の匂いに包まれた。あれは夢の中で、匂いなんて覚えていないと思っていたのに、悲しいほど懐かしい匂いだった。
深呼吸をしてバスルームを出ると、突然抱きしめられた。
あんまりにもきつく直樹に抱きしめられたので、恵美は苦しくなって直樹の背中を叩いた。
それに気づいて直樹が恵美の顔をのぞく。条件反射で恵美が微笑むと、直樹は泣きそうな顔をしていた。恵美は思わず直樹の頭をなでていた。
それに気づいた直樹がふっと顔をそらせ、言った。
「なんか飲む?お茶か、紅茶か」
直樹の声が震えているのがわかった。慌てて目をこすった直樹が恵美を見て笑う。涙に気づかない振りをして、「こうちゃ」と口を動かした。
直樹がキッチンで用意をしてくれているのを眺めながら、そのまま部屋の中を見回した。
モノトーンでまとめられている部屋の色の中で、ベッドのわきのサイドテーブルの上の写真だけが、カラーだった。
直樹と亜美の写真。
修学旅行で撮ったあの写真だった。思い出が蘇る。
「はいチーズだと普通じゃん。てか。チーズって意味わかんなくね。チーズって」
そう言っていた直樹。思わずくすりと笑う。その瞬間、直樹に声をかけられた。
「それ、覚えてる?」
振り向くと、直樹が笑顔で恵美にいれた紅茶の入ったマグカップをテーブルに置いてくれていた。
「修学旅行の写真」
覚えてるよ。恵美は再び写真に目を戻した。そして、直樹の方を見て言った。
あみとなおき
そう恵美が言った瞬間、直樹の目からみるみる涙があふれた。
しまった。
そう思ったときには、直樹はその場に泣き崩れていた。
直樹が泣いているのを、初めて見た。
私は一体何をしているのだろう。そう思ったら、泣きたくなった。
でも泣くわけにはいかない。
直樹は間違いなく亜美が戻ってきたと思っているのだ。恵美ではなく、亜美が。
恵美が亜美との思い出を知っていた事で、それは今、直樹の中で確証に変わってしまった。
恵美だと絶対にばれてはいけない。
私は亜美でなければいけない。
混乱していた。
さっきまで自分は死のうとしていたのだ。それを、直樹に助けられた。そして、自分は亜美だと思われている。なぜか声も出ない。
この状況に、一体どうしたらいいのかわからなかった。
それでも、この人を、これ以上悲しませてはいけない。どん底に突き落とした張本人である私が。彼の恋人を永遠に奪った私が。
混乱した頭でも、それだけはわかっていた。
恵美の足下に崩れ落ちて肩を震わせて泣いている直樹を、恵美は抱きしめた。恵美にすがりつく直樹を、子供をあやすように宥めていた。
ようやく落ち着いた直樹は、恵美の存在を確認できるようにずっと手をつないでいた。
少しぬるくなった紅茶とコーヒーをそれぞれ飲んで、落ち着いても、直樹は恵美のそばから離れようとせず、恵美の顔を見つめていた。
そんなに見たら、亜美との違いがばれてしまう。
ふとそう思って、直樹の肩をひじで押して遠くにやろうとしても、直樹はニコニコしながら恵美を見つめていた。
泣いてしまいそうだ。いや、泣くな。
「どうしたの?」
直樹に言われる頃には、思考とは裏腹に涙がこぼれてきた。
みじめだった。所詮亜美の代わりでしかない自分が。
それでも、直樹から離れたくない自分がおこがましくて、卑怯者で。
「どっか痛い?痛い?風邪引いた?あれ?幽霊って風邪ひくのか?」
おろおろしながら直樹が言った。
幽霊だって。
思わず笑っていた。
直樹は私を亜美の幽霊だと思っているのか。そう思うとなんだかおかしくて、泣きながら笑っていた。
可愛い可愛い直樹。大好き。
直樹が恵美の頬を流れている涙を拭いて、そのまま頬を包み込んでキスをしようとした。
ダメ。
気づいた瞬間、恵美が顔を引いた。でも直樹は手を離そうとしなかったので、ほっぺが潰れて唇が突き出す形になった。
その恵美の顔を見て、直樹が思わず吹き出した。
恵美はその顔のままムッとした。
キスをしてはダメだと思った。
これは夢じゃない。現実の世界なのだ。
そして自分は亜美の幽霊じゃない。
キスをしたら、それこそ本当に亜美を裏切る事になる。
けれどそんな恵美の気持ちを無視するように、直樹が言った。
「もう絶対離さない」
そう直樹に言われた瞬間、地獄に堕ちる覚悟ができた。
誤字報告ありがとうございました。




