正夢
突然、何かに手を引っ張られた。
行き先を阻む何かにつかまれて、それ以上進む事ができない。
恵美はゆっくりと振り返り、つかんだものを見た。
その瞬間。世界が変わった。
「亜美」
雪で真っ白だった世界が、緑の野原に変わる様に、世界は色で染まった。
好きで、好きで、会いたくて、でも絶対に会えなくて。
死ぬほど会いたくて仕方なかったその人が、目の前に。この、現実の世界に、恵美の目の前にいた。
夢で見た、高校生の時の直樹じゃない。
今の、同い年の直樹が。二十一歳の直樹がそこにいた。
そして突然、思いきり抱きしめられた。
現実のぬくもりが、温かさが、体中を駆け巡る。
夢じゃないだろうか。
これは夢だ。きっと私は死んでしまったんだ。
「亜美、亜美」
直樹の声に、我に返る。
亜美。
彼は私を亜美だと思っている。そう思った瞬間、極彩色の世界が雨の世界に戻る。何もかもが滲んで見えない。直樹が強く抱きしめてくる。夢の中と同じように、恵美の体は直樹の腕の中にぴったりとおさまった。
亜美じゃない。
私は恵美だよ。ずっと、ずっと恵美だったんだよ。
声に出したくて、叫んでしまいたかった。喉の奥が苦しい。直樹の背中をきゅっとつかんだ。
直樹、直樹。呼んでいるのに声が出ない。それとも自分の耳が聞こえないのか。涙だけが流れていく。
私の様子に気づいて直樹が顔を覗き込んだ。
「亜美?」
直樹の声が聞こえた。とゆうことは、私の声が出ていないのか。声を出そうとするのに、音が出てこない。突然喋り方さえ忘れたような感覚に陥る。どうして。どうしよう。
そのとき、また直樹に宥められるように抱きしめられた。
「大丈夫。大丈夫だ」
直樹の声に、少しだけほっとして身を委ねた。
直樹の胸の中にいるだけで、もう、なんでもいいやという気分になった。恵美だろうが亜美だろうが、直樹にこの世界で会えて、抱きしめてもらえただけで。
そう思っていたら、直樹に突然手を引っ張られた。
「行こう」
直樹が落としたらしい傘を拾って、歩き始めた。少し人ごみを抜けたところで、恵美が濡れないように肩を抱いて横に並んで歩き出した。
歩いてくうちに、感覚が戻り始めたのか寒さを感じ始めた。髪どころか、服もよく見たらずぶ濡れじゃない。
「亜美、えっと、ウチ、くる?」
歩きながら直樹がしどろもどろになりながら言った。ウチ?直樹の家?
「ほら、すげー濡れてるし。このままだと風邪引いちゃうし。あ!俺一人暮らししてるんだ!今」
なぜかますますしどろもどろになる直樹を見て少しおかしくなって、頷いた。その瞬間、直樹が突然手を挙げて、何事かと思ったらすぐタクシーが止まった。
もうおかしくて仕方なかったところを、直樹にタクシーに押し込められた。
タクシーの中でも直樹は挙動不審だった。恵美はその様子を見て笑い転げそうになったが、声が出ないので笑い声も漏れなかった。
直樹の家は、渋谷からすぐで、大通りから住宅街に入って少ししたところにあるアパートの一階にあった。タクシーを降りる時にお金を支払う直樹を見て、ふと恵美は財布を探した。
びしょびしょのズボンのポケットにも、何も入っていなかった。一体自分はどうやってあそこまで来たんだろう?そう思っているうちに、支払いが終わりタクシーをおろされた。慌てて直樹に向かってお辞儀をした。顔を上げて直樹を見ると、なんとも言えないような顔をしていた。恥ずかしそうな、嬉しそうな、照れくさそうな。
「ここの1階」
直樹に促されて、部屋の中に入った。あまりにもずぶ濡れな自分を見て一瞬躊躇したが、直樹に押し込められた。
直樹の家は、広めの1Kマンションだった。玄関から入るとキッチンがあり、奥にある部屋には本当に必要最低限のものしか置いていない。ベッド、ソファー、ローテーブル、テレビ台の上にテレビ。
恵美が直樹らしいなと思って眺めていると、直樹にタオルを差し出された。
「亜美、シャワーあびな」
指差された方をみると、洗面台を挟んでドアが二つ向かい合っており、右側がバスルームらしかった。
新しいトレーナーと下に履くジャージも渡され、バスルームに入る。
服を脱いだ瞬間、あまりの寒さに恵美は震えていた。慌ててシャワーを出す。水はすぐにあたたかなお湯に変わり、頭からシャワーを浴びた。
声の事を思い出して、何か発しようとしたが、相変わらず声は出ない。息だけがシューシューと漏れているような音がする。
どうして。と思った瞬間。今朝見た夢が頭を支配した。
私が殺した。
見る見るうちに涙があふれてきた。泣く資格なんて持ってはいないのに。
私が姉を殺したのだ。
温かいお湯を浴びているのに、体はまたガタガタと震えていた。
どうして。死ねばよかったのに自分なんか。どうして死ねなかった。
そう思った瞬間、直樹のことを思い出した。
直樹が止めてくれた。
直樹。直樹。会いたい。
恵美は今すぐにでも出て直樹を抱きしめたくなったが、ぐっと自分を制した。そんな資格はないのだと。自分には直樹に会う資格もない。ただ、涙だけがぽろぽろとこぼれていた。けれどそれは、シャワーにまぎれて自分でも気づく事は無かった。




