心の準備
「亜美ってば」
授業中、突然イノッチの声が頭に響いた。
驚いて後ろを振り向く。
「ちょっと~。何考えてたの?超呼んだのにシカトなんだもん」
「ごめんごめん。マンガ読んでた」
私は授業中の教科書の下から、ユキちゃんからまわってきたマンガを出してひらひらさせながら言った。まだ連載中のそのマンガの結末は知っている。
思考は空回りして、結局マンガを読むフリをしてても何も考えられなかった。
「も~。マンガ読みすぎ。前はそんなに好きじゃなかったじゃん」
イノッチは後ろの席から私の机の中を半分ほど占めるマンガ本を見てあきれて言った。
正直、その言葉を聞いてひやりとした。
亜美はマンガをあまり読まなかった。亜美の部屋はおおよそマンガとは縁はなく、申し訳程度に友人からもらったらしいマンガが四、五冊きちんと本と共に並べられていた。
逆に恵美の部屋はというと、亜美とお揃いの本棚にはマンガ本がぎっちりと並べられており、申し訳程度に小説本が五冊ほどマンガの上に積まれている。
「そうだっけ?だっておもしろいんだもん。目覚めたのよ」
私はあわてて自分で自分をフォローする。
「ふ~ん」
私が思っていたほど深刻ではない顔で、イノッチは私が読んでいた漫画を覗き込む。その瞬間、授業終了のチャイムが鳴った。
「あ。ごはんだ」
私はほっとしてマンガを机の中にしまいこんだ。
「今日は?」
私が聞くと、ユキちゃんとさっちゃんがかばんの中から弁当を取り出した。
「あたし買ってきた」
マミがコンビニの袋を出す。
「じゃあパンとか買ってくるわ」
「あたしも。行こ。亜美」
なにも買ってきていないイノッチと廊下を歩いて食堂に向かう。
「でも亜美変わったよね」
イノッチに突然言われて、心臓が飛び出すかと思った。
「そうかな?どこが?」
敢えて平静を装う。
「うーん。なんか…。面白くなった」
思わず吹き出した。
「は?おもしろい?」
「ってゆうか、山内と付き合ってから変わったのかも」
「…」
実際に、私がこの夢に出現したのは直樹とつきあう寸前だったから、イノッチのするどい洞察力は怖いくらい当たっている。
「前とどう違う?」
自然に、口から出ていた。単に好奇心から気になった。
亜美と恵美の違いが。
「なんかもっとしっかりしてた気がするんだけど。今はたまにどっか抜けてるっていうか」
イノッチは笑いながら続ける。抜けてるって…。
「バカって言うか」
バカって…。
「しっかり者のお姉ちゃんって感じだったけど、今は甘ったれの妹って感じ?やっぱ男ができると甘えん坊になるのかね」
イノッチの推測は本当に怖いくらいに当たってる。
亜美はしっかりもののお姉ちゃんで、私は甘ったれの妹だった。
「でも甘ったれ亜美も可愛いから大好きよ」
イノッチが私の腕に腕を絡ませる。
「バカな子ほど可愛いって言うし」
イノッチは自分で言って、自分で笑っている。
私はバカ呼ばわりされてイノッチをちょっとにらむけれど、すぐに笑顔になった。
自分の人格を、好きだと言ってくれた。うれしくないはずがない。
亜美と比べられてきた。小さい頃からずっと。性格も容姿も、亜美が褒められた。
亜美の親友が、私のことも大好きだと言ってくれた。亜美への優越感とか、そういう汚い感情じゃなく、素直に嬉しかった。
素直に、自分のことを好きになれるような気がした。
亜美に対して以前あった醜い感情が浄化されるように、私にも、愛してくれる人たちがいる。と、素直に嬉しくなる。
隣で笑いながら何を食べようか話しているイノッチを見る。
ありがと。
胸がいっぱいで、声にならなかった。
少しずつ。
少しずつだが、恵美は用意を始めた。
その日に向かっての用意を。
恵美の誕生日が来週に迫った金曜の夜、恵美は日記を開いた。はじめから目を通す。
最初のページには、夢の始まりのあの日が書かれていた。
この時は外見だけで彼に恋をしていた。一目惚れだった。
それからだんだんと彼を知って、淡い片思いは強い想いに変わった。
心の準備をしなければ。
恵美は日記を閉じた。
彼を失う、準備をしなければ。
彼を亜美に返す、準備を。




