壊れた彼女の救い方
「ただいま……っと」
鍵のかかった扉をあけると、玄関口にいた女の子が飛び込んできた。
「おか……っ。おかえりなさい……っ!」
ぎゅ、と首の後ろに腕を回されて抱きしめられ、思わず首がしまって苦しい。けれど、これが彼女なりの「おかえり」の仕方だと思うと、それもまた微笑ましくなってしまう。
冷え切った身体に染み渡る彼女の体温が、俺の身体を温める前に息ができなくなって死にそうだったので、ぽんと彼女の背中を撫でると……彼女は名残惜しそうに、俺から離れた。
「ただいま、楓」
「待ってたよ……。ずっと、ずっと……」
「今日はちょっと遅くなるって言ったろ?」
「だ、だからね。ずっと、ここで、待ってた」
そういって笑顔で俺から離れて、楓は玄関の上でぴょんと飛んだ。
「ずっと?」
「ず、ずっとだよ。1時間くらい……。だ、だって、全然、ゆう君、帰ってこない、し……」
そういって、段々と顔色が悪くなっていく楓。
「ごめんな、遅くなって」
「だ、大丈夫だよ。いい子で、待ってた、もん……」
楓はそういって、ぎゅっと手をにぎる。
そうしているのを見ると、とても同い歳の16歳だとは思えない。
「中入ろうぜ、風邪引く前にさ」
「うん……!」
俺たちが住んでいるのは、小さな六畳間。
そこに2人だけで住んでいる。
こんな生活が始まったのは、去年の夏からだった。
ずっと幼馴染だった楓が引きこもっているという話を聞いたのは、中学3年生の時だった。同級生の女の子に虐められていたのだと、随分と後になってから聞いた。元々、人見知りで、誰かと揉めるなんてことができない楓はすぐにパニック障害と対人恐怖症を発症し、そのまま家に引きこもった。
「今日の晩飯はカレーだぞ。楓も手伝ってな」
「う、うん。頑張るね」
「今度はちゃんと指を切らずに人参の皮を剥くんだぞ」
「だ、大丈夫だよ!」
そんな彼女を俺は一度、見捨てた。
高校受験が控えていたからとか、サッカーの大会があったとか……そんな言い訳はいくらでもできる。でも、去年の終わりに楓のお母さんに呼ばれて彼女の部屋に行った時に、ボロボロになった彼女を見て、俺は楓を見捨てていたんだと……本当に心の底から理解してしまった。
ご飯も満足に食べてなくて、ひどくやつれた彼女は肌はボロボロになって、髪の毛はがさがさで、風呂にも満足に入っていないのか酷い異臭のする部屋の中で、俺を見て、泣いたのだ。『やっぱり、来てくれた』と、そう言って。
『ゆ、ゆう君が、助けに来てくれるって……ずっと、ずっと、思ってたよ。待ってたんだよ』
何も言わない俺に、ぼろぼろになった彼女は目だけを異様に輝かせて、
『や、やっぱり。ゆう君は来てくれるんだって。し、信じてた……!』
憧れの高校があるからと、可愛い制服が着たいんだと……そう言って照れくさそうに笑っていた彼女はもうどこにもいなかった。ただそこには、取り返しの付かない程に壊れてしまった幼馴染がいた。
『も、もう。ゆう君がいれば、何もいらない。もう、何にもいらないから……』
セルフネグレクトという言葉を、後から知った。
自分の世話をすることを、放棄するのだという。
楓は、そうなってしまった。
外に出ることはなく、食事もちゃんと取らず、風呂にも入らない。
だから、1つ1つ。俺が彼女の近くで世話をしようと思った。
彼女を見捨てた俺にできる罪滅ぼしなんて、それしかないと思ったから。
「楓は人参からな」
「や、やだ。じゃがいももやる」
「この間、それで指切ったろ?」
「で、でも……」
「うん?」
「じゃがいもやらないと、ゆ、ゆう君に……捨てられるかも」
ぎゅ、と心臓が握りしめられたような気持ちになる。
怯えた子犬のような顔でじぃっとこちらを見てくる楓を安心させるように俺はそっと彼女の頭を撫でた。
「馬鹿だな。そんなんで嫌いになるわけないだろ」
「ほ、本当?」
「人参ちゃんと剥くんだぞ」
楓の場合は家族がお母さんしかおらず……そのお母さんは働き詰めで、彼女にちゃんと向き合えなかったのだと泣きながら電話で言われたときに、俺がやるしかないと思ったのを強く覚えている。誰にもできないのなら、俺が。
最初のころは……毎朝彼女のところに言って朝ごはんを食べさせて、学校が終わって夕ご飯を食べさせる所から、始まったんだと思う。そこからだんだんと増えていって、お風呂の世話とか、着替えとか。気がついたら、そういうのもやるようになっていった。
そして、去年の夏にこうして2人で暮らすことになった。
彼女の意思と、俺の親の意向と、そして少しばかりの幸運が混じり合って、こんな結果に落ち着いたのだ。
「あっ」
なんて、そんな変な考え事をしていたからだろうか。俺は包丁で自分の指を浅く切ってしまったのだ。楓には怪我をするなと言っておきながらこの始末。ちょっと恥ずかしいなぁと思っていると、隣にいた楓が手に持っていた人参とピーラーを流し台に落として、固まった。
「楓?」
「けっ、怪我! ゆう君が怪我しちゃった!」
「指の皮切っただけだぞー?」
「しょ、消毒液! し、死なないで!」
「こんなんで死なないだろ……」
血を見て急にパニックになってしまった彼女を落ち着かせようとしたが、俺が何かを言うよりも先に彼女は切ったばっかりの俺の手を掴んで口に含んだ。
「ちょっ!? 何やってんの!!?」
「ふぉーふぉく」
「なんて?」
いや、消毒と言ったんだろうけど。
「お、応急処置だから! ちゃんと病院いこ!?」
「指切っただけで??」
「だ、だって……ゆう君が死んじゃうのやだぁ……」
「大丈夫だって。大げさだな」
今にも泣き出しそうになっている楓を慰めると、俺は救急箱から絆創膏を取り出して貼っておいた。それで楓も一安心したのか、泣くのをやめたのだが……心配そうにこっちを見てくるので、「危ないぞ」とだけ、注意した。
「い、いい匂い……!」
「熱いからご飯を持つ時は気をつけるんだぞ?」
「う、うん」
食事は基本的に俺が作る。時々、楓が作ってくれることもあるけど……大抵は失敗するので、いっつも俺が作ることになる。
俺は2人分のカレーをよそうと、そのお皿を持った楓がコタツ机の上に2つ横に並べた。
「食べよっか」
「ゆ、ゆう君。そこ座って」
俺が机の前に座ると、そんな俺の膝の上に楓はよそよそと座ってきた。頭1つ分小さい彼女はすっぽりと俺の膝の中に収まると、それだけで満足そうにスプーンを渡してきた。
俺はそれを受け取ると、彼女のカレーをすくって、彼女の口元に運ぶ。
「熱いから気をつけるんだぞ?」
「うん!」
彼女の背面にいるから上手く彼女の顔は見えないけど、声色から楽しそうにしているのは伝わってきた。彼女の長い髪の毛が鼻の先でこすれて、ミルクみたいな甘い匂いがする。可愛いなぁ、と思いながら俺はそっと楓にカレーを食べさせる。
俺が食べさせないと、彼女はご飯を食べようとしない。
だから、ご飯を食べる時はいつもこうなのだ。
彼女の分のカレーを食べさせ終えると、俺は冷えてしまったカレーに手を付ける。そんな時、彼女は申し訳無さそうな顔をしながらも、なんとも言えない満足そうな顔を浮かべてじぃっと身体を預けてくる。
そんな彼女の体温を感じながら、いつも俺は夕飯を食べているのだ。
夕飯を食べたら、テレビの時間だ。
俺はあんまりテレビを見ないのだが……かつて、スマホのメッセージアプリを使って暴言やイジメにあった楓は、あれ以来スマホがトラウマになってスマホが持てなくなってしまった。
だから、テレビを見る。
テレビなら、彼女のトラウマは想起されないから。
「ゆ、ゆう君。ここ良いね……。行ってみたいね!」
「温泉かぁ……」
ちょうど温泉旅行のロケが流れているシーンだった。
露天風呂付きの個室旅館。芸人とアナウンサーが2人。
それを、楽しそうに見ている楓の横顔を……俺は彼女を抱えながら、そっと見つめた。
彼女は外に出ない。
対人恐怖症でろくに他人と喋れない他、パニック障害を抱えているので、いつどこで発作が出るか分からないのだ。
だから、旅行は夢物語だ。
でも……彼女は、昔の楓は……そういうのが好きな、普通の女の子だった。
だから、彼女がトラウマを克服できたなら、その時は2人で行こうと言っている旅行先が山のようにあるのだ。
「ろ、露天風呂が部屋についてたら、一緒に入れるね。ゆう君」
「2人で入るには狭くないか?」
「つ、詰めたら大丈夫だよ」
「確かになぁ」
でも、こういう温泉街は人がたくさんいそうだから楓が行けるのはだいぶ先になりそうだ。それよりも自然豊かな森の中とかの方が、まだ……。
そんなことを考えながら、俺は抱きしめている楓の後頭部に顔をうずめた。
「ど、どうしたの。ゆう君!?」
「匂いかいでる」
「な、なんで?」
「楓の匂いが好きだから」
好きと言われてまんざらでも無さそうな感じの楓だが、まだ風呂に入っていないのかそれを少しだけ気にした様子で、
「も、もう! 恥ずかしいから、だめ! 後でね」
「後って?」
「お風呂入ったあと!」
楓はそのままスルスルと俺の中から抜けてしまうと、顔を赤くしてお風呂場に向かった。そして、そのままリビングの扉を閉める。どうやら今日は1人で風呂に入るらしい。
その間に学校の課題を終わらせてしまおうと思って、俺がカバンに手をかけた瞬間、彼女は戻ってきて扉をあけた。
「な、何してるの。ゆう君」
「え、何が?」
「なんで、来てくれないの……?」
この世が終わってしまったみたいな顔をしてこちらをじぃっと見てくる楓。今にも泣き出しそうになっている彼女を慰めるために、俺はカバンから手を放して立ち上がった。
「ごめん、学校の課題をしようと思っててさ」
「ほ、本当?」
「本当だよ」
「ほ、他の女の子と連絡するんじゃなくて?」
「違うって」
「……良かった」
それでも少しだけ不安そうな顔をして、こちらを見る楓を安心させるように俺は彼女に触れるだけのキスをした。
お風呂からあがって、歯磨きをして、もう寝るってときに、俺はカバンから課題を取り出して手を付ける。なるべく楓との時間を大切にしたくて、俺は課題を後回しにする。だから、いつもこの時間にやることが多かった。
俺が課題をやってる時に、楓は起きて待っててくれることもあれば、先に寝てしまうこともある。でも、先に寝ても過去のトラウマで起きて、泣き出してしまうこともあるのだ。そんな時は、泣き止むまでずっと側にいる。それしか、俺にはできないから。
「わ、私ね……ずっと、ずっとゆう君と一緒にいたい」
「ん?」
「な、なんでもないよ」
はっと顔を上げて振り返ってみれば、照れくさそうに彼女は布団の中に顔を埋めていた。
「ねぇ、ゆう君」
「どうした?」
教科書にのっている古典の文章を口語訳している途中に、楓は俺のパジャマを引っ張った。
「ちゅーして」
「いま?」
「……うん」
「じゃあ、こっちに来て」
そういうと彼女は嬉しそうに起き上がってこっちに来た。
楓は俺が勉強しているときにこうして時々可愛らしい邪魔をする。きっと、邪魔をして怒らないかとか無視しないとかで、愛情を確かめてるんだと思う。
「ねぇ、ゆう君」
「どうした?」
今日はやけに話しかけてくるな、と思ったが帰ってくるのが1時間遅れたのでちょっとナイーブになっているのかも知れない。
「……捨てないでね」
「当たり前だろ」
思わず、言葉が強くなってしまう。
それは過去の自分に対する決別でもあり、未来の自分に対する戒めでもあるのだ。
その時、ぴこん、と俺のスマホが鳴った。
「楓、スマホ取って」
「……やだ」
「もー」
そんなことを言いながらスマホを取ろうとしたときに、楓は俺の手を取った。
「やだ」
「楓?」
珍しくぐずっている楓の名前をそっと呼ぶと、
「ゆ、ゆう君は、いま、私といるんだよ。なんで、他の人からのメッセージを見ようとするの。せっかく2人きりだから、スマホなんて見ないで、わ、私を見てよ。ゆう君」
「それは……」
「だ、だって。私……ずっと、我慢してるの。本当は、いっつもゆう君といたいの。朝起きて、お布団の中でごろごろして、お昼からは一緒に映画を見て、夜はこうやって一緒に寝たいの。そ、それだけで、幸せなんだよ? でも、ゆう君は学校があるから、そういうこと言っちゃ駄目だと思ってて、ずっと、ずっと我慢してるの」
「……そう、だよな」
泣きそうな顔で言われてしまったら、引くことしかできない。
「悪かったよ、楓」
俺はぐずぐずする楓の頭を撫でて、また勉強に戻った。
だが、しばらくして楓は泣きそうな声で俺の服を引っ張った。
「……ごめんなさい。ゆう君」
「良いよ、別に。気にしてないから」
「私……重い、よね」
「…………」
どう返しても死ぬ質問な気がしたので黙り込んだ。
「それに……面倒くさい、よね」
「…………」
「で、でも……なんで、一緒にいてくれるの?」
「好きだからだよ」
俺がそういうと、楓はぎゅっと俺の服を掴んでからすり寄ってきた。
「今日はよく甘えてくるな、楓」
「だ、だって……帰ってくるのが、遅かったから。ほ、他の女の子と、仲良くしてるんじゃないかと……思って」
「心配になったの?」
「……うん」
「馬鹿だな、楓は」
「ば、馬鹿じゃないよ……。だ、だって……ゆう君は、クラスの人気者で、サッカーが上手で、勉強もできて、いっぱいいっぱい、女の子が寄ってくるもん」
「…………」
「だ、だから……心配になるの。私のこと嫌いになっちゃって、他の女の子と一緒になったらって……ずっと、ずっと家にいる時は考えちゃうんだよ」
「嫌いになんて……なるわけないだろ」
「本当?」
「ああ」
「ずっと一緒だよ」
「もちろん」
楓はそれでも満足しないのか、手を伸ばしてきた。
「ゆう君、手にぎって」
「良いよ」
左手を差し出すと、彼女はそれを愛おしそうに抱きしめた。そして、そっとその手にキスをする。
「くすぐったいよ、楓」
「うん。くすぐったくしてる」
「なんで?」
「い、今だけは、ゆう君、独り占めしてるから」
「いっつもしてるだろ?」
「……そ、そうかな。えへへ」
布団の中で嬉しそうに笑うと、彼女はぽつりぽつりと言葉を連ねた。
「そうだよね。ずっと、ずっと一緒だもんね。ゆう君を独り占め」
その時、彼女はハッとした顔で起き上がった。
「そ、それなら、ゆう君も、私を独り占めしていいよ」
「良いの?」
「うん。おあいこだよ」
「おあいこか」
久しぶりに聞いたその単語が懐かしくて笑ってしまう。
そんな俺を他所に、楓は名案でもひらめいたかのようにドヤ顔していた。
「もう、夜遅いから寝な。楓」
しかし、時間は既に12時近く。
俺がそういうと、彼女は少しだけ拗ねたような様子を見せて、
「ゆう君が終わるまで起きてる」
「風邪引くから布団に入ってな」
「うん!」
左手は繋いだまま、彼女は布団にいそいそと入っていく。
俺はさっさと残りの課題を終わらせてしまおうと思って、ゆっくりと集中のギアを上げていった。
気がつくと、楓は眠っていた。
左手で握っている彼女の力が無くなっていて、だらりとしているものだから寝ちゃったのかと思って振り返ると、それはもうぐっすりだった。
でも、だからと言って手を離すわけにはいかない。
それで彼女が何度起きて泣いたことか分からないからだ。
「終わったよ、楓」
「……おつかれさま。ゆうくん」
完全に眠りに入りかけている声で、楓は優しく応えてくれた。
「一緒に寝ような」
「……うん」
俺は自分のことを、クズだと思う。
俺は中学の時にやっていたサッカーを理由に、楓を見捨てた。小学校の頃からずっとサッカーを続けた。周りからプロを目指せるなんて言われて調子にのっていた。県で一番の名門校のスポーツ推薦に受かった俺は楓ではなく、自分の人生を選んだ。
それで良いと思っていた。
楓もいつかきっと引きこもりをやめて部屋から出てくるだろうと思っていた。
だが、高校に入ってすぐに負った怪我でサッカーができなくなった。将来の夢と、今までやってきた全てを無くした。スポーツ推薦で入った俺は高校での居場所を失った。友達は気を使って俺からは距離を置いた。親は何も言わなかった。
だから、楓のところに戻った。
彼女だけが相変わらずそこにいた。
俺は怪我とともに全てを無くした。
そして、虐められて壊れた彼女だけが、俺に残った。
「……ん。ゆう君。好き…………」
寝ている楓にそっとキスをする。
絶対に楓を見捨てるはずがない。
楓のことを嫌いになるはずがない。
彼女は何もない俺のことを好きと言ってくれた。
俺さえいれば良いと、他には何も要らないとまで言ってくれたのだ。
壊れた楓に、俺しか残っていなかったように、
「俺も、大好きだよ。楓」
壊れた俺に、楓だけが残ってくれたのだ。