【6】少女と、ある夏の日の
小鳥が囀る早朝の事。
夏の朝は早く、窓から煌々とした朝焼けが差し込み、悠夜の脳を刺激した。
「ぁ"………」
(もう…朝か……)
悠夜は目の前で黒光する小さな箱とマウスを眺めながら目ヤニを取り、身体を上へぐっと伸ばした。
「ん"っ………ふぅ…」
息が勝手に漏れ、パキポキッと快活な音が背中から鳴った。収縮していた筋肉も程よく伸びて心地よさが随分とあった。
悠夜はそうしてからも口を開ける事なくボーッと、何も考えずに前を向いていた。けれど時間が経てば少しずつ頭も回り始めて、ある時悠夜は自身の肌を擦った。
(ちょっと寒いな…)
しかし近くにスマホも冷暖房のリモコンもなく、仕方ないと悠夜は重たい腰を持ち上げて部屋の中をトテトテと歩き、リモコンで冷房の温度を上げてみる。
「はぁ………」
外ではカーカーと、雀の鳴き声に齧り付く烏の声が広く、大きく響いている。
とは言えそれを特別悪く感じるわけでもない、朝の6時22分。
いつもよりも目が覚めるのが少し遅い事に、昨日の疲れがあるのだろうと悠夜は解釈する。
「……ぁっ」
そしてその昨日の事、をキーワードに悠夜はハッと目を見開き、勢いよくベットに向かって振り返った。
しかしそこには誰もいなかった。
例の少女は居なかった。
毛布は折り畳まれたまま。
ベッドも暖かくなかった。
(本当に幻覚だったか)
一気に荷が降りる感覚がある種の快楽の様に悠夜を刺激し、深い安堵感に悠夜は頬をほんのりと綻ばせて軽く数度頷く。
(ほんと、良かった……)
悠夜はそうして生まれた余裕の元、軽い足取りで自室を出るとダイニングに降り立ち、台所に立つ花奈と顔を合わせる。
「……」
「………」
この調子なら、声を振り絞れば、元気に声をかけられる。いつもと違って朝からちゃんとした会話が、出来るかもしれない。
そう悠夜は考えた。
しかし。
『おはよう』
その一言が喉でつっかえた。
昨日の一件は悠夜が思っているよりもしぶといようだった。声を掛けようとすると昨日の花奈の表情と声色が脳裏を過る。自身の情けなさも同時に蘇ってくる。
どうするべきなのか、そう悠夜は昨日と同じように言葉を探す。
そんな姿を見た花奈は、この不思議な間の意味を理解してか、先手を打つようにコホンと咳払いをすると。
「おはよ、悠夜」
「ぁ…う、うん。おは、おはよ…」
ほぼ反射的な返答ではあった。
けれど花奈は嬉しそうに微笑んでから、止めていた食器を洗う手を動かした。
「………」
それから悠夜は何となくご飯を今食べたくなって、レンジなどに入った食事を取り出していると花奈が再び流していた水の流れを止め、心配するような声色で悠夜に声をかけた。
「……ねぇ…やっぱり変よ悠夜。起きてくるのが59分早いわ」
「こ、細かすぎない? 俺ってロボットか何か?」
時刻は午前6時31分。
言われてみればまぁ確かに、とは言えるものの、気まぐれで落ち着く話。そもそも、悠夜が起きるのはいつも6時00分で、ここに降り立つのはいつでも良かった。
ただ、いつもは大体お腹が空く7時30分頃に降りてくるから変に規則づけて覚えられてしまっていたのだろう。
悠夜は「…まぁ、別に…変じゃない」と軽く言葉を返して席に座った。
「…いただきます」
昨晩に引き続き今日も和食だ。
悠夜の前には油の乗ったシャケに、昨日の味噌汁、白米に漬物。おかずに切り干し大根が並んでいる。
(……うま…)
素朴で素っ気ない感想だけれども、確かにそれは事実で、その美味しさは止まる事のない箸の動きが物語っていた。
だがしかし。
「……こほっ……ん"ん…」
悠夜には今シャケを食べているわけでもないのに小骨が喉に突き刺さっている感覚があった。その感触に顔を歪めていた。
そして顔色を青白く、そんな馬鹿なと首を嫌そうに横に振る。
口が閉まる。
箸の手が停止する。
思考回路が封鎖される。
「すぅー……」
悠夜はそれから目を逸らし、ゴクゴクと、用意していたお茶で何度もその違和感を取り除こうと画策するが、やはりそれが取り除かれるはずもなく。
「おはようございます悠夜さん! あっ、勝手ながら下の名前で呼ばせてもらってます!」
その声が悠夜の鼓膜を強くぶっ刺した。
目の前に広がる既視感は、金剛力士像が如く威圧感を醸し出しながら我が物顔で立っていた。
(……嘘だろ…おい)
台所の水音が煩く聞こえる程に静まり返った気まずい沈黙。悠夜は思わず空咀嚼をする。
「……っ」
そして悠夜はゆっくりと席から立ち上がると、少女の腕を強引に掴んで自室に連れ込んだ。
「おい、どういう事だよ」
ぽふっとベッドに投げ捨てられた少女は、ん? と首を傾げて口を開けた。
「いや、知らないですよ。どう言う事もなにも、なんですか、昨日の延長ですか? 何度も言いますが私妄想じゃないです」
「ああ、別にそれはいいんだよそれは。それよりも何で君がここに居るかって話なんだよ、俺の妄想なんだからさっさと消えてくれ」
「やだからあのっ、妄想だとかそう言うのじゃないって言ってるじゃないですか! …アホなんですか、人の話は聞いてくださいよちゃんとっ」
悠夜はレモンの抗議を聞き、八重歯を噛み合わせて、眉を顰めた。そして髪を適当にガシガシと掻き荒らして、ため息を吐く。
「ぁ"あっ…!」
聞けば聞くほど嫌気が差す存在。
悠夜はクッション性の高い椅子に荒々しく腰掛けると「じゃあ何なのさ君は」と、覚えのある台詞を投げかけた。
その既視感はやはりレモンにもあったようで、一度目で伝わらない話に同じ説明をしても通じるはずがないという考えからか、趣向を変えて言った。
「はぁ……。分かりました、分かりましたよ。これ、直すの大変なんで、ちゃんと見ててください」
そうダルそうに言葉を綴るレモンは、少し腰を丸めると、ふぅと空気を吐き、そして次の瞬間ーー
「っよ……」
ーーブォンッと部屋中に突風が渦巻いた。
咄嗟に悠夜は腕で顔を守る。けれど直ぐに風は収まり、それと同時にゆっくりと腕を外していく。
「…ぇ……」
そうして拓けた視界に映るもの。
それは、部屋の端から端までを占領する程の大きさを持つ、純白に彩られた美しい四枚の羽だった。美麗で、幻想的だ。けれど何処とない威圧感と神々しさを感じるそれに。
「ぇえ………」
呆気に取られて、言葉を失った。
どんどんと失われていく考え。
「で、これだけだとまだ妄想だの幻覚だの訳わかんないこと言われそうなのでーー」
そう言いながら椅子に座る悠夜の腕を力強く掴んだレモンは、悠夜の目を見て微笑みかけて言った。
「まぁちょっと死にそうになると思いますので頑張って下さいね」
途端。
「…ぁ…ひっ…ぅ"いや"、いや"ちょ……む、むり"…」
何かが身体の中を這い回る感覚に侵され、こしょばいだとか痒いだとか不完全ながらも明確な不快感の上に、ムカデが身体を這い回る様な拒絶感で頭の中は一杯になる。
「い"やっ"…ま"じ…いや"っ、はな"っ"離せよ"っ!」
ダラダラと溢れ落ちてくる冷や汗。
この気持ちの悪い感覚から抜け出そうと、必死に腕を振ったり引いたりしてレモンの魔の手に対抗するのだけれど全くレモンは動じない。
いや何の言い回しでもなく本当に、銅像の様に動かなかった。押そうとしても引こうとしても、どう動かそうとしても掴まれた位置からレモンの腕は動いていなかった。
そして、喚き立てる俺に嫌気が刺したのか。
「はーい、黙れぇー…?」
レモンがそう言うと、一人でにタンスが手前に引かれ、その中にあった一枚のシャツが悠夜の口の中目掛けて飛来した。
「っ"ん…! …んん!!」
しかし、どれだけ声を荒らげても塞がれた口から出る音は知れたもの。徐々に酷い脱力感に苛まれ始めた悠夜の声は、これ以上何をしても無駄なんだなと言う無力感と共に衰えていった。
諦めた。
圧倒的な力の差を自覚した。
ただそれだけで対抗する意思は刈り取られ、流されるまま冷や汗を多量に垂らし流していた。
悠夜の体は蒼白に色を変えていく。
明確に感じる寒さ、けれど全身を一周する頃に感じる熱した油の様な熱さ。首と胴体と脳をクッと力強く締め付けてくる様な苦しさ。
訳がわからないぐちゃぐちゃとした感覚。
涙が溢れているのか、目頭が熱く、頬に冷や汗以外の違和感を覚えた。
(助、けて…お願いします)
誰かに懇願するが、誰かに届く訳のない声。ただただ時間は過ぎていくのだけれど、その間に何度も切に願った所で叶う事はなかった。
「………」
朦朧とする意識。
(ぁ……あ…)
実際はほんの数分だったのかもしれない。
「……」
だが、悠夜にとってはこの時間が何日にも渡って行われる拷問のような、永遠とも取れる地獄の時間の様に感じていた。
呼吸のリズムが悪くなり、半分過呼吸の様な息の吸い方になる。
それを見たレモンは。
「あ、すみませんね」
そう言って、猿轡にしていたシャツを口から取り除いた。
けれど、抗議の声は上がらない。
上げられない。
息も絶え絶え、意識も途切れ途切れ、考えがまとまらないただ唐突に始まった苦しみの中で、悠夜は死を覚悟した。
だが。
「ぁ"…?」
それから暫くしての事だった。
さっきまで感じていた死を覚悟するまでの苦しみが段々と温かみを帯び始め、気づいた頃にはポカポカと不快感が殆ど霞みきった、ある意味抱擁されているような温もりを、悠夜は感じた。
ちょっと心地いい、その一言に尽きる感覚。
「………」
そうして変化した身体の感覚に、悠夜は目に光を取り戻し、重たくて中々思い通りに上がらない左腕で額の汗をべったぁ、と拭き取った。
「…じゃあ手、離しますね」
そしてレモンは漸く悠夜から手を離した。
掴まれていた場所に少しの赤みを帯びた悠夜の右腕。
「さっきのは…何なんだよ…」
脱力気味だが落ち着きを取り戻した頭に浮かんだ言葉を悠夜は遠回しに言って探ろうとすることなく、真っ直ぐに言い放つ。
「なんだと思います?」
しかしレモンはそう、またもやイラッとさせる物言いで悠夜に言った。
「そう言うのは良いから…」
「えー…つまらない人間ですねー。…まぁあれです、説得させるための前準備です」
そうレモンが言うと、唐突にそれは起こった。
「…これで多少は理解示してくれますよね?」
クーラーから少し距離があり直風は浴びないはずなのに体全体に感じた勢いのある冷気。
部屋の中なのに吹いた軽い突風に巻き上げられた髪。
そして空中に浮く、透明な塊。
目を見開くほどの怪奇現象。
それに黙々と焦点を合わせていると、レモンが補足するようにして「あ、これ氷魔法です」と言った。
(魔法……)
悠夜の背程ある大きさの、透き通ったそれ。
大分の目の前に置かれた為に、ヤケに冷気を感じて手先足先の温度が下がり始める。
「ぇ……」
椅子に座りながら見上げる氷柱。
普通不純物などの兼ね合いで光が屈折し、見える景色が歪む筈なのだけれど、目の前に置かれた氷柱は向こう岸まで綺麗に見えた。
不純物がそうない、綺麗な氷であることが窺える。
ただ、全く、ではない。
円柱型と言うこともあって、見え方が特殊だった。
「………」
そうした景色と感覚を前に悠夜は思った。
人間の脳で、瞬時に氷の中を通る光の反射率を再現する事は出来るのだろうかと。
それによる景色の歪みを、自身は解析し想像物として顕現させることがこんな簡単に出来るものなのだろうか、と。
そしてなにより、どうしてここまで温度を感じられるのかと。
(普通、無理よな……)
単純に出来ない。
少なくとも、そうした知識に富んでいるわけでもない悠夜には到底不可能と言える御業。
「………」
悠夜はすると、恐る恐る氷塊に人差し指を突き出し、それに押し当てた。
(嘘だろ…)
そうして触れた、硬質で冷たい、冷気を放つその塊。
「いっ……」
指を離そうとすると皮膚が引っ付いてメリッと音が鳴った。その時に感じた少しばかりの痛みが本物である事を示唆していた。それが現実であり本物である事の証明であると言えた。
それに何より。
「………」
ノックした時に響く、鈍く、甲高い、聞いた事のない氷の反響音がモノのリアルさ。それは幻覚にしては、ヤケにリアルだった。
(これは……)
しかし、そうした現実物である事を証明するこれらの情報は脳の力とも言えなくもなかった。いや、まぁそれを言い出せばこの世の全てが仮想世界であるとも言えなくもないが。
でもそれ位信じられない事象だから。
(もう少し情報が欲しいな)
そう考えた。
するとレモンは悠夜の驚く顔を見つめながら。
「それじゃ、悠夜さんも魔法使っていきましょうか」
と言った。
そんな流れる様な話に悠夜の口から「…え?」と言う間抜けな声が漏れる。
「いやだから使いますよって、魔法を」
釈然としない話。
「ぁ…。…ああー……うん」
だけれど、目の前で繰り広げられた光景は確かに本物であるかの様に知覚できたもので、なにより。
(本当に魔法を使えるんなら母さんにも見えるはずよな…)
レモンが妄想的な存在であるか否かの判断材料となりうる話。だから悠夜は否定的な意見を発するのはやめて頷いた。
「じゃあ…頼むよ」
「……あれ、だいぶと乗り気になりましたね…」
すると不思議そうにレモンはそう言った。
けれど、レモンは早々に肩から前に掛かっていた白紫色の髪を背後に掻き上げると。
「まぁ分かりました」
そう言って魔法について話を始めようとした。
のだが。
「あ、待って」
直ぐに悠夜はレモンの声を遮った。
「……はぁ? どうしました?」
「あのさ、服貸すから着てくんない?」
「え?」
「いやだから服、俺の貸すから」
悠夜は確かにレモンの全裸と言う形態に慣れてきているのだが、実際の所それは些かどうなのだろうか、という倫理的な観点から拒絶感を抱いていた。
故に、悠夜がレモンに提案するのは服を着てもらう、ただそれだけのことだった。
「後、羽。ちょっと身体を捻ったり動かすだけでカレンダーとか棚の上のものとかにモッサモサ当たっては落ちてんだよ」
「えー、折角出したのに」
「頼むからしまって、これ以上俺の部屋に危害を加えないで」
そんな懇願が届いたのか、レモンは溜息を吐きながら羽を収納した。
一瞬だ。
ハッとした頃には4枚の羽はなく、とっ散らかった部屋だけが残った。
(…踏まれたり蹴られたりやな)
悠夜はそれからタンスの元へと歩みを寄せ、紐付きの半パンと服を手に取りレモンに渡す。
下着は大きすぎるしブラもある訳ないのでそうした方面では我慢してもらう事になった。
そうして、レモンに着替えてもらっている間に悠夜自身も冷や汗などで濡れた服をとっかえ、新しい物に着替えて一息つく。
「…どーお、パンツぶかぶか?」
悠夜は全てを着を終えたレモンにそう声をかける。
「いえ、それが…男性ものの下着なんて履いたことがなくて」
「ズボンな」
「でもパンツ」
「イントネーションが違うだけだから」
紐パンでも落ちる事はなさそうだったので出していたベルトを片付けベッドの上に腰を落ち着ける。
「ごめん、話途中で止めちゃって」
「あー……まぁ、んー…いやほんとですよ」
「そこはいいえそんな事ないですよ位言えよ」
自身の気持ちを包み隠さないレモンの言葉にそう突っ込んで、悠夜は息を吐き、脱力感の強い体に鞭を打つ。
「……はい、じゃあ魔法を教えていきますね」
そうして魔法の授業が始まった。