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【5】少女と、ある夏の日の

 目と目が重なり合う、静かな空間。


 気まずい雰囲気が立ち込めると、レモンはいの一番でこの場から去っていった。


 そんな一部始終を見届けた悠夜は絶対に許さねぇと心に誓ったが、それよりも現状の気まずさが優先して悠夜の心臓の音を鳴らし続けていた。


 どうするべきか。

 考えれど妙案は湧かない。


 だからただ悠夜は口を固く結び、上げていた腰を椅子に落とし直して皿を見つめた。


 そして箸を手にして、一言。


「い、いやぁ……。刺身、お、美味しいなぁー」

「今日は和食で鯖の味噌煮よ」

「ん……鯖美味しいですぅ、筑前煮もとても…はい」

「あらお飯事(ままごと)かしら、全部綺麗になくなってるわね。お粗末様でした」

「ぁ、っあー。ありがとぉございますぅー……。すぅー……」


 息を多量に吸い込む悠夜の脳内は、パンク寸前だった。考えすらもまとまらず、箸を持つ手は震え、身体は冷えて固まる。


 さっきの軽快なやり取りとは正反対に重苦しくなった空気。悠夜は花奈の方へ目を向けない様に気を配り、じっと何もない皿の上を眺めて押し黙った。


 何か言われたらどう返すべきなのか、足りない頭で考えながら。


「……」

「………」


 だがしかし、思いの(ほか)花奈は何かを言う訳でもなくテレビ前に座り、目の前の卓に置いていた数個の化粧品を使い始めた。


「……っ」


 悠夜はそれを好機だと言わんばかりに食器を積み重ねる。


 早くこの場から立ち去る口実を作るためだ、バレてようが何だって良い。兎に角、この状況を何とかするのは無理(・・)だから、諦めて逃げる準備にとっかかるしかなかった。


 そうして悠夜は(せわ)しなく食器の運搬(うんぱん)(いそ)しむのだが、花奈はそんな(あわ)ただしい悠夜の姿を目の端で(とら)えながら言った。


「別に急がなくても良いと思うけど、なんかあるの? ゲームのイベント?」


 止まる脚の動き。

 回す頭。

 つりそうになる口元。


「えっ、あ、ぃゃ、その…」


 困惑と、迷いと。


 整理のつかない出来事が連続して起きる中での問いかけに、悠夜は言葉を詰まらせつつも()を埋める事に努めていると突然花奈が「…あっ!」と大きな声を上げた。


「なっ、ななに…?」


 それに悠夜はビクビクと体を震わせながら耳を傾ける。


 一体何を言われるのか。

 何かを言われたら何を返したら良いのか。

 もう一杯一杯で。


「まさか好きな子が出来たとかっ」


 急にそんな的を外した事を言われたら呆気に取られてしまう。ただポロリと「は…?」という本音が転げ落ちる。


「あら、違う?」

「う、うん。それは、違うん、だけど……ぇーと、その」


(だめだ何も思いつかん)


 するとまたもや花奈が「あーそうそう」と、会話の切り口を作り出して言った。


「今日の朝の約束、ちゃんと守ってくれたのね。嬉しかったわ、こんなに遅くなるとは思わなかったけど」

「それはー…こ、公園で寝ちゃってて」

「ふーん…そう…」

「…そう」

「………」

「……」


 それから再び訪れたのは静寂だった。

 流石に話しかける話題も尽きたのか、悠夜は止めていた脚を外に向けて。


(……逃げるなら今か…)


 なんて(よこしま)な事を考えればフラグになると太古の昔から言われている事で。


「ねぇ、悠夜」


 そう掛けられた花奈の声色は、さっきと打って変わって真剣なものになっていた。


「はっはい!?」 


 悠夜は(たま)らず声を上擦らせて返事をする。

 上擦った声は静かな部屋の中で大きく(とどろ)いて、花奈はそれに続くように言う。


「…悠夜。今日は……その、変よ。ごめんだけど」


 さてはて、ド直球もいい所。

 悠夜は瞬間的に加速した思考能力を駆使(くし)し、()(かく)平常を装う戦法に出る。


「……あー、いっ、いやぁ、そうかぁ? えー…いつもの事じゃん」

「いつも以上に変なのよ」

「あ、そこ否定してくれないのね……はは」


 そこに小笑いでも挟んでみて少しでも空気をよくしてみようと努力してみるが、その努力は焚き火に落とした枯葉一枚程度になる事もなく。


 ただ、その寒い空気が静かに鎮火(ちんか)していく過程を、ただただその言葉の重みを、ひたすらずっしりとした空気感を、ねっとりと、味わっていた。


(…地獄やな、これ…)


 堪能(たんのう)する程に苦味と辛味が増す、何の美味しさのカケラもない空気。気分が悪くなってくる。


 しかし、そうして黙っていればその空間から逃げられるわけでは無く、そうこうしていると花奈が真剣な物言いでもう一度悠夜に問い返した。


「何か、あったの?」


 と。


 花奈の心配そうな口ぶり。

 それに返せる言葉なんて、なかった。

 これ以上、心労を掛けてしまうのが嫌だった。


 だから安直に、愚直に、悠夜はとぼけた。


「ぇ? ……ぃゃ…。何も、ないよ」


 そんな返事を聞くと、花奈は「そう……」と、悲しそうな顔をして、また静けさの中に溶け込んでいった。


(また、そんな顔をして……)


 化粧水や美容液の水っぽい音だけがイヤに耳に残る。服が擦れる音も鮮明で、自身の呼吸の音は愚かバクつく心臓の音までも耳の中で踊っていた。


 そして思った。


(早く逃げたい)


 悠夜は(にじ)み出る汗を拭きあげる。

 あげて、あげて、あげて、またあげて。

 ぐるぐると回り始める視界に目を細めた。


(どうしたらいいんだよこれ…)


 分からない。


 そんな険しい表情をしながら、悠夜は自身の異常性をどうやって正常値に寄せてくるかという思考をし、会話デッキを随時変更する。


 けれど何も思いつかなくて、悠夜自身、自分の現状をある程度理解しているからこそ、余計に下手なことが言えなくて。


『明日精神科行ってくる!』


 解決の糸口になるであろうその一言が出なかった。


 プライドが邪魔をしているのだろうか、前例に甘えまいと無意識下で口にしないようにしているのか。心労をこれ以上背負わせたくないと言う言い訳が悠夜にとって随分と言い心地が良いのか。


 (いず)れにしても、何であっても、悠夜の脳内はぐちゃぐちゃで、考えがまとまらないままだった。


 そんな時。


 花奈は化粧水のキャップを締めながら優しい言葉をそっと並べ始めた。


「悠夜」


 顔を向けられてはいるのだろうが、悠夜は(うつむ)いたままでそれに気がつかない。というよりかは、視線を合わせないように黙々と食器を見つめていた。


「……」

「もしね」


 けれど、花奈は続けた。


「もし何かあったんだとしたら、絶対言ってほしいの。私は悠夜のお母さんだから、親だから…だから頼りにして欲しい。…前は…ぁいや、何でもないわ」


 その部分には、前は失敗しちゃったけど、なんてフレーズが入ろうとしていたのだろうか。悠夜は下手に勘繰る事をせず、しっかりと耳で聞く。


「困ってる事があるのなら、何かあるんだったら、なんでも言って欲しいの。いつでもいいから」

「………」


 いつでもいい、だから今じゃなくていい。


 つまるところ、敢えて逃げ道を残してくれているのだろう。なんて邪推(じゃすい)するがもっと先に考えるべきことがあるだろうと、悠夜は自身の手を見た。


「………」


 言ったら協力してくれる。かもしれない。

 この精神疾患も、この変わりたいと言う思いも、干渉し過ぎない程度に助けてくれる、かもしれない。


「その……ぇっと…」

「うん……」


 ただ、現時点で確証はない、何もない。ただの憶測。それもさっきの言葉を間に受けるのであればの話。


「ぇっと…」

「…うん」


 精神疾患の症状が二つ、古いのが花奈以外の人間の顔の認識がうまく出来ない事。新しいのが全裸で喋る美少女天使。


 ただ、後者に関しては普通に疲れているだけとか、実は夢であるかもしれないと言う一抹の希望も捨て難い。


 そうだ、明日。

 明日になれば、元に戻ってるかもしれない。

 少女の件は無くなってるかもしれない。


「……」


 ただ、それも…確証はない事に変わりはない。


「…その……」


 なんにしてもこれ以上、花奈に心配は掛けさせたくない。言わない事も、それも優しさのはずだ。なんだったら知らない方が良いまである。こんなペドでどうしようもない社会不適合だったなんて、知られるのも嫌だし知ってほしくもない。


 と言うか言いたくもない。


 嫌悪感だけが増す情緒。

 その中で見出す答えは、花奈がかけてくれている言葉とは正反対の方向を向いていて。


「その…」

「………ぅん」

「…えっと…」

「うん」


 待ってくれている。

 そのうんという優しい頷きに心が揺れる。

 心配させてしまっている、その事を考えるのはとても今更で、けれどその事が余計に悠夜の首を絞めてくる。


 そしてその首を絞めてくる力は頷きを聞く度に強まっていっていて。


「その…」

「うん」


 ミチミチッと唸り声を上げて、全てを吐き出そうとする考えは。


「……ごめん…」

「……」

「…なん、にも……なんにも…ない」


 死んでしまった。

 後に残ったのは雑念と謝罪だけだった。

 飽和(ほうわ)したそのごめんという言葉が思考の色を染め上げていた。


「…ごめん」

「………」

「ほんとにごめん…」


 静かな空間だった。

 だから悠夜の一言一言はとても、目立っていた。


「ごめん…」

「うんん。大丈夫、大丈夫だから」

「ほんとに、ごめん……ごめん…」

「分かったから」

「ごめん」

「分かった」


 もうそれ以上はその言葉を聞きたくなかったのか、無理矢理に話を切り上げる花奈。


 そしてその後直ぐだった。

 花奈はパンッと手を叩くと、元気の宿った声で言った。


「…よし、じゃっ、悠夜! 今から言う事ちゃんと聞いて」

「ぁあ、うん……?」

「はい、じゃあ言うね。報告連絡相談相談っ。…復唱!」

「…ぇ……?」

「報告連絡相談相談っ」

「ぃや、相談回数、一回…多くない?」

「悩みの分だけ相談してって事よ。あーそんな子にはお母さん検定上げられないわよー」

「う…うん……」

「…んもー…はいっわかった? これだけ守って…あ、やっぱ守らなくて良いわ、覚えてて、それだけでいい。それ以上は求めない」


 空元気なのだろう。

 奥歯がギッと噛み合って、再び絞り出す様に出てきた言葉はさっきと同じ「……ごめん」の一言だけだった。


 そんな言葉に、花奈は歯牙(しが)にも掛けないと言った様子で。


「…はい、じゃあ以上! 尋問終了、閉廷かいさーん!」


 パンパンッと高らかに手を鳴らしてそう言った。


 その音は悠夜の胸にも響いた。


 それから悠夜はぼーっと動いていた。

 自身への呆れからなのか、心の痛みに我慢できず自我を放棄したのか、何も考えたくなさ過ぎて頭の中を空っぽしているのか。


 当人ですら分かっていない。


 でも彼、嶋崎悠夜の頭の中には一言だけだけれど言葉が生まれていた。


(何でこうなったんだろ…俺)


 いつから本格的におかしくなったのか。

 それについて心の中で問うのだけれど、やはりそれ以上悠夜が深く考え出す事はなかった。


 ただそうして悠夜は、作業用のクッション性の高い椅子に座って机に突っ伏していた。

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