【4】少女と、ある夏の日の
身体がフワフワしている。
眠りの心地よさと、重たい暖かさがなんとも言えない快感だった。このまま寝ておきたいと思えた。
悠夜はけれど、そうした起きたくないと言う衝動に抗うようにしてガッと目をこじ開け、慌ただしく浴槽に手足をぶつけながら沈みかけてた体を起こした。
「ぶっはぁーっ…がほっごほっ…ぅ"…ごほっ"」
沈んだ口から侵入した水、レモンの入浴剤を投入したが味は薬剤の苦味とただの水の味。それが余計に気分を悪くさせた。
「はぁ……はぁ…かほっ……はぁ…」
シワシワした自身の指先。
目の先では湯船の上で平らな羽が浮いていた。
深い呼吸をしながら状況を整理する。
(生きてるな……よかった…)
そうして自分の生死に安堵してすぐ、悠夜は風呂の中から体を出した。
浴槽を跨ぎ、床に足の裏を乗せると体にまとわりついていた水が零れ落ちた。ぴちゃぴちゃと雫になって落ちていく水滴達。ふらつく視線、ボーッとする頭。
そして悠夜はこめかみを抑えながら浴槽の栓を抜いた。
「ん"ん……こほっ…ん"……」
咳き込む度に満足する息が出来ず、喉を鳴らしながらすぅーと鼻で空気を吸って溜息のように吐き出す。
「はぁ……」
ペタペタとのっそり向かった脱衣所。気温の差からか部屋を移ると少し涼しく感じた。ただ、暑いのは暑い。だから悠夜は壁掛けの扇風機を点けて、近場にあった椅子に腰を落ち着け休んでから着替えを始めた。
(……飯食うか…)
それから頭の回りも正常になり始め、自身の欲求を改めて感じた悠夜はリビングに向かって歩き出す。
その途中、徐ろに通りかかった階段を見上げると、和室の電気が点いている事に気がついた。
(母さんか…)
だが、特に気に止めることもせず、悠夜はドアノブを落とし、誰もいない涼しい部屋の中へ入って行く。そうして歩みを進め悠夜はレンジや冷蔵庫をちょくちょく開けては、ラップに包まれた食器を机の上に置いていった。
どれもそこそこ冷たくなってしまっているが温め直すのも面倒だ。そう思った悠夜はレンジの捻りにも目を向けず、最後に箸と冷たいお茶を入れて席に座った。
(…頂きます……)
腹の鳴りに悠夜はそそくさと箸を握る。
意気揚々と食事を嗜もうとするのは生物的にも普通だ。口にする満足な味に少し口元が綻んでいた。美味しさがそうさせていた。
しかし、目の前の景色が埋まっている違和感に悠夜は口の中に放り込んでいた物と一緒に息を飲み、箸を置いた。
眼を何度も瞑り、目を何度もそれに向ける。頭の中で理解が追いつかず、違和感の存在に首を振る。
「え、なに。ど、どっきりっすか」
白色の肌。紫色が淡く余る白色の髪。腰まで伸びた髪の毛は少し邪魔そうに見える。溶岩のように輝く鈍い赤眼は、悠夜の心を見透かすように凝視していた。
「あの…。ぇぇ………」
そう。
目の前の違和感。
その正体は、何を隠そう悠夜が自身の分身体という事で無理やり腑に落とし込んだ不可思議な少女で、その少女が悠夜の目の前で座っていたのだ。
「ぇっと……」
暫くして、言葉に反応しない少女から目線を外し悠夜は鼻で息を吸う。
するとそれに合わせて少女はいった。
「先程はどうも、お助け頂きありがとうございます。あ、えっと私の名前は…その……レモンです。お見知り置きを」
「え時差大丈夫? 言葉の時空歪んでない?」
「後早く私の分の食事も出してください」
「急に厚かましいな!? 何処の時点で会話の主導権を握ったんだよっ。てかせめてどっきりかどうなのかはっきりしてくれよ」
「え…どっきりとは?」
はて? と首を傾げる少女レモン。
その姿を前に、けれど幽霊とかではなくちゃんと喋れるもうそ…幻覚である事に安心を感じ、悠夜は止めていた食事の手を進め、筑前煮を箸で摘む。
そしてパクっと一口。
「………」
「……」
まさか話せると思ってなかったということもあり、悠夜の頭の中には安心はあれど、会話の種となりそうなものはなかった。
だからか、やけにスンと静まり返った空間。
悠夜は無駄にレモンと自称した少女と目線を交えながらも手に持つ箸と口を動かし続けるのだが、突然レモンが「んー…」と唸るように目線を落として考え始めた。
悠夜は手を止めた。
その唸り声から何か怖いものを感じた。
だから悠夜は恐る恐る「…どうした……?」と声をかけた。が、返事はなく、数秒してもアクションを起こさない少女。
腹の底、その想像が全くつかない少女の動向に少し眉を顰め、またか、と仄かな苛立ちを抱えながら時を待つ事暫く。
それから「えぇと……」と、漸く口を動かしたレモンに悠夜は意識を向けた。
「あの……その…」
「…なに」
目が少し泳ぐような、何かを探るような言葉調。
悠夜はそれに語気強めに返すと。
「お仕事は…何をなさってるのですか?」
「え地雷探査中だったの? きっれぇいに踏み抜かれて俺の心が痛いんだけど」
「ああ、四肢爆散ですね」
「洒落になってないんよ」
悠夜はそんなびっくりするくらい綺麗に踏み抜かれた地雷の痕跡を前に、色んな気持ちを孕ませた深いため息を吐くと。
「…何もしてない」
情報を捕捉するようにそう言い、箸を握って白米を口に運んだ。
「あー…俗に言う無職ってやつですか」
「……そう」
「なんだクソニートかよ」
「っいやその言葉のナイフちょっとでもいいから隠してくれよ。それかオブラートで包んでから隠せぇ?」
「…あえっ、あの…どうかしました?」
「いや逆にどうかしかして無いんよ?」
白々しいというよりかはわざと、と言うのは聞いて取れる話。ただ、悠夜にはこの会話の意図が上手く掴めず、ただ貶されているように感じていた。
……いや、実際にそうなのだから相手の気持ちを態々汲み取って考慮する必要はないと思っている。
まぁとにかく。
「あの、なんだ…君さ。言葉が強いわ、もっと優しくしてくれない? すんごい痛いの心が」
「ニートの考え方ってぬるいっすねぇ…」
「っ…ぁ"あ……。も"うっ、るっせぇなぁ!」
んなこたぁニートの自分が一番知ってんだよ! と、心の中で舌打ちと悪態を吐く悠夜は、その不快感から気を逸らす為に鯖の味噌煮を咀嚼し、飲み込み、味噌汁を啜った後直ぐに白米を口内に放り込んだ。
そんな風景を見てレモンは少し羨ましそうに口にする。
「……それにしてもおいしそうですね」
「ん…? ああ、まぁ。母さん、何か色んな資格持ってるみたいでさ、料理もそうでめっちゃ美味いんだけど……君、俺の分身のクセして知らないのか」
「はぁ…? いや、あの、さっきもそうでしたが…あの…なんですか? 分身…?」
「え? は? いや、だってさ、現に君は俺以外の誰にも見えないし感じられないのよ。いや、俺も自分で何言ってんのか分からんねんけどさ、実際そうやし」
お茶をぐびっと飲み込んで、悠夜は続ける。
「……だから…なんだ。そう思ってんだよ俺。それにほら、強すぎる思念は例え本体が無くとも思念を抱く人にはそれが本当のように感じるって言うし…あ、あれだ。冷たいアイロンを押し付けたのに火傷するやつ。あんな感じ」
詰まるところ思い込みによる影響は酷く現実に反映されると言う、心理学なのか脳学なのか分野のいどころが分からない話ではあるものの、悠夜はどっかで聞いた事のある理論をさも当然が如く説いた。
「は…? ぇいやあの……頭大丈夫です…?」
しかしだ、思い込み且つ投影された擬似体である筈の少女は、夏のアスファルトに撒く水打ちの如く勢いで悠夜に毒を掛けていく。
(なんか言い方がムカつくんよなぁ…)
「ねぇなに、さっきから。俺を馬鹿にしたいだけなの?」
「いやそんな。ただ単純に訳がわからず…」
嘘は微塵もついていなさそうな、紅蓮に輝く綺麗な瞳に悠夜は更に首を傾げて言った。
「…はぁ? いやだから何度も言ってるけど君は俺の幻覚。俺は精神疾患を患ってるの、だから君は俺の幻覚妄想、虚構に幻なのおっけー?」
「やや。それですよそれ、なんですかその妄想だとか幻だとかなんとかって。私があなたの妄想ですか? 患者さんなのは察しますが…」
「何で部分的に察するんだよ」
「だって分かることがそれだけなんですから、そりゃこの結論に至るのって当たり前なんですよ」
うんうんと頷くレモンは然もありなんと言う雰囲気で悠夜を見つめる。悠夜はその真紅の瞳の奥にある心理を覗き見ようと目を凝らしてみるが何も見えなかった。
本当に何を考えているのか全く分からない。
そもそも何故少女は全裸待機なのか、髪色がほんのりと紫っぽい色をした白色なのか、目の色が赤なのか、そして少女なのか。
精神疾患として見た時、一般的に見てこれは何だろうペドフィリアになるのだろうか。
悠夜は考えれば考えるほどに頭を悩まし、喉に小骨が突き刺さった時の様な、微妙な顔をしながら箸を置く。
これで箸を置くのは何度目なのだろうか。
「じゃあさ、君ってなんなの」
事態はいったい何処に帰着するのだろうか。悠夜はそう簡潔に、核心をつくように言葉を発すとレモンは。
「そうですねぇ…何だと思います?」
なんてふざけた言葉を返してきていた。
呆気にとられる悠夜は、けれど言っている事を半ば理解すると共に、ピクつく目尻を抑えながら「…君は信頼を得たくないんか」と言ってみる。
しかし。
「えへへ、ニートの信頼なんてゾウリムシの栄養にもならないんで」
「え、なに、敵なの。敵になりたいのなんなの、全面戦争する? 第一次嶋崎家戦争でもすっか?」
やけに好戦的な言葉調にピクピクと釣り上がる悠夜の頬。悠夜はほんのりと怒気を含んだ言い方でそう言うと、レモンが「まぁまぁ」と両手を使って宥める様にして。
「そんな顔してたら私がすかさず馬面って言いますよー」
「いやちょ、お前一回しばいていい?」
イラッと来た気持ちのままに飛び出た言葉。
抑えきれなくはなかったのだけれど声に出してしまったそんな言葉にレモンは。
「あー…」
と、少し嬉しそうに唸って言った。
「殴り返して良いのでしたら全然構いませんよ。これでも私天……堕天使ですから人間の男程度しょーみざこーです」
と。
あらあら大変逞しい返事が華奢で低い背丈の、それも小さな少女の口から返ってくるではありませんか。
悠夜はそんなレモンの煽り返しを聞いてフッと瞬間的に冷静になりそこで、いや待て、と否定的な考えの元、ぽかんと口を開けたままレモンを見つめる。
「え、なんですか」
訝しげにレモンは悠夜を見つめ返す。
そうしてお互い目線だけ合わせて、黙り合った。
(…え、今こいつなんて言った)
でも、特に悠夜の頭の中は黙る時間が長い程思考が加速していて。
「……ぇ」
こいつは、そう。
悠夜の聞き間違えでなければ、レモンは自身を天使と言っていた。聞き間違えでなければ、レモンは、自身を、天使だと呼称していた。
聞き間違いでないのならーー
「え、今天使って言った?」
ーーこいつは一体何なんだ。
レモンは悠夜のそんな再三とばかりに掛けられた言葉に「え?」と驚きつつ、沈黙の途中で悠夜の意図を理解すると。
「…あぁ、ええ。まぁ言いましたけど、堕、が抜けてます。…ですが、まぁはい。そうですよ、天使です、堕ちてるって自分で言うのは癪ですが、区別の為にも、此処では堕天使とでも呼称しておきます」
「え、なに? 胡椒?」
「言葉って難しいですね、折角ですしインドにでも送り返してあげましょうかぁ?」
レモンはそう言って小さく息を吐き、真上にある天井の照明に目を向けると脚を組んだ。そして踏ん反り返るような姿勢で目を閉じる。
「………」
悠夜は悠夜で頭の中が相変わらずショートしていて、予備電源で頭を動かすので精一杯。追いつかない理解、いや追いついてしまわないように考える時間、思考回路。
静寂な一間。
「さて…どうしましょうかねぇ」
レモンの大仰な、態度に収まらない、図々しげな声色。
そんなレモンの一人事に、悠夜は言葉を躓かせながら。
「な、なに悩んでんの?」
不安げに言葉を投げかけた。
それからレモンはまた少し一考して答える。
「あぁ…いやぁ、私が天使と言った事に対して信用する心の動きすら感じ取れなかったんで、どう説得するのが一番かと」
「あ、あー…なるほど…ね。はは」
しかし、そんな風に平々を装う悠夜の外面とは反対に、内面では幅を利かせる悪感情が頭の中で暴れ狂っていた。正常な思考回路を溶かしていた。
【とんでもペドのファンタジー色に染まり切ったやべぇ無職32歳+α】と言う地獄の様な思考が働いていて、悠夜のその首を締め上げていた。
(これって…どうするべきなんやろ…)
自分が怖い、そう思うようになっていた。
どうやって治したらいいのか、ただでさえ社会不適合者なのにこれからどうしたら普通に生きていけるのだろうか。迷惑をかけないように生きるにはどうしたらいいのだろうか、こんな社会のゴミ死んでしまった方がいいのではないだろうか。
と。
でも、前に広げた絶品料理に向かって箸を動かす手だけは止まっていなくて、黙々とボーッとしながらご飯を食べ進めていると、気付いた頃には摘むものすら無くなっていた。
「………」
カチッと、箸で空気を摘み、現実に戻ってくる。
「…」
(ほんとどうしたら良いんだよこれ…何でこうなってんだ……)
思い詰めれば詰めるほど、正露丸を噛んでそのままにしたような苦しげな表情が浮かんできてしまう。
「ごちそうさま…」
(俺はペドじゃない……普通なんだ…空想はゲームと本の中だけで良い……。これは悪い夢だ…俺はペドなんかじゃない…)
そんな目元が暗くなった悠夜を見つめていたレモンは、何を思ったか急に両腕で胸を隠すと恥ずかしそうに。
「…いやん、食べられちゃいました…」
そう言った。
瞬間。
「っは"ぁ"あぁああ!?」
悠夜は荒らげた声と共に力任せにバンッと卓上を平手で叩き上げ、レモンを見下ろす様に勢いよく立ち上がる。
弾けた外面の感情。
睨みつける眼光。
食器が音を立てて、箸が皿の上から転げ落ちる。
そして絞り出た怒声。
「お前なんて食わねぇわ! お前ほんまっ、ほんまふざけてんじゃねぇぞ!!」
思い詰め過ぎた悠夜の感情は、そのしょーもないと取れる一言でも先が鋭利に尖った針へと変容し。
「急に現れて誰にも見えんくて! なんかお前には馬鹿にされるしさぁ!! お前ほんまなんやねん!!!」
そしてその針は風船のように柔らかく、それでいて不安定に膨れ上がった悠夜の感情目掛けてスッパーン! と豪快に突き刺さってしまっていた。
そんな時だった。
「ぇ……?」
ガチャリと、ドアを開けて入ってきた花奈と、息が荒く目つきの悪い悠夜の目とが。
「はぁ…はぁ……。……ぁ…」
合った。