【3】少女と、ある夏の日の
深い眠りの中、ひゅーっと吹いた生ぬるい空気に顔を顰めて起き上がる。眠りまなこを擦り、重たい身体に無理を言わせてさせたその体勢。
頭が回転を始めて漸く今が夜になっていることに気がついた。
「まじか……」
もう夜か、と何とも時間を無駄にした感覚に襲われて軽く息を吐く。身体が重く、思考がゆっくり。気怠さがしつこくまとわりつく。
「……」
徐ろに見上げた先は天井だったが、身体を少し後ろに動かして穴の先から景色を見上げ直すと、キラキラと輝く星々と淡い光を落とす月が窺えた。
相変わらずと月は歪な半月型。
(いつからあの月は欠けてたんだっけ)
見ていた星空と月の輝きに感化され、悠夜はそんな事を考える。
半分ほど歪に欠けた謎の月。
クロワッサンの様な綺麗さではないにしても、そこそこ綺麗には見える。
その不細工ながらもしっかりとしたこ綺麗さは嫌いではない、が好きでもない。そう。悠夜にとってこの月は良いものではなかった。
(大学……ちゃうな…高校の時の片桐先生だっけか)
高校時代の地学の先生。
ノリのいい先生で、話しやすく、いろんな生徒と仲が良かった。だから特別仲が良いと言うわけではなかったのだけれど、どっかであったら駄弁る程度に悠夜と関わりがあった人物だった。
その人が教えてくれた月の事。
特段専門知識的なことは無かったけれど調べようとしなければ気にもならない話だった事。
(確か……)
この宇宙のどこか。
未だ観測できていない環を持つ惑星があるらしい。そしてその環の中の一部の塵が一定の周期ごとに軌道上から外れ、宇宙空間を漂う様になる。
そんな塵が幾つか地球の在る方向へと飛んできて、隕石として月に衝突し、欠けさせているのだろうと言うもの。今のところ有力な説として考えられているが実の所あまり分かっていない。
それに月が欠けている度合いから、その隕石は飛来と同時にほぼ確実に月に接触している様にも見え、月に何かしらの力があるとも考えられている。
偶発的に衝突するにしては程度のものではないからだ。
だから実は月が隕石を呼んでいる、なんて言う説も囁かれていたりする。
ただ、その説を一蹴出来るのかと言えばそうでもなく、発掘された文献や書庫に残されたものからそれに当たりそうな話が散見されている。
大体300から400年単位でその事が記されているのだが、有名な物でエジプトの天文学者ガイオロスが著した『星月』にて「輝星、月と交わり、地に散落す」と言う、月に隕石が衝突するという現象に関しての記述が存在している。
他にも歴史書には「世に落つ煌々、聳えるは塔」ということが記載されており、共通点としては同じ様な事が色んな国の歴史書にも書かれていた事。
ならその話に信憑性がある、かと言えば世界各地に謎の塔が聳え立つは愚か痕跡すらない。
不可解にも、だ。
だからそれこそ都市伝説だとか、異常に整った列伝として嗜まれている。まぁグリム童話や現代でも名前の上がるファンタジーの生物が発見されればまた別の話だが。
そんな話を小一時間笑い話を交えながら話していた放課後の時間。
(そういや、先生とこの前会ったのっていつだっけ)
悠夜は大学に進学し、卒業し、そして就職した。その時の一年目、冬ごろに久しぶりに会う機会がありその時っきりだ。
「はぁ……」
”欠けた月”
(キレイなんだけどさ……)
好きになれない。と、悠夜はその月から目線をずらしてゆっくりと瞬きをする。
汗がヒタリと頬を濡らして、体温を下げようと蒸発する。無駄に伸びた髪の毛を邪魔に感じ、悠夜は頭をバタバタと震わせた。
一陣の風が吹くと、それを余計に強く感じる。
「ぁ"ー……」
それにしても、息苦しい気温は昼と変わらない。
疲労感が随時更新される。
しんどい。
そうして浮かべる苦々しい顔。
残っている1Lあまりの水をちょびちょび飲むが、ぬるくて不味さに拍車が掛かり、飲めたものじゃなかった。
(……帰ろ…)
夜も遅い。夏の時期に夜の帳が落ちているならもう相当な時刻だ。
悠夜は漸く本当に帰ろうと思い、身体に力を入れて体勢を起こす。
(あー…)
けれど、そうやって起き上がると途端に動きたくないと言う衝動にかられた。靴紐が解けているのも、その情動に加担していた。
だが、その感覚は脱水症状に近いものなのかもしれない。そう考えて水を嫌でも飲むのだが、寧ろ気分が悪くなる。
「はぁ……」
早く帰ろう。
(風呂に入りたい…)
悠夜が時計台に目を向けると20時16分を指していた。やはりもう遅い時間だ。
お腹の減りに腹をさすりながら、広大な土地を踏み歩く。歩き歩いて家を目指す。
その途中。
遠い所に立てられている街頭の灯りが届かず、月明かりに軽く照らされているだけの薄暗い時計台の下に何かが居るような気がした。
真横を通るときに背筋が凍った。
急に全身が冷え固まり、冷や汗がやんわりと溢れ始めた。
悠夜はそんな直感的な恐怖感に振り返る事すらもできないまま歩調を早める。
だが『万が一』の場合も無いわけじゃあない。本当にそこにいるのが人ならば、じゃあそんな人が倒れているのにほっておくのかと。
そう考えると、悠夜は怯えながらもまず時計台の天辺に目を向けた。そしてそこからずるずると視線を下に降ろしていく。
恐る恐る、怖がりながら。
「……って、おいっ。君っ、大丈夫か!?」
そして抱いた安堵と、強い焦りの感覚。
目を向けた先には確かに人がいた。
けれど全てがおかしかった。
ぐったりとした様子で倒れている子供。
光が少ないものの悠夜の瞳に映った澱みのない、雪のように白い肌。色を失ったと言うにはほんのりと紫がかっている、透き通った白紫色の長い髪。
子供ではあるが、顔の造形が驚くほど整っていて将来有望な印象を受けた。
(ハーフか…海外旅行者か)
どっちにしても周りに家族のような人影はなかった。
(これは迷子か…いやぁ……)
しかし、そういった要所要所に着目して事を分析するよりも、この状況の異常性に考えが行って仕方なかった。
(裸で迷子は…流石にないわな)
悠夜は考えを巡らせながら頭を掻く。
すぅーと息を吸い込み辺りに目をやる。
そして非常にきな臭いな、と目線を落とした。
(衣服は周りに落ちていないし。…虐待か……?)
悠夜はしゃがみ少女の肢体へと目線を落とすものの、打撲痕や傷痕すら見られず。
寧ろどこまでも透き通る、それこそ職人がふき掛ける塗装スプレーの様な、ムラがない白く、綺麗な身体だ。
(っもしや……)
白い肌。
悠夜は一思考跨いで、急ぎ少女の首筋に人差し指と中指を押し当てた。
そうして悠夜の感覚神経に伝わるはっきりとした脈。鼻に指を近づければ微かな息もしていた。
だがやけに弱々しい呼吸。
薄く開いた口からは熱を多量に帯びた空気が排出されており、よくよく見れば肩で呼吸をしている。
汗も出ていない。
そうした観点から導かれる事柄は、熱中症。
「おい、ちょ、起きろ。なぁおいっ。とにかく水飲めっ」
悠夜は飲みかけていた飲料水の蓋を取り、少女の口に添える。すると嚥下する力は多少残っていたようでこくこくと飲んでいた。
(飲めるなら良さそうだ)
そうして悠夜は拒絶反応を見せる少女の意を無視して、残りの水を全て飲ませた。
空になったペットボトルは袋の中へ。
悠夜はそうして焦る気持ちを少しずつ消化させ、次の行動に出る。
(……よし。ええと、で。こういう場合は警察と救急車だな……)
悠夜はサッとポケットに手を突っ込む。ワサワサと弄り、探し物を手探りで掴もうとする。
「て、あぁっ」
がしかし悠夜はスマホを持ってきてない。
加えて、辺りには公衆電話もない。
小銭はたんまりとあるのだけれど、これではもうただの銅と鉄だ。
由々しき事態、緊迫する状況下。
悠夜はそこでどうすればと焦り、考えるのだが打開策を全く見出せず、どうしようどうしようとあたふたしていた。
そして1分程経って、思いの外問題は簡単な事に気がついた。
(そうだ、ここ近辺の家の人にあたろうっ)
何だ悩むことなかったと落ちが付けば、悠夜は走って近所の住人のインターホンを押した。話しかける怖さよりも人を見殺しにしてしまう事の方が優っていた。
それから暫くして、インターホンの音と合わせて駆け付けたのはピンクの髪色をしたアフロのおばあちゃん。
おっとりとした顔なのか目が尖った顔をしているのか、顔が見えないせいでまたもや分からない。声色的にはおっとりとした感じだがー……この際なんだっていいと心の中で首を横に振る。
「どうしましたか?」
その時、悠夜はつい生まれてしまった、その頭はどうなされたのですか? という失礼な質問を空高く投げ捨てて、とにかく現状を急ぐ意を伝える。
「あらっ、女の子が!?」
「は、はい…。その、こ、公園で子供が倒れてて。この暑さですし、ね、熱中症かもしれず、とにかく体を、体を冷やす、冷やせるものをお願いしますっ」
「そうなのね、わかったわ任せて頂戴。そうと決まれば早く居間に連れてきて。爺さんが寝てるけど気にしないでっ」
「は、はいっ」
悠夜は心の中でよしっとガッツポーズをし、ドアを半開きにしたまま駆け出す。
そうして、鉛の様な身体を酷使して、女の子を担ぎ、先程尋ねた家に入る。
しかし居間の場所がわからず、総当たりするのは忍びなかったので悠夜は「おっ、おばぁちゃーんっ」と大きな声を上げて呼ぶ事にした。
おばあちゃんはその声を聞いて「はいはいっ」と焦った声色で駆けつけた。片手には氷が多く入ったお茶を、もう片方には今から救急に掛けようとしているスマホが。
「どうしたのっ、女の子はっ」
そう落ち着かない、焦りに満ちた声色で尋ねてくるが、悠夜はその口ぶりに「え、ぁ、ぇ? な、何を言っているんですか?」と問い返した。
悠夜は、その女の子を現に担いで前に立っているのだから当然の反応だった。
しかし、おばあちゃんは更にハテナを強くして首を傾げた。
「ぇ…? ぃいやっ、僕の腕の中にいるでしょ!? 冗談なら後にして、横になれそうな場所に案内して下さいっ」
「…いや、でも、貴方……」
おばあちゃんは怪訝な顔色を強く、前面に押し出して言う。
「何処にも居ないじゃない…女の子なんて」
その瞬間、悠夜は音が聞こえなくなった。ぷつんと、全ての感覚が途切れていく不完全な脱力感が体を襲った。そして声が溢れた。
「ぃゃ……はぃ?」
驚きも隠せず、唖然とした声ぶりで戸惑いの声を上げつつ、おばあちゃんの言葉を咀嚼する事に努める。
しかし、未だ理解が追いつかない。
「いやほんとな、何の冗談ですか? ここにいるじゃないですか。流石にそれはわら、笑えないんですけど」
「変なことを言うわね。居ないものは居ないわけだし……。あ、霊感なら、私ないからね」
「俺だってねぇよっ!!」
思わず声を張り上げて怒鳴ってしまう悠夜。それでもおばあちゃんは怯むことなく、一言言った。
「んー……。熱中症は、あなたじゃないかしら…。まぁとにかく、救急車乗んなさい。今から電話するから」
「え、いや、でもほらっ」
悠夜は担いでいた女の子を見せる様に突き出す。そして、自分に確かな負荷がかかっている事を確信する。
質量がある、間違いなく。
重力に従って女の子の足も頭も髪も手もぶら下がっている。体温も感じる、人の肉感もある。
腕も疲れてきてるし、匂いは…動物的とかじゃなくて普通に人間の匂いがする。
特別何か臭うとかでは無い。
ただ香りとしてそれが存在しているだけ。
ここまで鋭利に五感を刺激されれば、流石に幻覚とも言い難い。いや、どうなのだろう。分からなくなってきた。
目の前で困っている様な声を出しつつ「はいっ」と差し出されたお茶のグラスを前にして、おばあちゃんの発した言葉が嘘には思えなかった。
「…はぁ……どうしたんだ、騒々しい」
「あ、爺さん。この方が、女の子がいるっていうのよ、熱中症の」
「それは大変じゃないか。それで、その子はどこに……」
「……それがどうも、この方が抱きかかえてるっていうのよ」
そんなまさかと、悠夜は狼狽えた表情で後ずさった。
「はぁ……? それは、なんだ。頓知か」
「いえ、それが本当らしくって……」
「んー? おい君、どういうことだい。何かの悪戯か?」
「いや、いっ、悪戯とか、じゃ…ないんです、けど……」
悠夜は、どんどんと怖くなってきていた。
この場で食い下がれど、自身の立場がどんどん悪化する未来しか見えず、ここで意地になっても意味がなさそうだった。
何より、この二人は容貌からだが初対面の人を担ぐ様な性格の人ではなさそうだった。
そして、なら、この子はいったい何なのかと。
空咀嚼し、干上がり始めた喉の締まり具合に悠夜はーー
「ーーぁ、ああえとすみません。おばぁちゃん達がいないっていうのなら居ない…ん、ですよね。ははは」
乾いた笑い声を絞り出して、迷惑をかけた謝罪の意を伝えると、悠夜はすぐさまこの家から飛び出した。
(それはねぇだろぉおおおお!!!)
汗が風に乗って飛び散り、肺は必死にまずい空気を循環させる。
悠夜はただ足を回転させ、その場から逃げる為に力を振り絞る。しかし、抱える少女の重量によって徐々に走るスピードは落ち、全身が瓦のような鈍重さと化した。
「はぁ……そんなことってぇ……はぁ、はぁ……」
(ねえだろ。これはないだろ。いや、流石にないだろ、霊感なんてないぞっ)
「なぁ……母さん。この、はぁ……。この子。この女の子、見えるよ……なぁ、はぁ……」
自宅について早々、悠夜は玄関を駆け上がり、リビングでファッション雑誌を読む花奈の元に駆けつけ問いかける。
そんな悠夜を見て、花奈は何事っ、と驚いた表情で言葉を発した。
「ぇ、んぇ、なに、女の子って。え、なに?」
「ここ、ぅ……。俺の腕の中でぇ……眠ってるっ」
「……どうしたのよ悠夜、今日は…その……変よ? 朝はちょっと嬉しかったけど……。ぁーまさか、なんかのどっきりとか?」
そんな問いに悠夜は首を強く横に振る。
「えぇ…と。じゃあ何。そんな子いないし、えと…どっきり?」
「だからっ違うって! あーもう……はぁ、もういい。風呂入ってくる」
(なんなんだ。何なんだこれ。誰にも見えない、幻覚?)
納得のいかない事実に悪態をつき、どうすればこの状況を理解できるか悩んだ末、何も考えない事が一番気持ち的にも疲れないで済むと言う案が出た。
しかし、こう言うものは中々纏わりつく。夜に見た心霊映像くらいなんだかんだ忘れられないもの。どのようにして記憶を葬り去るか思案すればするほど、抱える少女が重くなっていく。
そんな時、悠夜はある重大な事に気がついた。
(………もしかしたら俺、最近変だったし。心的障害による幻覚症状なのかも知れないな)
最近と言えど、明確に言える時期で言えば去年から。そもそも6年前、ニート生活を始める前頃から自分はおかしかった。
そう結論付けた。
そうすると何だか腑に落ちたような、腫れ物が取れたような納得感が悠夜を襲った。
(明日にでも病院に行こ)
一段一段噛み締めているのではと思われる程にゆっくりと階段を上る悠夜は、三階にある自室にたどり着いて独り。
「……けど、そっか」
そう言ちった。
(そういうことならこの子はある意味での俺の心のよりどころ。だから…あれだ、俺の分身みたいなもんか)
そう考えて、ゆっくりとベットの上に女の子を乗せ置き、その上に毛布を被せる。
冷房も少し温度高めに点けておけばお腹を壊す事はあるまいと、先ほどとは打って変わって快活なテンションで気配りをしていった。
「っと…」
ピッと機械的な作動音が鳴り、冷風が暑苦しい部屋内で周り回る。
悠夜はそんな快風の余韻を感じながらお風呂の用意を一式まとめ、脱衣所に赴いた。
そこそこ汗をかいた服を脱着。
その際、昼間見つけた白い羽の事を思い出してポケットからそれを取り出した。
「……」
やっぱり綺麗な輝きだ。と、純白さが目立つ羽を殺菌がてら風呂場に持ち込む。
悠夜はそうして少しぬるめのシャワーをかけ、浴槽には41度程度のお湯を張る。
「………」
それから身体をゆっくり洗うことに時間をかけていると、いつの間にか浴槽にお湯が溜まってきていたので、悠夜は透かさず入浴剤を投入し、ザブンッと腰を落ち着けた。
シュワシュワと炭酸が音を鳴らし、香料の匂いがわき立つ。柑橘系、檸檬の匂い。
林檎か梨か悩んだが、夏はサッパリ檸檬が一番だと言う思考に至り、悠夜はこの香りを仰いでいた。
「はぁ……」
純白い羽。
それを掲げながら天井を眺める。
(俺何で羽なんか拾ったんだろ)
特に意味のない思いを抱えながら、その美麗な造形に目を取られる悠夜。
お風呂場の淡い橙色の光に包まれても誇示し続け、消え去ることのない羽のアイデンティティ。
鳥の羽は自由の象徴とも言われるが実際、羽などあった所で社会の柵からは逃れられない。
生きると言う概念に抱きつく限りは、動物も植物も文字通り一生。
掲げる腕、それは重く、全身も怠く。
悠夜は目がしばしばすると、欠伸をしながら腕を浴槽の縁にダラーッと乗せ、体の力を抜いていく。
(出ないと……)
風呂場で溺れて死ぬなんて洒落にならない。
けれど、そうは思えど体は正直で。
温かな水布団に包まれた悠夜は、深い深いため息を吐くと、再び微睡の中へと沈んでいってしまった。