【2】少女と、ある夏の日の
彼はそれとなく決心して抱え込んだ、今すぐにでも割れてしまいそうな意思をそのまま、外出をする為久方ぶりに外行の服装に着替える。
周りには便利がありふれているせいもあり、ろくに外に出る事がなかった悠夜が用意した服は、生地の伸びこそなかれ、少し埃を被った洋服。
外は真夏という事もあり半袖、下は数年前購入していた超冷感のジーンズパンツ。日焼けしない為に羽織りものを着れば外出装備は大方完成である。
悠夜はそこにプラスアルファ帽子とグラサンでも掛けようと思い身につけてみたが、今は絶望的に似合ってない気がして直ぐに取ってしまった。
埃の被った鏡を前に前後左右チェック。
服は無難な構成で、不要なサングラスなんかも付けていない。ただここ数ヶ月は髪を切っていないせいで長い髪。
陰湿さに拍車をかけている。
「はぁ……」
そうしてそれらのチェックを終え、悠夜は玄関の前で靴を履き始めた。
ベルトを締め直し、踵を鳴らす。
ポンポンと身体検査をしながら自身の持ち物をチェックしていざいかんっ! と一歩踏み出したところで、悠夜はあるものを忘れていたことに気がついた。
(鍵忘れた)
戸締りを忘れては自宅警備員かっこ自称かっことじの名折れだ。
悠夜はだるいなぁと思いながらも鍵を取りに行き、もう一度同じ行動を繰り返してゆっくりと外へと踏み出した。
「っ"……」
そうしてそこに現れた燦々とした日の光。異常なまでに太陽光は地上を焦がし、目が眩む程の熱気を演出する。
「まじか……」
現在昼の12時、気温は42.5度程度。
猛暑が極まるこの季節、どこもかしこもバカンスにはもってこいのリゾート地に変容するのだが、人気はない。
(出れないな、これ)
あまりにもの暑さに拒絶反応を前面に押し出して、悠夜は身を引いていく。ただ只管この熱風と空気の温度に今にでも昏倒してしまいそうだった。
けれどそれでも。
(……明日にしても夏日は変わらんしな…頑張らな)
そう、意地を張って踏み、広げた歩幅。
じゃりっと細やかな土砂を噛み締めるように踏みつける玄関前。
カチャッと鍵を閉めてから一歩二歩とその先を歩き、外へと誘導する石畳の上を歩いていく。
(やっぱり……今なら引き返せるけど……)
瞬時に汗が湧き、頬からヒタリと落ちる。
(別に……明日でも…いいよな)
そんな甘い考えに二転三転する思考。
行動を起こすのはいつだって出来る、だから今日は準備で明日が本番だなんて、考える。けれど、それは違うのではないかと悠夜は思った。
先送りにしてきた末路が今だ。
それを繰り返しちゃ馬鹿も良い所。
(我慢するだけ…)
そうして悠夜はぐっと歯を食いしばって勇気を絞り出し、炎天下の中を歩き始めた。
「……ぁっぃ」
しかし、そうこうしていればダラダラと噴水のような汗が吹き出してくる。景色が揺らぎそうな勢いの温度感に顔が顰めっ面になっていく。
「……はぁ…」
お腹周りの重りと、無い筋肉だけが纏わりつく身体。
体力も引きこもっていれば衰えてしまい無いに等しい。外に出たとは言え特段どこに行くかも決めていないし。
そんな放浪の旅は地獄でしか無かった。
ヒタヒタと垂れる汗、鍵を取りに行くついでに持ってきたハンドタオルでサラッと拭き取るがいつのまにかまた地面を汚し始める。
塩気の薄い水が目の上に垂れてくれば、何度も瞬きをして景色の彩りに暗転の色を繰り返し灯す。
「はぁ……はぁ」
(あっつ…)
足取りが重い。体力がガンガン削られている気がする、汗も歩いているだけなのに勢いよくかいており背中と服はじゃれあうようにくっつき始めている。
うっとうしい、この暑さも服の感覚も。
けど、それでも進み、先ずは公園にでも向かおうと悠夜は考えた。目的地と休憩地が欲しかったのだ。
「………」
この辺りでどこに行くにしても中間地点として活用されるヨモギ公園。
大きく高い時計台に遊具が十数個、鉄棒にブランコにシーソー。大小様々な大きさの穴が空いた巨大コンクリートドームにその他色々、バリエーション豊富で広い土地のため追いかけっこをしても行き詰まることがない。
樹木も多く、景観保全の目的としてもこの大きな公園は役に立っている。
そうした事から、ヨモギ公園はこの街の顔でもある訳だ。が、どうもこの暑さのせいかひとっこ一人いない。
(虫は多そうだけれど……)
蝉の弾幕は巨大に広がっている。蚊も何匹か飛んでいるのか飛んでいないのか、しかし蜂の姿は二匹ほどしっかり捉えられた。
しかしミツバチ、そこまで有害ではない。
そう言うこともあり公園の中へ入っていき、悠夜は影がしっかりと出来ているコンクリートドームの中に腰を沈めた。
「ふぅ……」
そう落ち着きを取り戻すようにして息を吐きながらその場に倒れる。上手く日が当たらない場所で、コンクリートはそこそこ冷たいし、日陰の空気はほんとそれとなくひんやりとしている。
「はぁ……」
休憩し出して数十分。
悠夜は喧しい蝉の合唱に囲まれながら天井を見上げて溜息を吐いた。
暑い。
ただただ帰りたい。
その思いを一思いに吐き出したかった。
けれどだからと言って家へと向かう素振りは見せず、それから直ぐに悠夜はタオルを頭に乗っけたまま活動を再開し、太々しく道路の真ん中を歩いていた。
疎開道路から離れている普通の道。それも真昼間だから車の行き来はそうない。道路の真ん中を横断していても誰も咎めやしない、と言うか見掛けてる人すらいない。
そんな一人ぼっちの外景色だが、悠夜にとってはこのままの方が良かった。
人を見なくて済むと言う点において。
だが、外を歩くという約束の中に人と顔を合わせるという条件も含意されていたのでは、と考えると話は変わる。
悠夜は「はぁ……」と深いため息を吐くと、こっから15分先の徒田真駅に向かった。
駅に向かう道中なら、流石に人がいるだろうと踏んでのことだ。田舎方面と言えども建物が多いし猛暑とはいえ平日、合わないはずがない。
(ぁ…)
そしてその思惑は当てはまり、網で区切られた線路沿いをとぼとぼ歩いていると、正面向かいに暑さにやられてか顔を仰ぐスーツ姿のおじさんがいた。
取引先に向かっているのだろうか、そんな疑問とともにそのご尊顔に顔向けをする。しかし、伺えるはずの表情は保育園児が黒いマーカーでぐちゃぐちゃっと線を引いたようなもので埋め尽くされており、見えずじまい。
「………」
熱射のせい、ではない。
そこからまた歩いているとおばあちゃんが駅のエスカレーターから降りてきて、眩しそうに目を細めているのだろうか、空を仰いでいた。
この人にも同様、けれど部分的に顔が見えなくなっていた。
「……」
次いで子連れの女性…悠夜の目には全員の顔がボヤけて見えた。
「………」
おかしいな、なんて思わない。
悠夜自身この現象には数年前から対面している。不思議な感覚で、違和感しかないこの謎のぐちゃぐちゃに。
(治ってないよな…やっぱ)
テレビの人を見てても同じだったんだ、治ってるわけがないのは悠夜自身薄々気が付いていた。
「……」
そうこうしてると東口の登り駅階段の前に辿り着いた。
(…どうしよ)
右手には防護網がある。
通行止めだ。
それに駅に寄るつもりはない。
だから選択肢は二つ。
来た道を戻るか、左手の続く道を歩いて行くか。
悠夜はこのL字路を前に、さてどうするかと歩みを止めて一考する。
「………」
そうして考えた末、悠夜は疎開道路へと向かう左の道に向かって歩みを進めた。
とぼとぼと。
歩む道の先は緩やかな坂道で、傾斜の外を埋める様に家々が軒を連ねている。
アスファルト、ではなくコンクリートの坂で、道の両端には車が入らないようにと黄色いポールが埋められていた。
久しぶりの道。ポールが錆びていないという事は、いつの間にか新しいものに変えられたのか上塗りされたのか。
いずれにしても知らない間に変わっていると言う事実。
(そういや佳の奴、結婚したって言ってたよな)
通りかかった家の前。
【木下】と書かれた表札。
その苗字を見て友人とのかかわりを思い出すのだが、悠夜は自身だけ取り残されている、そんな疎外感を強く感じて目線を落とした。
(皆んなもう、大人だもんな)
大人とは何なのだろうか、働く事なのだろうか、結婚する事なのだろうか。そう言えば、そうだ。
大人って、何なんだろう。
(俺、もう32なんだけど…)
大人になれた気がしない。孵化しようとして止まったまま、そんな気しかしない。頑張ったんだけど、ひび割れてそのままな感じ。
"中途半端だ"
目尻が少しピクついた。
「……」
結婚していれば子もいるだろうし、そうなれば働くのも必然的だ。
ならこの2つが大人の条件か、と言えば結婚は絶対しないと豪語していた友人の修也は、でも金持ちになるという夢があって、勉強も頑張り就職でも大手に受かっていた。
あーそういえば修也とは2、3年前久しぶりにメールでやりとりをしたけどそれっきりだったなぁ、と悠夜は思い返す。
なんにしても、大人としての充実感は聞いてる限りある2人だった。
そんなことを何となく思い出して空を見上げる悠夜。その目に映る流れゆく雲と青い空模様。
火出る昼下がり。
大人なはずの一人の男の夏休み。
(腹減ったな…)
景観に目をやりながら次に考えたのは外食しようということだった。そんな時、坂を降りた先の十字路、そこにある電柱の下に真っ白な羽を見つけた。
(なんだこれ。白バトの羽……? 綺麗だな…)
触ろうか悩んだ末に手を洗えば良いかと結論づけ、悠夜はその羽を摘み上げる。
物珍しいと言うか久しぶりというか、空に翳しその白感に見惚れながら、しかし、白バトの羽にしては少し重く、硬く、なんとなく変なものを感じとっていた。
なんとも言葉では言い表せられない感覚。
それに首を傾げ理由を考えてみるが、詳しい知識もないから分からず。
と言うか、こんな所で考え事をする事自体頭がおかしい話だ、と、その羽をそっとポケットに入れて、悠夜は考える事をやめた。
しかし、思考放棄すら許してくれない憎々しい太陽という存在。
とにかく暑い。
暑いのは寒いことよりも嫌いな悠夜だ。
(夏に外に出ろとか、母さんほんま鬼畜…)
だがまぁ、それでも試練としてはもってこいだよな、なんて一人でごちり、数分。
車が激しく往来する大きな道路に頭を出した。慣れなくなった音のせいか、この走行音はかなり頭に響くようで、悠夜は少し顔を顰めながら軽く咳払いをし。
(あーでも、だいぶ変わっている)
そう思った。
6年越しの外だ。感慨深い、そう思えるはずだった。昔馴染みのこの景観は程度見慣れているはずだった。
なのに今の悠夜には、何が何だかと、全くもって覚えのない姿にそれらは変わっていて。
高々しい工事現場。
見たことのないビル。
お洒落な服屋に喫茶店。
綺麗な黒のアスファルト、自動走行アシスト材が組み込まれているものか。
他にも数年前に導入されたと言う24時間空いている免許更新用のAR教習場なんかもあった。確か昔のここはただの広い空き地だったはず。その隣の居酒屋が目印だったからそれで軽く覚えていた記憶がある。
そんな数多くの新参者達を前に開発途上、なんて言葉が頭に浮かんだ。
ここは都会から離れすぎている、と言うわけでもないが近いわけでもないと言う中途半端な場所。
田舎にも、都会にもなれない微妙な街。
元々昔ながらの建物だけが蔓延るのがこの世界の秩序だった。
(たった6年、のはずなんだけどな……)
数年あれば十分に変わってしまう、それは知っていたがここまでとは思ってなかった。ただただその事を痛感するには十ニ分だった。
だから、だろうか。
また、胸が痛んだ。
(……そうだ、コンビニ行こ)
コンビニなら、早々姿を変える訳がない。
悠夜は別に昔のものがいいと言う人間ではないのだけれど、今は少し昔と同じような物を見ていたくて、そうしてまずヨモギ公園へ向かうために来た道をタオルに顔をうずくめながら歩いた。
「……」
戻ってきた駅前。
駅から降りてくる人、L字路から曲がってくる人。その人達の顔もやはり上手く捉えられない。
(変だな、俺って)
スーツ姿の人、気のせいなんだろうけどチラチラとした視線が気になった。
「はぁ…」
何でこうなったんだろうと、視線をアスファルトに向けて歩いていく。人が、その顔が、その表情が見えない、見られない。不快だ。
悠夜はそんなことを考えながら歩き数分、中継地点のヨモギ公園に辿り着いたが立ち寄らず、コンビニへの道をそのまま選んで歩いた。
歩いて歩いて。
知らない人の横を通り、懐かしの建物に目をやり、仲の良かったさらに別の友人の表札に一瞬目をやってまた歩く。
(ほんと皆んな働いてんだよな…途中でずっこけたまま感がすげぇわ…)
その考えが更に悠夜の意思を強く押し出した。
それから暫くして、悠夜はボーッとした頭を使い、併設された駐車場を横断して自動ドアを掻い潜る。
すると、スーッと冷たい突風が体全身に直撃した。寒い、とは一瞬感じたものの、やはり外気温から解放された心地よさの方が強く。
「………」
コンビニに到着。
悠夜は冷気が体を掠め、熱を冷ます快感に眼を細めた。
(暑かった…)
そう思いながら店内へと歩幅を飛ばす。
そんな悠夜の姿を機械人体の店員は注目し、射貫きながら言った。
「いらっしゃいませ」
店員さんはそれはもうニッコニコだ、電子版の顔は怖いほどに微笑んでいる。
汗が少しずつ引いていく中で悠夜はその目線を振り切って店内を探索し、ジャンフと2Lの清涼飲料水、それと菓子パンを2つレジ台に置く。
「すみません、お願いします」
「はいお預かりいたします」
目の先でタバコが陳列されていた。
スコーピオンの銘柄が映った、が悠夜は心の中で首を振った。
その代わりに、悠夜は客側についているレジの盤面に映っている支払いの選択項目からバーコード決済を選択する。次いでレジ袋、イートイン利用の追加項目も選択。
(でんじーあるよな…)
数ヶ月前に抽選キャンペーンに応募したら偶々5,000円を手に入れたが、生憎使う機会が無く利用してこなかったでんじーの残高。
その分をここで使おうとスマホを探してポケットを弄る、の…だが。
「えっ……」
悠夜は二つしかないポケットを何度も漁るが、しかしそこから出てくるのはさっき見つけた白い羽と、家の鍵、そして軍資金の1,000円札のみ。
スマホは見つからない。
これでは電子決済が出来ない。
「あ……」
悠夜は慌ててバーコード決済の選択を取りやめ、現金に変える。そうして機械人間に商品を袋詰めしてもらっている間にお金を挿入口に入れ、なんとか会計を済ませた。
その後は何事もなく商品を受け取って、悠夜はイートイン席に座った。そして菓子パンの袋を開けてジャンフのページをめくる。
(久々に店で買ったなぁ…)
いつもなら通販で手に入れる本。
ドローン配達ならより手早く届くので悠夜はよく利用していた。
「……」
悠夜はゆっくりとページを進める。
そうして真ん中のページに来たときに目に入ってきたのは【ワークマン】という漫画だった。
社会に属する主人公、葉山暁人が父の代を引き継いで密かにスーパーマンとして世界の平和に奔走する物語。
その中でも社会のあり方、正義や悪といった事に苦悩すると言う話を主軸にしており、割とジャンフ人気ランキング不動の8位を誇っている漫画だ。
中々上手くいかない社内関係や、何かと釣り合っていないブラック企業。陰湿な社内イジメなどの結構重たい話しも偶に入っている。
ある意味の社会勉強、そして変わらない日本の価値観を鑑みる事ができた。謂わば風刺的な漫画と言われることが多いのだが、取り扱う内容に対して何かと軽いので受けるのだ。
悠夜はそれからジャンフを読み込み、日が落ちるまで時間を潰そうとした。
しかし一時間程すると人間の店員さんが悠夜に声をかけてきたので、悠夜はアワアワしながら謝罪をし、コンビニを慌ただしく飛び出していった。
(あっつ…)
暑い暑い外の空気。
さっき買った水分を補給しながら中間地点のヨモギ公園へと辿り着くと、悠夜はコンクリートドームの中で身を横たわらせた。
(外の世界ね…)
周りの騒音は虫達の嘶きだけ。この程度の雑音は気にならない。
(確かに…母さんの言う通りやわ……)
そうしてボーッと目の前の天井を見つめていると瞼が重たくなってきた。悠夜はどうしようかと少しの悩みを見せたのだが、襲い来る睡魔には抗えず、暫くもせず内に悠夜の視界は瞬く間に暗転した。