【▽】懐かしい雨音、軋む音
「とぉさんっ!! 雨!!」
「うぉ、まじか。つかやべぇな、これ落ちるぞ」
真っ黒な雲が、地上を照らしていたはずの光を食い尽くし、腹の居所が悪いのかゴロゴロと大きな音を鳴らす。
晴れを知らない空模様は、ポツポツと、そしてポタ、ザーッと豪雨の空を落とし降らせた。
雅俊達はそんなゲリラに見舞われながらも、稲の種を積んでいる大型台車を近場の倉庫に詰め込むと、安全であろう家屋へ向かって走った。
「あー、倉庫もっとおっきくしときゃ良かったー」
「えーなんでー? ちょうどいいじゃん」
「丁度いいからだよっ」
雅俊の脇に抱えられる悠夜は、そう疑問の声を挙げたが直様雅俊がそう返答した。
「俺達が入れるスペースないだろっ? でほら、今みたいに態々家屋まで走んなきゃいけないじゃんっ。中間地点がないからさっこんな感じで……うげ…雷落ちてくるじゃん」
より一層空が唸り始め、雅俊は走る速度を上げていく。避雷針は四つの山が囲む、その五つ目の山頂に立ててはいるものの、避雷針があるから絶対安全と言うわけではない。
悠夜を抱える雅俊は余計にそれを怖がって、足を更に回転させ、漸く家屋に到着する。
「ひぃーこわー…」
駆け込んだ家の中は真っ暗で、雅俊は小棚の中に入れているライターを取り出すと、火渡し棒に火を付けて暖炉や各ランプに火を灯していく。
「とぉーさん雷怖いんだ〜弱虫ー」
「あっちょ風邪引くからまだ座るな、後椅子が濡れるから」
そんな中でずぶ濡れている悠夜は、椅子に座りながら楽しそうに言葉を吐いた。
ちょちょっと可愛らしい攻撃。
雅俊は悠夜の行動を軽く咎めたものの、火渡し棒を直すと直様おちゃらけるように「てか、誰が弱虫だってぇー」とタンスから取り出したタオル片手に詰め寄り、小さな頭にタオルを被せワシャワシャと髪の毛を掻き乱した。
「おらおら、だぁーれが弱虫だー」
「ぁあ! はは! ごめんなさいごめんない、ひひ」
「なーにわろとんねん。雷は怖いんだぞー、全く…。鬼になったママに殺されかけたことがあるからトラウマになってるんだ、こんくらい許せー」
悠夜は信憑性の無い話に、はて? と首を傾げると、顔をタオルからずらし、雅俊の顔を見つめて声を発した。
「…えーうっそだぁ。とぉーさんがママを怒らせた事なんて一回もないじゃん」
円らな瞳、そこに映る怪訝な面影を見て、雅俊は懐かしむように口を動かした。
「いや、あるんだよ。君が生まれる前に何度も。色々喧嘩とか、まぁしたんだ。…いやぁー……怖かったなぁ。ナイフ片手に迅雷の如く速さで差し迫る恐怖といったら……へ、へへ正に雷だったぜ。ガラスの割れる音なんかもろにそれに似てたっ、へへ」
思い返す顔は酷く蒼白で、頗る調子の悪そうな父の顔。風邪薬を探そうと一瞬思ったものの、そうではないのだろうと5歳の子供である悠夜であっても感じ取っていた。
「ママ怖くないんだけどなぁー」
悠夜は目をパチパチと瞬かせる。
長いまつ毛が火の光を反射した。
「…まぁ、そうだな。君が生まれてきてからだよ怖くなくなったの。…あ、服着替えて。ほんとに風邪ひく」
「はーい」
悠夜は雅俊の言われるまま、ずぶ濡れの衣服を捨て去り、マッパになって暖炉の前で立ち尽くす。
「長ーいお付き合いおちんちんぎんこー」
「お前、そんな短いのじゃ信用ないぞ。ほら、パンツ」
「よっ……。ほいっ…安い金利、パンツ証券」
「…締まらないやつだなぁ」
「ふへへパンツだけに」
「そうパンツだけに」
悠夜がにへらと笑い、雅俊を見る。
雅俊はそんな息子の作る柔らかい笑い仕草が微笑ましいのか、その顔に朗らかな表情が自然と浮かんでいた。
そんな時。
ーーバド"グァーン"!!
空気が破裂するような巨声が、辺り一体に響き渡った。
「…ぱ、パパ……」
天井照明が振動の余韻に動かされ小さく揺れる。
雷が避雷針を避けて近くに落ちたようだ。
突然の音に怯えてか、悠夜は心配そうに雅俊へ声をかけていた。
「お、なんだ。怖いのか」
悠夜に服を一式着せながら戯けた口調で雅俊は言う。
「…こ、怖くはないけど、なんか、いや」
「ほーん、ほんまかぁー?」
「ほんまだよっ!!」
「そうかぁ、さんまかぁ」
「ほんとなのっ!!」
ポカッと雅俊の脇腹を叩く悠夜。
狙うも届かない雅俊の肩。
その身長差に、この歳ながら雅俊のような高い身長が欲しくなった。
そんな折り、雅俊は急に神妙な面構えで悠夜に2階へ隠れるよう指示をした。
「なんで…?」
「熊だよ、熊が来た。早く、ほら登って!」
この家は二階建てで、2階に上がるには設置型の折り畳み階段を登る必要がある。
また、その手順として引っ掛け棒で天井蓋を開け、階段を引き落とす。という行動が必要になる。
そうした手順のため、2階に上がって階段を引き上げてしまえば、流石の器用な動物であれど登ってくるという心配がないというものだ。
故に雅俊は疾く行動をさせた。
「パパは…」
2階に上がり、父を待つも登って来ず、悠夜はそう心配そうに声をかける。すると、雅俊は歯が見えるほどの自信満々な笑みと、力強い拳を突き出して言った。
「…ちょっくら熊退治してくる。猟銃あるし、まぁパパに任せろ」
「でも…」
「だーいじょーぶ、ほらグーパンチだ」
そう言って手首を振る雅俊に合わせるように悠夜も拳を突き出して返事をする。けれど、心配なのは変わらないもので、不安げな顔色はとれる事がない。
そんな悠夜の表情に、雅俊はもう一度優しく微笑みながら。
「すぐ帰ってくる。だから、ちょっとお留守番頼んだぞー」
雅俊はそう言って蓋を閉じ、2階へ続く一切の隙間を無くすと外へ出た。
ドアを閉じると、再び豪雨に打たれ始める雅俊。
「……たく。怖…な………………なら統一させ…って」
2階に在る磨りガラス越し。
ぼわぼわとした声。
雨音によって上手く言葉を聞き取れない。
父のそんな姿を朧げに見つめていると、雅俊は森の中をかき分けていき見えなくなった。
それからすぐ。
バンパンッと悠夜の耳には重い発泡音の様な音が聞こえた。少しすればそれに次いで雅俊の「ただいまぁー」という元気な声も聞こえて来る。
それから階段が開通し、悠夜は息絶え絶えに雅俊の元へと駆けていった。
「とぉさん!」
「おう"っとと……。ほらいったとーりだろ。全身無傷ぅー」
おちゃらけた雅俊の姿。
優しい笑顔。
悠夜はそれを見て。
ひどく安心して。
「へぁっくしゅんっ!」
くしゃみをした。
それがキッカケか、視界が突然ぐにゃんと歪み捩れる。そしてササッと水気多めの筆で擦られると、オレンジ色の景色に塗り替えられていた。
「…ぁ……れ」
その視界。
悠夜が見上げる空の色は緋色に焦がされていた。
記憶にある先程までの青黒さはなく、雲も橙色に染められながら漂っている。
時間的概念の損失、または超越。気がつかぬ間にタイムスリップ。
朧げた前後の記憶の不自由さと、多少なりと響く体の痛さに顔を顰める。そして時間超越などの、更に超常的な力を新たに手に入れたのでは、と悠夜は考えてみる。
なんて冗談は考えるまでもなく、悠夜は馬鹿らしくなって息をする。
ぼーっと、静かに、ただ呼吸をする。
そうして落ち着いていれば、何があったか、断片的にだが少しずつ思い出し始めた。
(ぁー……)
山に入るようになって、悠夜達が過ごす日々は早くも半年が経った。肌寒くも陽気の暖かい4月、今年は桜が3月に散ってしまい緑葉が4月を代わりに彩っていた。
そんな春の青さが周囲を覆う中で、当初からの魔法鍛錬や基礎身体能力鍛錬などの鍛錬内容は現在もしっかり遂行し、悠夜は日々精進している。
この山の地理なども半年も散策したり使ったりしていれば意外に覚えるもので、悠夜はこの山で道に迷う事が少なくなった。
棚田の完全な完成についてはまだまだ先の見通しで、立て直しを計画してから半年。
漸く一昨日、整えた地盤を固めると言う段階にまでやってこれた。
中々骨の折れる仕事だが、二人でよく頑張ってきたものだ、と悠夜は誇らしげに考えるのだが、何故自分がさっきまで懐かしい映像を見ていたのか、そんな事を思い返す中で理解した。
(ぁー、頭が痛い…)
キツイ頭痛。締め付けられるような痛みに悠夜は顔を顰める。眼球圧迫はないが、目の周りが痛い。左肩も痛い。
というか頬とか鼻の辺りとかも妙にズキズキする。と、悠夜は指で鼻先を摩った。
「ぁ、あんまり触らないでください、鼻切れてるので」
「ぁ…ぁぁ」
ぼやける視界の先に映るレモンの顔を前に、適当に相槌を打つ。
(……はぁ)
悠夜は今日、遂に地盤を固めていくと言う作業に移った。
今までとはまた違う作業になると言うことから心機一転、と気合を入れて始めたものの、気合を入れすぎた事が災いしてか、疲労感を覚えてもなお、魔法を行使し続けた。
それにより、運悪くも畔の上に立ち、作業をしていた所で魔力が完全に切れてしまったのだろう。悠夜はそこからの記憶がない為、適当に、畔から下の田に転げ落ちてしまったのだろうと記憶を補完した。
ちょっくら唇を湿らせて、舌を上顎に押し当てながら、悠夜はそのしわしわとした感覚を嗜んだ。
空の色に瞬きを投げ掛けてみると、雲が漂うそんな中からオレンジの夕日が悠夜達を照らしていた。
(魔力、もっと必要か…)
習得が難航したものの先月辺りで何とか会得したスキルとは反対に、第二魔法は根本的に必要な魔力量が発動させるための最低値を下回っているために扱えておらず、まだ既知の技術以外の何者でもなかった。
そうした事柄も相まって、悠夜は自身の足りないものを強く感じた。魔力がもっと欲しい、強くなりたいと。ただ、それと共に悠夜はふと思った。
俺は何で、魔法を扱いたいのか…と。
だがまぁ、魔法を教えるなら代わりに泊めてやるとレモンに約束したのは悠夜で、魔法を扱いたいと願ったのも悠夜だ。レモンはできる事を提示したに過ぎなかった。
でも、それでも悠夜がそう思ったのは、何故自分はここまでして魔法習得に熱心になっているのだろうと言う本質的な所。
実質的な目的がない、事実的な部分。
自分はただレモンに引っ張られて来ているだけ。
レモンは約束事で、これを蔑ろにした時点で追い出される危険性があるため必死に魔法教育に力を入れている。
どっちにとってもただの負荷でしかないんじゃないのか、なら、もうやる意味はないのではないか。
悠夜はそう思った。
それから数分して、意識がしっかりと覚醒する。
「それにしても……魔力のみならず膝枕までおまけしてくれるとはな」
悠夜は目が合ったレモンに向かってそう声をかけると、レモンはそっぽを向いて「クレープ3個で手を打ちます」と言った。
「え、なに、ここまでの流れ予定調和だったの? マッチポンプで金銭トラブルはちょっと……」
道中に設置してあるベンチで膝枕をされている悠夜は、状況整理が終わり、そんな軽口を返す。
「はぁ……悠夜さん」
少しソフトで形の悪い枕。決して安くはない程度の反発と肉感、悠夜は父雅俊のものとは違う感覚を感じとった。
「悠夜さんは硬い地面が好きなんですか」
「いーや、全然。クッション性が高くないと無理」
「だからですよ…。サービスサービス」
「クレープの個数が増えてこれがサービス料なら実質込み込み価格じゃね?」
「いえ、魔力フル充電代だけです」
「目が覚めたら充電料が値上がりしてるぅー、じゃあここ異世界か」
「何言ってんですか、馬鹿なんですか」
するとレモンは徐にハンドタオルを取り出すと、タオルを冷たい水魔法で軽く湿らせ、悠夜の目と額辺りにペタッと叩きつけるように乗せ掛けた。
「うわぁー、つめたー」
「…何ですかその四流な演技は。呼吸をしてる方がまだ演技っぽいですよ」
「ほー……なら実質俺は俳優か」
「紛う事なき一般人以下の間違いでは?」
夕暮れ時の淡い光。
タオルに覆われて光があまり入ってこない視界。
夜が近づき寒さが肌を少しずつ包む。
疲労感はそんなに無い、眠さは多少あるが。悠夜はただボーッとその感覚に、見えない空を思いながら見る。
「あの、あんまりジロジロ見ないで下さいよ気色悪い」
「お前にはこのタオルが透けて見えるのか、透けて見てるかっ」
それから静まり返るそれとない、優しい空間。
白く漂うタオルの景色に目を向けて、瞬きをして、考える。
(ここ半年で白い動物は何度も殺してきたけど…)
半年前の一件の後、散策をしていたら普通に白い動物と出会った。山に入った時に出会さなかったのは運が良かったのか、悪かったのか。
初めて対峙した白い敵対動物は熊だった。
ただ。
ただ、白いだけかと思っていたらそれを前にした時、全然違う様相に悠夜は驚いた。
初めて対峙した時の熊は肘から下の腕と膝から下の脚が肥大化し、爪が長く伸びていた。右肩より下の方には小さな手の様なモノも生えており、奇妙な事この上ない。
加えて目は紫紺に輝いている。
そして息が荒く、目がギラギラしている。
異常に変わった異形の熊。普通の人間なら怯み上がりそのまま死ぬのだろうが、悠夜達は違う。
明確な力がそこに備わっていた。
なんならそいつを的にしようという主犯格がいるほどだ。
ある意味安全に、魔法で遠距離的な攻撃方式を取って立ち回る。しかし初めて相手と戦った時はそんな思い通りに行くわけもなく、大きな体躯、肥大化した腕と脚、恐怖を駆り立てる紫紺の瞳。
それに当てられてかまともに狙う事が出来ず、更には的中すると思われた魔法は容易く避けられてしまい、木々を盾にしようとすれば避けるどころか突っ込んでくる始末。
危なっかしくギリギリの所で逃げ惑って、結局、初戦闘は悠夜が崖に追い詰められた所をレモンが仲介し、熊の頭を風船のように割った事で終わった。
昔はゲームや小説、漫画などで動物や敵となる生き物を、それこそ魔法の力なんかを使ったらよゆー。
と思っていた悠夜だったが、今ではそれがトラックを片手で受け止める位無理な話である事を理解していた。
ただ、最近ではそうした逃げに徹するよりも攻守交えて対応する、戦闘する、と言う行為をしっかり行えるようになってきている。
相手の動きや隙を読んで、魔法を打ったり、接近すると見せかけてその隣を滑って背後から魔法を打つと言った攻めたやり方もするようになった。
そうした動きの際によく使うのが魔血循環を利用した身体能力の強化。
これは魔血を高速循環させる事で発生する気化状態の魔力が、体外ではなく体内に留まる性質と、その高い浸透性とを利用する技。
気化すると、魔力は魔血管から抜けていき、筋細胞や、そもそもの身体の細胞に一時結合する。
その際にそうした細胞の性質が一時上昇し、筋肉なら更に硬く、しかし柔軟に。
皮膚もまた硬く、それでいて柔軟に。
単純な瞬発力のほかに防御力も上がる為多用する。
ただ、これを長時間又は浸透した魔力が抜けていない状態での再使用などをし続けると細胞に異常が来たし、身体の異形化に始まり、最後には自我を失って魔なる者、魔物となってしまう。
なので、そうならないようにクールタイムを設けるのと、魔抜きと言う行為を行う。やり方は簡単で、魔神経を筋肉の奥深く、骨の辺りまで刺すだけ。
それにより溜まった魔力が体外へ少しずつ放出されるようになる。ただ、めちゃくちゃ痛い。
悠夜は、初めのうちはそのあまりにもの痛みに拒絶感さえ覚え、これをしようとしなかった程だ。
そうした経験の記憶を辿り、悠夜はそしてまた思った。
(……何で戦ってんだろ、俺)
何のため、なのか。
魔法は実践で伸びるとも言われたが様々な戦闘知識は本当に必要なものなのか。
俺は一体なぜ魔物と戦っている…いや、闘わせられてるんだろうか。
付随するメリットに対して危険性がやけに高いのも、山に行けることにレモンがとても喜んでいた事も、ただ教え込まれた事を俺が実践的に取り組んでいる事も、教えなくちゃいけないにしてもやけに必死なレモンの事も。
何処とない違和感がある。
そうして考えると、悠夜の中での疑念が少しずつ温度を上げ始めていた。だからもう少し、もうちょっとだけ深く考えようと思い耽けた時。
「…さーて、悠夜さんも目が覚めた訳ですし、帰りましょ。これ以上暗くなったら山降りれなくなっちゃいます」
レモンはそう言って、悠夜からタオルを剥ぎ取った。