【1】少女と、ある夏の日の
[ただ今午前07:46をお知らせします。次のニュースです。日本時間未明、WNSDO(世界中立宇宙開発機構)が欠けた月についての調査結果を発表しました。調査によりますと、凡そ4年程前に起きた月隕石災害により、更に月が約250km欠けたと発表。月円形仮定法より、直径最大値を約3,500kmとしており、現在はその凡そ半分1,900kmの大きさになっているとの事です。また潮の満ち引きに影響がーーー]
感情の起伏がなく平坦な声持ちというのは、キャスター向きというものなのだろうか。
彼がそう考えるようになったのは実に最近の出来事、ではない。
だいぶん前から習慣化させている朝早く起きてテレビに引っ付き、人の顔を見るということに感覚を慣らす訓練。
昔は人の顔がよく見えていたんだけどなぁ、と胸中でごちるもやはり誰かがそれに相槌を打ってくれるわけでもない。
ただ呆然と、必然と電波に乗って送られてくる映像に視線を向け、彼は薄い画面越しに忌避感を覚えながらじっとテレビを見る。
(………)
放映用のカメラに向けているキャスターの顔、隠れた表情。
それに何とか彩りをつけてくれるのはその人の声だけで、彼がこのニュースキャスターに抱き、感じ、打ち出した人となりは、しかし、落ち着いた声色で、多少淡白な人。
という、まぁありていにいえば何も分かっていない理解度で留まるものだった。
そんな一人のニュースキャスターと日々相対するのは、座椅子に腰掛け、あぐらを組み、そして自身の間隣で軽く扇風機を回す一人の男。
彼はCMに入ると同時にリモコンのボタンを押すが、押し間違えて今と同じチャンネルを表示するボタンを沈めてしまい、画面上方部に6chのタイトルが表示される。
[【6ch】-05:30〜08:00- ハロー日の出 -07:52-]
「………」
今日はもういいかな、そう晩年私服姿の彼は考え、テレビの電源を切って立ち上がっていると。
「……悠夜、仕事見つかった?」
シンプルな化粧品ポーチのジッパーをジーッと引きながら彼ーー嶋崎悠夜の母である嶋崎花奈は悠夜に話しかけた。
無駄に整った、いい意味で日本人っぽくない綺麗な顔立ち。鼻が高く、髪の毛は天使の輪が出来るくらい艶やかで綺麗な黒のボブカット。
花奈は全体的に着飾ると言う事を殆どせず、しかし、ナチュラルメイクだけは時間がかかってでもと力を入れて彩りを持たせて作り、そうして顔と雰囲気を更に整えている。
そんな彼女が、言う。
仕事は見つかったのか、と。言葉の真意は言うまでもないだろう。
「……」
無駄に痛く無駄に辛く、腹の具合が悪い。
気分がズンと重くなった。だから押し黙る。
口を噤む。
悠夜は何も言えず、ただ、芯の残った米を頬張って噛むような、そんな渋い顔をしながら歯を噛み合わせる。
けれど、黙ってしまうのはダメだと悠夜は分かっている。
「…悠夜……?」
「ぁいや。その、ぁの、見つかって…ないって、言うか。…探して……ない」
だから口籠りながらでも、正直にそれを口にした。
正直に物事を話さないと後々面倒になるのは社会常識の一つで、よく使われる『ほうれんそう』というものだ。
6年目のベテランニートだからこそ、そこは抑えとかないといけないポイントであることを熟知している。
そこはしっかりと理解している。
だがそれは『成長』や『覚え』という前向きな成長や歩み寄る理解の要素ではない。寧ろ悪性。もっと言えば『退行』だとか『逃げ』の様な性質の悪い理解と言えた。
「だから……その…」
一種の逆行性を多分に孕んでいる彼の思考の根本は、しかし生憎生半可な理解があるせいで腐ってるとは完全には言い切れず、黒にも白にも染まったままの半生。
「…今度……探す、よ…」
言動は細々としていて、考えは一様にあるようだけれど、自信が悉く存在していない。矢鱈と無力感に苛まれてか悠夜はただそう、たどたどしい小さな声で返事するしか出来なかった。
すると懸念からなのか諦めからなのか呆れからなのか、花奈は何とも取れない、小さく、単調で冷淡な「そう……」と言う言葉を残して、リビングを出て行った。
悠夜はその言葉の意味を理解したのかしていないのか、ただ彼は心の中でそう…か、と言葉の重みを反芻していた。
「……悠夜。昼食代、机に置いとくね」
それから数分すると、花奈は仕事先に赴く前に千円札を持ってリビングに戻ってきてはそう悠夜に声をかけた。
「……」
返事はない。
いや、返事するよりも先に燻る、本当にこのままでいいのだろうか、という罪悪感。
そしてこの情けない位惨めな周辺社会との乖離感。
分かってはいる、けど全然行動ができないとする悠夜の心の中では、そんな自分が余計に醜く見えて、気持ち悪く思えて、逃げたく思った。
そう言えば何かにつけて知ったかぶりをする自身に対しての反抗心が、あの日を境に仄かに芽生えていた。
脳裏に浮かぶ家計簿に記された数字。
「…じゃあ行くわね」
だからかもしれない。
「ぁ……」
この状況から這い出したい、変わりたい、変わっていきたいと、心の底から思うようになったのは。
ーーでも。
「かっ…母さんっ……」
ーー心が苦しい。
「……なに…?」
ーー身体が、重たい。
「ぃゃ…ぁの……」
忽然と頭の中で用意していた言葉が消え去ってしまう。そして、唐突に言葉を紡げなくなる。
そうして悠夜は押し黙る。
この静けさは、これこそが悠夜の言葉だと言わんばかりにその清閑な音域は肥大化していく。
考えようとしても考えが纏まらなくなる、そんな極限的な緊張状態に焦がされている悠夜は軽く唇をかみながら変な汗を掻いていた。
なにも、思いつかない。
でも何か言わないといけない。
(けど、だめだ…なんで)
「……? …何もないならもう行くわよ」
悠夜の呼吸は一瞬、止まった。
「っや、ぇと……」
「なに?」
「…ぃゃ、だから…その…」
煮え切らない、その言葉。
花奈の中では悠夜の話は聞こう、というスタンスは取っているのだろうけれど、やはり仕事という、それと同価値に等しい事柄が差し迫っている。程度の余裕は残しているが待ち時間が伸びるにつれて急がなくちゃいけない。
だから必然的に。
「ぁー……んーじゃあぁー、その悠夜がしたい話は帰ってきてからにしましょ。兎に角時間がないからもう行ってくるわ」
丁寧だけれど非常に淡白な対応だった。
「ぁ……」
声が漏れる。
けど紡ぐべき言葉が出てこない。
ただ、悠夜はあまりにもの力無さに顔を静かに顰めていた。踏み出そうとした一歩では、結局その先へと進む事はできなかった。
(なんでだよ…)
そんな時、現実はそんなものだ、という声が彼の頭に過った。
人間はそんなに簡単に変われるものじゃない、と。
そう、その声は言った。
(…気持ちわりぃなぁっ……)
その見解は妙に達観していた。けれど怜悧さとは程遠い、ませた考え方が気持ち悪かった。
だから悠夜は心の中で悪態をついていた。
そうしていると花奈の影が遠ざかり、そして直ぐに隔てられた空間と、乾いた木の音、鉄の音。
それだけであんなに重たかった空気がポワンッと軽くなった。開放感が身を包む、その感覚に悠夜は安堵の息を吐いて。
「……」
目線を落とした。
(……何してんだよ、俺)
与えられている6年と今という時間。
外に出たくないし、もう誰とも会いたくない。そんな閉鎖的な心情から生まれた現状。
ニートはなるべくしてなった、はずなのに。
楽だから、何も考えなくていいはずなのに。
今日みたいに渋りながらも脛を齧らせてくれる、甘く優しい拠り所があるはずなのに。
求めたような理想が叶っているはずなのに、どうしてこうも苦しいのか。悠夜はただ眉間に皺を寄せ、歯を強く噛み合わせた。
「…っ……」
(死ぬなって言ったから死んでやってないだけ…なんで自分がこんな惨めな思いしてんだよ、寧ろ感謝されるべきやろ……)
「はぁっ……」
そんな、訳の分からない理論が頭の中に浮かんでくるがいやそれは違うと首を振る。俺は別にそんな事を言いたいわけじゃない、と。
見上げた天井。
「……」
頭に浮かぶゼロとマイナスの文字列。
それらが頭にチラつき始めたのはつい去年のことだった。
ふと降り立った深夜4時のリビング。食事を囲う卓の上には細くシンプルなペンケースとノートが4つ、置かれていた。
リビングの電気はつけず、キッチンのオレンジ色の灯りを代わりに利用して俺はそのノートを開いた。
家計簿だった。
そこには様々なローン支出や食費、必要経費、緊急時に使える様にまとめて家に置いておくお金、一定額の貯金ができるような配分。
そして、どのノートにも0、またはマイナスの文字が引かれた、花奈自身の自由金についての欄。
とにかく削れそうな費用という欄にも、自由金が真っ先に参入していた。
そんな思い返すだけで皺が増えそうな家計簿の内容の最後には、必ず余った行を使って悠夜についての事を記述していた。
当時恐る恐るながらもページを捲った悠夜の黒い瞳には、花奈の本心や揺らぐ思いが眩しく映っていた。
つまり。
(本当の負担は俺なんだから)
考えなくてはならない原因であり、要因。
負担を掛けている存在。
そんな状況を知ると、これ以上負担をかけたくないと思えてしまった。それからと言うもの、心根にはなら変わらなくちゃいけない、行動しよう、と言う考えが置かれる様になった。
分かってる、それが最善の策だなんて事は。でも今みたいに身体がついて来なくて、分かってはいるから、早くこの場所から抜け出したい、そう考える。
「っ…」
違う。
(…考えて行動するからあかんままなんやろ)
だから、この時、その家計簿の事を思い出した悠夜は歯を更に食いしばって、全身の力を奮い立たせて、そうして机に置かれたお金を大切に手に取って玄関へと駆け出した。
靴を履き、立ち上がる。そんな花奈の姿が見えた。
まだ間に合う。
「ーー母さんっ! ぁのさっ!」
だから言え、死んででも言え! そう口を動かす。
だが、切り口に対して次いで上げる声の音量は小さくなっていき。
「…ぇと今日の…これ…その大丈夫。小遣いがあるから、さ……」
月二万円のお小遣い、悠夜の自由金。
ほんと、何処までも甘やかしてくれる贅沢なニート生活。誰もが羨ましがる生活のし方だろう。
なんなら前までは悠夜もこの状況を好んでいた。思考を捨て去っていたからだろうか、しかし、家計簿に書かれた数字の羅列を見ただけで急に圧迫感を強く感じ始めた、そんな重たく好ましくない日々。
けど、その癖して毎月しっかり金額を享受している姿勢には何とも言えない矛盾があるが。
そうして、一間。
花奈は驚きながらも少しおかしそうに笑って、言った。
「珍し、どう言う風の吹き回し? ぁ…お小遣いを上げて欲しいとか?」
そんな言葉に悠夜は「そういう訳じゃない」と首を横に振り、再度強調するようにお札を前に出す。
それに花奈は一瞬目線を落とし、小さく唸ると、口角を上げてから悠夜の掌を優しく押し返した。
「なら、働いて欲しいかなぁ…。悠夜が働いたら、もう私からお小遣いとか、食事代を出さなくて済む」
「ぇ…? …あぃゃ、それは……その…」
反射的に、無理だ。
なんて言葉が思い浮かんだ。
でも、じゃあなんで自分はこの千円札を返そうと思ったのだろうか。無理だと言うのなら、一体何故ここに立っているのだろうか。
分からなくなってきた。
(何してんだよ、俺)
この千円札を返すだけで全てが変わってくれるとでも思っているのだろうか。
分からない。
でも。
何のために俺は変わろうとしていたのだろうか。
それだけは分かっていて。
「……」
そんな自身の意味不明な行動に気づき、悠夜は甘ったれた己の考えに奥歯を擦り合わせ、床へ視線を向けた。
そんな悠夜を見た花奈は少し考えてから言った。
「…そうねぇ…あ、悠夜。今から言う事は全部憶測で話してるから、違うかったらごめんね。…で、もしなんだけど」
そう言って花奈は言葉を紡ぐ。
「悠夜が変わりたいと思ってここで私に話しかけてきているのだとしたらね、私から言えることは例え無理そうでも何かしら働いてみた方が絶対いいって事ね。1日だけでもいい。……今の悠夜に足りないのは物怖じするよりも行動すること、正しく怖がる以前の問題ね。で、だからー……んー…と言っても急なのはしんどいものね」
花奈はうんうんと頷いて、名案を挙げるように悠夜に言った。
「先ずは外に出る、ちゃんと陽の光を浴びて、世界の匂いを嗅いで来なさい」
「ぃゃ世界って……ここそんな広くないんだけど」
「…でも今の悠夜にとっては広すぎるくらいじゃないかしら? ……んー、ま何にしてもテレビの画面を見てるだけじゃ何にもならないから先ずは外に出る。家の外に出ればなんか気分が変わると思うから、悠夜は今日一日それを頑張ってこなしてきて。それが課題」
花奈はそう言って一間の静けさを堪能してから「では」と続け「お母さんは日中労働に励む為にも、もう行きますっ」と言ってショルダーバッグを掛けて立ち上がった。
「…う、うん。……行ってらっしゃい」
「はーい、行ってきまーす!」
久しぶりに見た、テンションが高く颯爽と仕事先へと向かう母の後ろ姿。
玄関先に取り残された悠夜は、そこで一つ改心するように唸った。
(変わらないと…。ほんと、俺ってだめだな……〕
意味のない頑張りに価値はない。
けど、敵わないなら先ずは逃げてもいい。
そんな言葉を父から聞いた覚えがある。だからーー
(いや、俺は別に逃げてなんかいない。現実的に見て、合理的に不可能性を避けている…だけ。だから今日はやめて、明日にでも、行けばいい。敵わなそうだから、万全の準備をしやんと…)
正気で言っているのだろうか。
自分で考えて勝手に心が半端なく締め付けられて、目線がまた下に落ちてしまう。自身が考えていることの異常性をわかっているからこそ、自身に対して抱く嫌気が強かった。
そして彼は、ため息を吐いた。
「………」
変わりたい、その気持ちはある。
大いにある。
自身の在り方に疑問を抱いている。
一歩を踏み出したい。
けれど、そうして既に出ている答えからも「無理だ」と眼を逸らして、別の案を模索する。
無理をするという選択肢から排除していく。
目が虚になっていく。
結局その繰り返しの自己問答。
玄関のドアを前にし、背後の壁にもたれ掛かりながら床に腰を落ち着け。
ただの自己嫌悪と、現実逃避と。
(行動…しないと…)
自分は本気で変わりたいのか、どうなのか。
それを議題に悠夜は悩み耽けた。
そうして幾時間が過ぎて。
思い悩んで、時間が過ぎる毎にしんどさは消えなくて、逆に重くなっていって。
「……」
はぁっと強く吐き出した溜息。
それを合図に頭に浮かんだ課題の内容。
(……取り敢えず外に出よう)
悩み過ぎたって仕方ない、その言葉の受け売りは花奈からだ。変わりたいなら動き出そう。いつまでも足踏みしてたって変わんないのは分かってる。
「……っ」
そして悠夜は、歯を食いしばって立ち上がった。