帝国より南へ、その2
オルタンシア城は一週間ぶりの吹雪に見舞われていた。
吹きすさぶ強風と海のうねりのごとく舞う雪に城は霞む。
ようやく見えて来たオルタンシア城の影を微かに丘の上に見てミーシャは保温の魔法が付与された防寒着であり雪原迷彩効果の高い白ローブに身を隠しながらも、吹雪でローブを貫通してくる寒さに身体を縮こまらせながら重たく震える脚を懸命に前へと進めていく。
「殿下、もう一息です。耐えてください」
護衛の冒険者ワルドの激励する声を聴きつつも、答えを返すだけの余力は今のミーシャには無かった。
(早く、カラル兄様に伝えなければ・・・。帝国はもう・・・)
すでにカラルが、偽りの召喚状で城を後にしてしまったということなど、この時のミーシャ達には知る由もなかった。
オルタンシア城、執務室の一室。
扉がせわしなく三回ノックされる。
カラル皇子に代わり城を預かる軍師ゾルブ・ゴルージンは、頬のこけた眼光鋭い細身の長身の男は立会用の大テーブルに周辺地図の戦況を見ながら眉間にしわを寄せ、五月蠅そうに扉を睨みつけた。
「なんだ!」
『申し訳ありません、軍師殿。帝都から第八皇子殿下がおみえになられておりますので。いかがいたしましょうか』
「ミーシャ殿下が? この忙しい時に、末弟殿下は暇なようだ・・・! 直に会う、応接間にお通ししろ」
『はっ』
夕刻迫る窓の外に視線を移し、ゾルブは厚手のカーテンを閉めると防寒マントを翻して壁掛けに吊るしておいた長剣を右手で掴み腰ベルトのカラビナに固定すると、姿勢正しく隙のないきびきびとした足取りで執務室の頑丈な扉を引いて開ける。
貴族然とした胸を張った足取りで、応接間を目指して床を力強く踏み鳴らし歩いて行った。
応接間に通されたミーシャとワルド。
火を入れた暖炉の前に椅子に座り、ミーシャは温めた湯気立つホットワインが注がれたジョッキを両手に冷え切った身体を温めている。
ワルドも当然身体は冷えていたが、護衛の立場にいる以上緊張を解くことはせずに暖炉から少し距離を置いて、しかし雪に濡れたローブだけはコート掛けに吊るしミーシャ同様ホットワインの注がれたジョッキを左手に温めたおかげで味が微妙な湯気の立つ赤い飲み物をぐっと飲み込んだ。
簡易な来客用の応接間の扉が開かれて、兵士が入ってくる。
「軍師閣下がお会いになられます、ミーシャ殿下」
皇族とはいえ、末弟ともなると皇位継承権もなくどこか扱いはぞんざいになっていた。
無礼だとは感じたが、ワルドはあくまでも護衛であってミーシャを守る騎士ではないから何も言わない。
ミーシャも自信に求心力が無い事をわかっているのか、兵士の無礼な態度に怒ることもなく疲れた顔に笑みを浮かべて彼を見て言った。
「ありがとう、通してください」
「はっ」
下がる兵士。
ワルドは気の毒そうにミーシャを見て言った。
「怒らないんですね」
「兵士の態度ですか? 私が怒ったところで、配下も持たない身分では皇族といえども無力だという事です。それよりも今は、カラル兄様に危機を伝えなければ」
「使命感があるのは結構ですが、あんたのやらなければならない事は一人でも多くの兵を連れて南に落ち延びる事ですよ。今の態度ではだれもついてこないと思うんですがね」
「それは・・・そうですね。ですが、私はどうすればいいと思いますか。父上から、皇帝陛下から元服いただいていない未熟の身。何の権限も無ければ配下の兵も、ましてや黒騎兵も与えられていない身。誠心誠意語ることしか、私には出来ないのです」
第二皇子配下の正規兵にとって、末弟の皇族など取るに足らない存在だと思われていてもおかしくは無い。
問答している間に重厚な扉が開かれて、長身の細身に見える頬のこけた神経質そうな顔つきの男が暖炉の前に椅子に座り身体を温めている灰色の長い髪をポニーテールにまとめた小柄な美しい少年をその鋭い眼光で睨みつけて言った。
「殿下。いかにやる事がないからといって、こんな時期にミシャーティとの最前線にいらっしゃるとは。どれほど暇なのですか」
「ゾルブ殿、カラル兄様とは会えないのですか」
「我らが暇だとでも?」
取り付く島のない高位の将校と思しき男に、帝都の状況を知らないとはいえあまりの扱いに流石のワルドも反論しようと身動ぎするが、それを察したゾルブはひと睨みで黙らせる。
再びミーシャに視線を戻した。
「どういうおつもりです。殿下」
明らかに攻撃的な態度を取るゾルブに、ミーシャは毅然として椅子から立ち上がると椅子の上にホットワインのジョッキを置いて真っ直ぐに見つめ、そして寒さと緊張から震える小さな唇を開く。
「お願いですゾルブ殿、今すぐに兄上を呼んでください。とても大切な話があるのです」
「話ならば私が聞きましょう。カラル殿下はお忙しいのです」
「では一語一句伝えて頂けますか。嘘偽りなく、兄上に届けて頂けますか」
戦争で培われてきた威圧感。
ゾルブの大人でも身震いしそうな圧にも屈せずミーシャは強い決意をもって食らいつく。
ミーシャの異様なその頑張る様子に、ゾルブも違和感を感じて態度をわずかに軟化させた。
「いいでしょう。必ずお伝えします。どんな要件がおありなので?」
ミーシャはすぐには答えられない。
それほどまでにショッキングな事であり、未だにミーシャ自身受け入れがたいからだ。
右手を胸に当てて一呼吸置くと、ミーシャは意を決したように息を吐いて言った。
「帝都が陥落しました。わたしを除いて皇族がどうなったのか、皆目わかりません」
言葉を遮るように眼光鋭く睨むゾルブ。
「なんの御冗談か」
「冗談でこんな話が出来ると思いますか」
「帝都には十四万もの兵力と大軍を迎撃するために外方に向けて配備された大量の攻城兵器群が配備されています。なんの御冗談か」
「テメーらはその場にいなかったからそんなこと言うがよ! 四十万を超えるスノーリザードマンの大軍相手にどう持ちこたえろって言うんだ!」
冗談で片づけてミーシャを蔑むように怒りをぶつけるゾルブに向かって、反射的にワルドが怒鳴りつけてしまった。
ミーシャが左手を僅かに上げて手の平を向け、制止しようとするミーシャ。
「ワルド、待ってください。わたしが話しますから」
「何を仰ってるんです、殿下! 殿下だって見たでしょう、あの雪原を埋め尽くして蠢く大軍を! しかも奴ら、百を超える地走竜の突撃軍で城門どころか城壁までぶち破って一気に帝都になだれ込んで来たんですよ。あんなの、どうやって止められたって言うんです!」
「黙れ冒険者風情が」
ゾルブが腰の長剣を抜刀して切先をワルドの喉に狙い定める。
ミーシャが一歩前に出て両手を広げて言った。
「剣を収めてくださいゾルブ殿。本当に帝都は陥落したのです」
「それで、何の力も持たない末弟のあなただけが帝都の外へ逃げおおせることが出来たと? 悪くない冗談ですね」
「どうして信じてもらえないのです」
「どうしても何も、カラル殿下は帝都からのストルヘン殿下、白竜帝国撃破の報を受けて祝賀会に参列すべく兵三千を連れて帝都に向かっているところです。末弟殿下の戯言など、」
「いつ向かったのですか!!」
はかなげな少年の思わぬ剣幕に一瞬怯むゾルブ。
ミーシャは絶望的な表情を浮かべて彼に飛びつくようにしがみ付いて見上げ、泣きそうな顔で訴える。
「すぐに呼び戻してください! 捕獲した帝国家臣に偽りの文を書かせたに違いありません、それは罠です!」
「わ、罠と言われても・・・」
「どこにいるのですか! いつ出立されたのですか!?」
「それは、三日前ですが」
ミーシャはその場に崩れ落ちた。
三日前と言えば、ミーシャが陥落した帝都から落ち延びた翌日だ。
ロレンシア帝国が陥落したのは、実に五日前の事であった。
「では、・・・もしかしたら、カラル兄様は、もう・・・」
すべてが無駄であったのかと、本当にミーシャは皇族唯一の生き残りになってしまったのかと、床に四肢を吐いて涙を流し続けていた。




