星空の下に誓う愛
ため息を吐いた。
館には空を眺めるための展望バルコニーがある。
中世ファンタジーに近いこの世界にあって、そのような造りは最前線の砦の館には無用の長物ではあったが、セージは砦内に館を建造してもらう際に個人的に静かに空を眺めるのが好きだと言う理由で南に向いて太陽と月がよく見えるバルコニーを設けさせた。
元のセージの魂が混在していた時は、月に住う法と死の女神グリアリスに出来るだけ近い場所から月を眺めるため。
そして今は、大槻誠司の魂だけが残ったセージ・ニコラーエフは精神的に不安定な自分を落ち着かせるために天に輝く月とそれを取り巻くように瞬く星々を眺めるため。
月から視線を真上に見上げると、東から西へと密度が高く他よりもやや大きく見える星々がより集まった帯、天の川が白と青と黄色に煌めきまさに大河のごとく流れて見えた。
「この星を周回するアステロイドベルトか。天の川、この世界ではアルカ・イゼス・エラ、大地の神の血と呼ぶのだったか。天神サーラーナとの間に子を設け、その女神の纏う太陽の炎で焼かれ命を落とした竜王アルカ・イゼスの身体は大地となり、その血は天に昇り世界を守らんと大河となって空を巡る」
誠司としてゆっくりと考えられるようになって、幻想じみた妄想に疲れた思考を泳がせる。
「アニアスを狙っていた奴等は始末した。そう思えば次は王都の近衛騎士団の巡視隊か」
南の地平に視線を落として遠く僅かに見えるコラキアの灯りを眺めて手摺りに両手を突いてゆっくりと息を吐く。
背後でバルコニーに出入りする大窓の傍に佇んでいたジェリスニーアが一歩下がる足音が微かに聞こえてゆるりと振り向くと、半分ワインで満たしたアクアマリンに光を照り返す上等なグラスを両手で腹の前に持つアニアスが、薄い水色のネグリジェ姿で颯爽と歩み寄って来た。
セージの右隣に立って同じように南の地平をぼんやりと眺める。
「なあ、セージ。アンタは、もうアタシの事、好きじゃないのか」
当てつけるように言うのは、宴の終り際にレナやフラニー、アミナに優しく接したのを見ていたからだろうとは容易く想像出来た。
夫婦喧嘩中の妻の前でそのような態度を取れば呆れられるのも道理だが、本来の「セージ」を失った「誠司」には今も自分がこの娘を愛せているのか自信が持てないでいる。
「一度殺された」
その上で、怒りからアニアスを狙う連中を憎む思いに駆られてベイルン領まで赴いて殺害して来もしたが。
「今でも君を愛せているのか自信はない」
「それでもアタシの側に立って、『夫』としてアタシを守り続けたいって?」
グラスを握り締める力を強く、一口ワインを舐める。
「もう好きじゃないって言うなら、それはそれで良いさ。アタシだって自分の身を守れるほど強くないって実感はしてる。守られてやるさ。だけど、こんなにもアンタに失望した事は無かったよ」
セージに向き直って横顔を睨むように見上げる。
「小娘だったアタシをコラキアで振った時は、なんて臆病で甲斐性がないんだって憤ったもんだけどね。今はなんだい。他の女を侍らせて、良い気になって、モテモテになったつもりかい。顔の傷だって消してさ! 自分はもうかつてのセージ・ニコラーエフじゃない? だから今までのようには接する事が出来ない? もうちょっとマシな言い訳は無いのかよ!」
「すまん」
ぽつりと一言だけで終わらせてしまうセージ。
その目が遠く何処かを、届かない何処かを懐かしむように悲しい視線を投げかけて、後悔の念を滲ませる彼の表情を見て、アニアスは最早愛は無いのだと感じてグラスを床に叩きつけそうになるが、ふとセージの口が開かれて思い止まった
ゆっくりと語り始める。
「俺が転生者だと言う話は、誰かから聞いたか」
「・・・」逡巡して地平に視線を逃す「知らないよそんなの」
「毒でやられるまでは、本来のセージ・ニコラーエフの魂とこの身体を共有していた。いや、正確じゃないな。お互いの魂が混ざり合って、歪に存在していた」
手摺に突く手に力を込めてギリと音を立てる。
「一度死に、セージの魂は幾度の死の経験に耐えられないほど疲弊していたそうだ。女神グリアリスに死の淵で聞かされたよ。それで、彼を月の世界へと導いて、連れていってしまった」
「だから、それがよく分かんないって言ってんだよ・・・! なんの方便だよ!」
「本来のセージ・ニコラーエフが君に抱いていた感情は、本当の意味で愛だったと思える。だが今の俺は彼の想いを引きずっているだけなのかと、自信が持てないんだ。こんな立派な身体を与えられた所で、心の弱い人間なのさ」
右手を見下ろして、アニアスに視線を向けようとして出来ずに再び地平を見やる。
アニアスはそんな情け無いセージと精神的に別れるつもりでバルコニーに来て、やはりいつまでもうじうじしているその姿を見て軽蔑するような視線を向けながら、それでもと問いかけた。
「アタシが酷い目に遭わされてたら、守ってくれるかい」
「当たり前だろう。大切に想う人を傷つけられたら、絶対にそいつの事を許さん。ブチ殺す」
「うん・・・」
即答して怒りの炎をその目に宿した一瞬。
彼の横顔を見上げながら、アニアスは愛が冷めた訳ではないと理解して、すっとグラスを掲げてみせた。
「こっ酷く振られてアンタを憎んでさ、三年? アンタが森の山小屋に砦を造ってハーピーを、ラーラを守りながらアタシとクソジジイに弓を向けて来てさ。そん時に、惚れ直したんだよ。ああ、この人は、大切な人のために戦える人なんだって」
クイと一口飲む。
「あの後、瀕死のアンタを守りたくて、前に出て酷い目に遭わされたアタシをさ、本気で怒って割って入って、死ぬかもしれないのにミノタウロスと戦ってくれてさ。ああ、なんだ、愛してくれてるじゃんって、安堵した」
セージはただ聞き入るだけで振り向かない。
アニアスは続けた。
「あの時のアンタは、今のアンタだったのかい? そんな事、覚えてもいないのかい? ・・・アンタは、いつからアンタだったんだい・・・?」
「・・・無茶をしてくれた。お前はあの時、俺が戦っている間に町に助けを呼びに行くべきだったんじゃないのか」
「愛してくれてる男が戦ってるのに、愛する男を置き去りにして逃げられるほど、アタシは臆病なんかじゃない。どうしようもなくアンタが好きで、愛して、愛してやまなくて、アタシは愚かなんだよ。アンタが好きで好きでたまらないんだよ? アンタの気持ちはどうなんだい?」
「・・・判るものか・・・」
「あの時、アタシを守ってくれたのは、今のアンタかい? それとも、今のアンタになったのは、」
訴えるように語り掛けてくるアニアスに、急激に欲情を掻き立てられて、セージは彼女の背中に両手を回して抱き寄せ唇を奪った。
しばらくして、怯えたように身を離す。
「す、すまん・・・俺は・・・」
「逃げるな」
アニアスの手からグラスが床に落ちて転がりワインが溢れる。
セージの首筋に飛び付いて、彼女は自らの意思で唇を重ねた。
「ほら・・・ドキドキしてる・・・。ちゃんとアタシの事、愛してくれてるじゃないか。正直になれば良いだけだよ」
「こんなのは、ただの肉欲だ・・・。愛なものか」
「愛だよ」
さらに唇を重ねて、アニアスの方から舌を絡めて深く口付けを交わした。
そっと離して額を触れさせセージの目を見上げるように熱っぽい視線を投げかける。
「このアタシに何度も言わせるのは、罪だぞ。妻に分からされるって。夫だったら自信を持って、アタシの事を愛してるって言え・・・!」
「だけど、これは・・・」
「言えって・・・!」
首ぶら下がって訴えてくる美女と額を合わせて見つめ合い、左手を彼女のお尻に、右手を背中に抱き締めて軽く唇を重ねるセージ。
「俺は、君を愛せているだろうか。俺は・・・君を愛しても良いのだろうか・・・」
「当たり前の事を言うな。本気で別れちゃうぞ?」
星月の明かりに照らされて、バルコニーで二人抱きしめ合い、深く口付け求め合ってその場で身体を重ねた。
バルコニーの大窓に背を向けて、ジェリスニーアは一時的に機能を停止させて緑色の光をその瞳から消してメイド然と佇み二人の馴れ初めから目を逸らす。
アニアスを抱き締めて、セージは後悔するまいと、守り通そうと心に誓っていた。
トーナ王国の首都フェリにベイルン家からもたらされた、王女にして天神の巫女の存在。
第一王女マリエルの生存の可能性。
トーナ王国国王ラウル三世は近衛騎士二百騎を引き連れて、王家の装飾の施された豪奢な大馬車に揺られて遥か北方の辺境に訪れていた。
ベイルン領はオーレイル湖、湖畔のベイルン城を前に近衛騎士隊長オーギュストが騎馬を左側に並走させて窓を叩いた。
鎧戸が引かれ小窓からラウル三世が疲労を滲ませながらも鋭い視線をオーギュストに投げかける。
「オーギュストか」
「陛下」
オーギュストは馬上からお辞儀をして真っ直ぐに見て硬い声で言った。
「ファーレン・ベイルン伯爵は既に亡くなっているようです。分家のフォイルン家による謀反で一族郎党命を絶たれたと」
「あのファーレンがな・・・。フォイルンはどうか」
「陛下をお迎えする用意はあるようです。何かあれば、我ら近衛騎士が陛下を必ずお守りいたしますが、いかがなさいましょう」
「本家に弓引くのは大罪ではあるが、話くらいは聞かねばなるまいな」
「承知致しました。準備をさせます」
先頭に控えて進む伝令の元へと騎馬を進めるオーギュスト。
国王ラウル三世は小窓の鎧戸を閉めると機嫌が悪そうに目を閉じて馬車に固定されたソファに深々と背中を埋めるように座って浅くため息を吐いた。
「マリエル。我が娘よ」
国王を護衛する近衛騎士二百騎は、湖畔のベイルン城を目指して悠然と歩を進めて行く。
失われた第一王女発見の知らせ。それをもたらしたベイルン伯爵家の滅亡。
謀略を思わせる状況に現実味を感じ、ラウル三世はベイルン家分家であるフォイルン家の謀反に何かを感じずにはいられなかった。