セージという存在
エッソス城の執務室で、領主ノアキア・エッソス男爵は暗澹とした表情で寡黙に執務をこなしていた。
領地の各方面からの陳情や周辺領地の辺境伯爵家、あるいはコラキアはエッソス領と隣接するより小さな男爵領からの公益に関する物や何らかの祝賀パーティに関する手紙が認められた羊皮紙に目を通しては、返事を書く山と印鑑を押印して配下に処理を任せる山に振り分けて重ね置いていく。
後回しに一番下にしておいたベイルン家からの文を最後に手に取り、エルザベート夫人からの文章に目を通して深くため息を吐いた。
「この後に及んで、あの女狐は私に謝罪と賠償金を要求するのか。要求を断れば戦をする準備が有るなどと、正気の沙汰ではない。ベイルン家が伯爵家といえ、いくら我が領土よりも広く支配しているとは言え総兵力の三分の一近くを失ってなお、このような強気な姿勢を見せるとは。一体、領地運営を何だと思っているのか・・・」
目頭を押さえてさらにため息を吐き、返事を書くのも馬鹿ゞゝしいとデスクの上に書状を放り捨てて羽ペンをインク瓶に投げるように戻すと、小気味の良い鈴のような音を立てて黒い瓶の縁を羽ペンが周回して踊る。
羽ペンが止まり、ノアキアも疲労困憊したようにソファに深々と背中を預けると、扉が慌ただしく三度ノックされて目を見開いて身体を起こした。
「何事か」
『そ、それが! サー・セージが・・・っ!?』
「セージ・・・。葬儀は済んだのであろう、何があるという」
『い、生きておいでです!! 今! 城下の広場にて配下を従え、ご帰還なされたと!!』
「どういう事か・・・。すぐに謁見の間へ、いや、この執務室に通せ!」
『ははっ!!』
毒殺されたと聞いていた盟友が、どうやってやって来たのか。一体何の冗談か。
「あの男の名を語る不届者であれば、許し難い。だが・・・」
それほど慌てていたのか、扉越しに報告してそのまま立ち去った兵士が客人を連れて来た様子で改めて扉をノックして言った。
『閣下、セージ・ニコラーエフ殿の一行をお連れしました』
「通せ」
『はっ!』
デスクの上に肘を突き組んだ両手の上に顎を乗せて扉を睨み待つノアキア・エッソス。
ノブが回され、扉を開きながら入室した兵士は脇に避けると一礼して四人組の一行を迎え入れる。
「どうぞ」
「ん・・・」
極端に短い、聞き慣れた返事。
入って来たのは身の丈2メートルを越える黒い革鎧に身を包み左腰に長剣を携えた大男と、着物袴の上に小札鎧を着込んだ男女、そして緑を基調としたメイド服を纏った緑色の頭髪をローテールに纏めた少女に見える生人形。
「む、う。その方らは?」
「お初にお目にかかる、と、言った方が良いのか。ノアキア・エッソス男爵閣下」
顔や額に負っていた戦傷の無い、厳ついが整った顔立ちの偉丈夫が真面目な顔で会釈をして上目遣いにノアキアを見て、その視線に覚えがある気がしてノアキアは「ううむ」と唸るとソファから身体を起こしてじっと観察する。
「貴様は・・・セージ・ニコラーエフなのか?」
大男はすぐには答えられなかった。
視線を床に落として何かを考えるような素振りに、ノアキアは背後に控える東洋人の美女と大男を見て、そしてセージと思しき男の右の側に寄り添って立つ緑色の生人形の目を見る。
「ジェリスニーア。生人形は簡単には主人を違えまい。セージなのだな?」
ふう、と、黒い男は観念したように口を開いた。
「正確には、セージ・ニコラーエフだった者、です。俺、」口ごもり深呼吸して言い直す「私は確かに毒を盛られて一度死にましたので」
「では貴様は何者なのだ?」
「バーサック殿から、聞いておりませんか。異世界で命を落として、この世界に魂だけ誘われた者です」
「俄かには信じられんが」
「そしてセージ・ニコラーエフは、数上に渡る死の経験で魂を擦り減らしていました。彼の魂は、女神グリアリスの愛に導かれて、月に」
「そうか・・・」
皆まで言わずとも、ノアキアは今の説明で得心が言ったように安らかな顔で目を閉じてソファに深々と腰を沈めてしばらく祈るようにしていた。
「ナターリア皇女だったか。ロレンシア帝国の姫であり、戦で命を落とした彼女の元に、召されたのだな」
「そう考えるのが、妥当かと」
「フッ、貴様がそのような遜った態度。どこか気味が悪いな」
ノアキアは目を開くとソファの肘掛けに両手を突いて立ち上がり、半身左前に姿勢を正して厳しい目付きで男の目の奥を覗き込む。
「それで、貴様の事は何と呼べば良い。敵、ではないのだろう?」
「お許し頂けるのならば」
「良い、構わぬ。味方だというのであれば、セージ・ニコラーエフに与えた北の砦に戻り引き続き村の運営と砦の防衛を任せる。貴様の名は」
「大槻、誠司、と申します」
儀礼式のお辞儀をするセージ。
ノアキアは不機嫌そうに彼をひと睨みして言った。
「オオツキ・セイジ・・・セージ・ニコラーエフで構わぬな」
「は、しかし、」
「顔が多少綺麗になったくらいでその形で立たれては別人扱いする方が面倒だ。アニアスの夫としての務めも果たしてもらわねばならぬ」
「その事ですが・・・」
「離縁は認めぬぞ。貴様は体外的にもあの娘を、トーナ王国の第一王女を隠すための防波堤でなくてはならんのだ」
「私に愛が無くともですか。彼女からの愛も今の私を見れば失うでしょう」
「知った事か。それに近日中に王都から騎士団がこのコラキアに派遣される事になっている。ファーレンめ失われた第一王女を取り戻したと王都に書簡を送っておったわ。事実確認に既にこちらに向かっておるのだ」
「タイミングが悪うございますね。我がマスター」
ジェリスニーアがセージの袖を摘むように掴むと見上げて言う。
セージも少し困ったようにして彼女を見てからノアキアに向き直り、ノアキアは嫌な予感がしてセージを睨み付けた。
「何をして来た」
「我が砦に刺客を送り込み、私の命も一度奪った連中を野放しには出来ぬと、行ってエルザベート夫人を暗殺して来たのです」
ぽかんと一行を見渡すノアキア・エッソス男爵。
ジェリスニーアが一歩前に出て言った。
「ベイルン領では圧政に不満を爆発させた抵抗運動が城に実力行使を行い、先の戦で主戦力を失っていたベイルン家は城の中まで攻め込まれていました。今頃は一族郎党とも、抵抗軍に命を絶たれているものと思われます。わたくし共のことも引き込もうと手を回して来ましたが、断ると刃を向けて来たのでこれを殲滅。我々がエルザベート殺害に手を下したと知る者は、現時点では存在しないと判断します」
「やれやれ・・・。全く・・・」
ノアキアはデスクに両手を突いて俯くが、気を取り直して一同を改めて見る。
「殺してしまったものは仕方があるまい。反乱に乗じてとなれば、犯行そのものも反乱軍に被せる事も出来よう。今は砦に戻りアニアスの守護を引き継ぐのだセージ・ニコラーエフ。それにあの娘は、案外今の貴様の方に惚れたのやも知れぬしな」
「それは無いでしょう。本来のセージ・ニコラーエフの危うさに惚れたのだと思います」
「いずれにせよ離縁は認めん。引き続き側に置いて守れ」
「私を信用出来るのですか」
「目を見て会話すれば人となりを理解出来るつもりだ。貴様の戦闘力まで失われたわけでもあるまい?」
「それは、まぁ」
「ならば、引き続き我が配下として任をこなすが良い。私もこれまで通り貴様を使う。そのつもりで我が城を訪れたのであろう」
ノアキアはデスクを回ってセージの前まで歩み寄ると、右手で彼の左肩を強く励ますように叩く。
「黒騎兵達を統率し、この北部の守りにも手を貸してもらわねば困る。王国騎士団に関しては、貴様にも手間をかけるが。アニアスを王女と認めさせる訳にはいかん。あの娘には聖女として、この地で来るかもしれん魔族との戦いに立ってもらわねばならんのだからな」
「アニアスの意思はどうなるのです」
「あの娘自身、判っているよ。だからこそ、貴様にはあの娘を守ってもらわねばならんのだ。引き続き頼んだぞ」




