闘犬は、妻と娘に想いて
コラキア北砦。
コラキアの町から北に数キロ離れた、川からさほど離れていない土地に造られたその真新しい村は、八割の家屋が簡易なテントといった人口三百人程度の村である。
その村を南側に抱える木製の砦内に建築された館のバルコニーでセージ・ニコラーエフは、手摺りに寄りかかるようにして厚手の四角いグラスに半分注がれたウィスキーを舐めるように飲んでいた。
バルコニーの手摺は天端が500ミリと物が乗せられるほどの幅の装飾が無い簡素な造りで、左肘をついて寄りかかる彼の左脇にはスマートなデザインの深い青い色をした酒瓶が寂しげに佇んでいる。日も落ちかけた刻限。
体躯のとても大きな彼が小さく息を吐いて右手のグラスを傾けてウィスキーで唇を濡らす。
バルコニーの出入り口にもなる大きな観音開きの窓が開かれて身体のラインが美しい金髪褐色肌の美女アニアスが、普段の身体に密着するデザインの赤い革鎧ではない寝間着の絹一枚着であるキトーンに身を包み、足音も静かにセージの背後に歩み寄って彼の左隣に手摺に背中を預けてその顔を見上げて言った。
「一人で飲んでいたのかい」
「俺の勝手だろう。何だ?」
突き放すようなぶっきら棒な言い方にも、彼女は愛を内に感じてか呆れながらも全てを許すような優しい笑みを浮かべてフフと笑う。
「レナ達のことが心配なんだろ」
セージは答えず、代わりに苛立たしげにグラスを口に運んで控えめに首を傾けて一口含んだ。
肩をすくめて苦笑すると背中に隠すように持っていたグラスを両手で胸元に出すアニアス。
「ね、セージ。アタシにも注いでくれないかい」
軽くため息を吐きながらもセージは左手で酒瓶を取って丁寧に傾けて、アニアスのグラスに琥珀色の液体を半分まで満たして酒瓶を手摺に音を立てないよう静かに戻し、南向きのバルコニーからテントばかりの未だ若い村を眺めて西から指す弱く赤みを帯びた日に横顔を照らされてグラスを口に運びながら言った。
「何をしに来たんだ」
「寂しげにしてる夫の背中を見れば、隣に立ちたくなるのが妻ってものなのさ」
「意味がわからん」
「フフ、全くこの宿六が。大丈夫だって、ジェリスニーアがついて行ってるんだし。ベルナンだっているんだからね? それに、レナだって冒険者やってるんだから、そんなに過保護に心配してどうするのさ。危険と隣り合わせの事をやってるのは本人だって承知の上の事だろう」
「そんなものは、」
「分かってるって?」
言葉を遮られて不貞腐れたように手摺に両肘を付いて両手の中にグラスを包み込み、ゆらゆらと琥珀色の液体を夕暮れの赤い陽に輝かせるセージ。
アニアスも両手に包み込んだグラスを手摺の上にそっと置いて手を付くと、困ったように短く息を吐いて夕飯の支度の煙が立ち上るテント村を眺めて、始めに笑いを交えてごく真剣な口調で言った。
「ねぇセージ? 危険と隣り合わせの仕事をさせてるんだから、あんまり過保護にするものじゃないよ。あの娘の成長を遅らせるだけだよ?」
子供のように口をへの字に曲げて拗ねるように彼女の言葉を無視するセージ。
アニアスは、あはっ、と元気に一声笑って彼の左肩を力一杯平手打ちした。
「もう! 剣術だってレンカに習わせたし、剣だってあげたんでしょうが!?」
「うむ・・・」
「護衛に付けた連中だって一級の冒険者や戦闘用の生人形なんだから、そんなに心配する事じゃないだろ。それともアンタはロリコンか!」
「一回り以上歳下のお前と結婚してるのだから言われても仕方が無いな」
「つまりロリコンか」
「おいレナの事は子供にしか見えんからな誤解するなよ。妹のようにしか見ていない」
「じゃあアタシの事は?」
挑発するように向き直って胸を押し上げるようにグラスを持った両手を谷間に挟むように押し上げて見せるアニアス。
チラと見てしまって恥いるように、照れるように顔を夕陽に向かって背けるセージ。
ごく小さく咳払いするのが聞こえて、アニアスはそっと微笑んで彼の左腕に両腕を絡ませてグラスを一口。
コクリと琥珀色の液体を飲み込んで甘えるように言った。
「ベッドに行きましょう、セージ」
「おい、俺は・・・」
あくまでもアニアスを守るべき対象としか見ようとしないセージ。
アニアスは少し怒って双丘を彼の筋肉質な上腕に押し付けて言った。
「いい加減にしないと離婚だぞセージ。一度もちゃんとアタシを抱いてないじゃないか! 何を我慢してるのか知らないけど、ラーラとも寝てないんだろっ」
「村一つ与えられてそれどころじゃないって分かってるだろう、今は忙しい時期なんだぞ。村の防衛の指揮も取らんとならんのだ」
「あの二人の側近に直接の指揮は任せてるじゃないか。寝ずに働いてるなんて言わせないんだからな」
「アニアス・・・」
「睨んだってダメだぞ。アタシの胸に触れて我慢してるの丸わかりだからな。女の性欲舐めんな」
「いい加減に、」
「いい加減にすんのはアンタだって言ってんの。夫婦なんだよ? 妻の方から誘ってるってのにさ、今日断ったら一生口聞いてやんないから」
セージは困惑した表情でしばらく黙ってしまった。
アニアスを愛しているのは本当だ。大切すぎて触れるのも恐るほどに。
何より彼女がトーナ王国の王家の血筋だというのは事実で、側に置いて守るためにコラキア領の権力者達に無理矢理結婚させられたという側面がある。
(だから、抱いて良い立場ではない。俺はこの娘の盾であるべきで、それ以上の関係になるわけにはいかんのだから・・・)
「わかった! もー解った! じゃあこうするよ?」
アニアスは歯切れの悪いセージに苛立って、グラスの中身を一気に口に含むと、勢い彼の首に両腕を回してぶら下がるように抱きついて、瞬間唇を重ねてそうっとウィスキーを口移しで流し込んでいった。
ずっと我慢してきたというのに、娘の柔らかな唇を重ねられて彼女の甘い身体の香りが混ざった琥珀色の液体に内側から温められて、その魅力に抗いきれなくなってくる。
(まずい、コレは・・・)
目を閉じそうになって慌てて彼女の両肩を掴み身を離すセージ。
「おい、アニアス!」
何かをウィスキーに混ぜられたと察した時には身体の火照りが治らず、どんどん大きくなってくる。
「コイツ・・・! なんか混ぜやがったな!」
「こうでもしないとその気にならないだろう? ん? どうだい、アタシの身体は魅力的じゃあないかい?」
勝ち誇ったように右腕で胸を抱き、左手で右肩の上で結んだキトーンの結び目を解くアニアス。
「クソ、このっ・・・」
頭がぼうっとしてくる。
恐るようにしながらも両腕を伸ばしてアニアスの肩をそうっと抱きしめていくセージ。
アニアスはされるがままに身を委ねてほくそ笑んで言った。
「アタシの勝ちだね、フフ。一生逃すつもりはないんだからね旦那様」
アニアスもまた彼の背に両腕を回して力一杯抱きしめる。
アニアスの頭を右手で撫でて、左手を背中に添えて、セージは湧き上がってくる感情を抑えられなくなっていった。
遠のきそうになる意識の中で、彼は呪いのように考える。
(この身体。流石に毒に耐性は無いか・・・全く。これからはそっちの方も気を付けねば・・・ならんな・・・)
二人は熱く唇を重ねた。




