17.慟哭のトレーニング
「くっ!」
靴が床をスリップし、キュッ、という音と共に、私は倒れた。
トレーニングルームのフローリングの床には、私の顔が微かににじみ、そこに汗が何滴か零れ落ちる。
「……まだ……こんなのじゃ駄目……っ」
こんなレベルじゃ、とてもライブなんてできない……っ。
相方である、あの少女は既にこの場にはいない。
誰もいないトレーニングルームで、私はただ一人踊り続けている。
真上にある時計を見れば、もう夜の九時半だ。
床から顔を上げると、壁一面を覆う鏡が、惨めな緩木結香を写していた
白の半袖ティーシャツに、ジャージズボンを履いた見窄らしい少女。それが今の私だ。
そのあまりにも哀れな今の自分に、自己嫌悪と共に歯ぎしりが鳴る。
嫌な感情を抱けば、同時に嫌な過去が思い起こされる。
思い出すのは、数日も前の出来事。
私の最愛の……命の恩人ですらある男の子に、最低な言葉を吐き捨てて絶交してしまったこと。
七芽くんを……裏切ってしまったことだ……。
あの時の自分が本当に憎たらしい。
本当に最低だ。
私は一体、どれだけ彼に迷惑をかけた? どれだけ彼を頼った? どれだけ彼に助けてもらった?
それなのに私は、人として最低な言葉と共に、彼を突き放したんだ。
それもこれも、自分の父親にただ振り向いてもらいたいがために……っ!
でも……それでも……。
「それでも……諦められないんだよ……っ!!」
私にとって、七芽くんと同じくらい、お父さんのことも大事。大切なんだ。
だからお母さんの反対も押し切って、アイドルをやることにした。
ただお父さんと話したいがために。
顔を合わせて話がしたい。
色んなことを聞きたいし、色んなことを言いたい。
元気にしてた?
昔より痩せてるけど大丈夫?
どうしてお母さんと別れたの?
社長なんてすごいね、社長さんてどんな仕事するの?
私、大きくなったでしょ?
頑張って綺麗になったんだよ?
女の子らしくなったでしょ?
ちゃんと成長したんだよ?
お母さんみたく、綺麗になったでしょ?
お父さん……ずっと、会いたかった……。
一杯一杯……何でもいいから……私は……お父さんとお話しがしたい……っ!!
「会いたい……会いたいよ……お父さん……っ!!」
身体が震えて、気付けば目から涙が零れ堕ちた。
うめくような私の声と共に、涙の粒は次から次へと溢れてきて、床を濡らしていく。
こんなんじゃ、駄目なのに……練習もせずただ泣いてる子なんて……お父さんには必要ないのに……それでも……それでも涙が止まらない……っ。
「誰か……誰か……助けてよ……っ」
本当に、私は最低だ。
自ら差し伸べられた手を振り払っておいて、困った時はそうやってすぐ救いを求める。
どうしようもない自分に対して、また黒い渦のような感情が捲く。
そんな都合の良い展開など、この世には一切ないというのに……。
ピコン。
「!」
誰もいないトレーニングルームに鳴り響いた、小さな音。
私はそれに飛びつくように、壁際に置いてあったスマートフォンを掴んだ。
もしかして……彼が連絡をくれたのだろうか?
そんな淡い期待を持ちながら、スマートフォンを確認する……だが、その期待は大きく外れた。
[結香ちゃん、お久しぶり。元気にしてた?]
送ってきたのは、灰被硝子さん。
七芽くんのゲーム友達であり……彼のことが好きな私の恋のライバルだ。いや、だった人だ。
私はもう、彼に恋なんてする権利など持ち合わせていない。 その事実を改めて実感し、憂鬱な気分になった。
気を紛らわせるため、私は硝子さんにメッセージを返信する。
[ええ、お久しぶりですね、硝子さん。元気ですよ]
[それはよかった。それで最近、ジョーカーくんとは調子どう?]
ジョーカーとは七芽くんのゲーム内での名前だ。
どうと言われても、私たちの関係は既に絶望的。順調もなにもない。既に終わりきってしまっていた。
そのことを思いだし、痛みで胸が締め付けられた。
私はもう……七芽くんには関われない。関わっちゃいけない。
あれだけの酷いことをした。あれだけの裏切り方をした。
誰かに七芽くんを取られちゃうのは嫌だ。
ものすごく嫌だ。
でも、彼女なら……硝子さんなら、七芽くんのことを任せられる。
私と同じくらい七芽くんのことを想っていて、そして二人ともとても仲が良い。
それに硝子さんは、七芽くんが大好きな巨乳お姉さん。彼もきっと、くっつくのなら彼女の方が嬉しいに決まっている。
……と考えたが、それはそれで、なんかむかついた。
ここいない彼に対しての理不尽な怒りを押さえつつ、私は両手を使って、真面目に文章画面に打ち込んでいく。
本当に硝子さんが目の前にいて話すようにして、真剣にその内容を書き込んでいく。
[硝子さん、私と七芽くんの関係はもう終わりました。原因は全部、私の所為です。だからこれはお願いです。どうか七芽くんを幸せにしてあげてください。七芽くんを守ってあげてください。前にも話したとおり、彼は私の命の恩人なんです。彼を任せられるとすればあなたしかいません。だから]
そこで手が止まった。
書かなくてはいけないのに、身体がそれを拒否する。
書き込んでしまえば、もう後戻りは出来ない。
本当に彼を手放してしまうことになってしまう。
それを考えると、再び目からこみ上げてくるものがあった。
でも押さなくてはいけないんだ。
彼のために。いつまでも私なんかにつなぎ止めないように。
そして、送信を押した。
[七芽くんと、付き合ってください]
これでもう、七芽くんは硝子さんのものだ。
もう私と七芽くんが築く未来はなくなってしまったんだ。
これでよかったんだ。本当によかった……。
「……ならなんで……なんでこんなにも悲しいの……っ」
頭では分かってる……もう彼とやり直せないって……そんなこと分かってる……っ!
でも次々に頭の中に広がるのは、彼と歩めるはずだったかもしれない未来の可能性。
もしもアイドルになんてならなければ、迎えていたはずの人生を。
アイドルにならなければ、きっと二人で水着を買いに行ったり、そのまま海やプールに行ったり、出かけたりしていただろう。
私がモデル業をやっている間、七芽くんは硝子さんのバイトに行き、私はその話を聞いて嫉妬し黒台風を発動させたかもしれない。
その後は、七芽くんと花火大会に行って、それで良い雰囲気になったりして、運が良ければ、もしかしたら彼と関係を持てたかもしれない。
その後はいつものように、刹那ちゃんを含めた三人でのお弁当を楽しんだり。
文化祭を一緒に回りながら、色々な出し物を見て回ったり。
クリスマスに二人で過ごしたりなんかしてみたり。
春になったら、彼や刹那ちゃんとクラスが一緒かを話し合ったり。
そんな楽しい時間を一杯消費して高校生活を過ごした後、一緒の大学なんかに進んだりして。同棲なんか始めちゃったりして、そして……結婚して私たちの子供が出来たりなんかして……そんな今までがあったかもしれないんだ。そんな未来があったかもしれないんだ。
それを私は自ら手放してしまった。
とても大切で、大事なものを私はこの手で……っ!
「いやだぁ……やだよぉ……っ!」
嫌だそんなの……!
七芽くんとこれからも一緒に過ごしたかった!
三人でもっと一緒にお弁当を食べたかった! 作ってあげたかった!
みんなで楽しい高校生活を過ごしたかった!
七芽くんに愛されて、愛したかった! 恋したかった!
なのに……なのに、私は……っ!
今だにメッセージは届いているが怖くて画面が見れない。
だってそれを見れば、本当に終わってしまう。決着がついてしまう。
「……っ!!」
……でも見なくちゃ駄目なんだ。だってこれは……私が受けるべき罪。大切な人を裏切った罰なんだから。
涙で視界が歪む目を擦り、私は覚悟をしてスマートフォンを見た。
硝子さんから返ってきた返事は――、
[嫌に決まってるだろ]
「っ!? なんでっ……!?」
いつもの彼女とは思えないくらいの強い口調に、私は困惑を隠せない。
何故だ?
彼女は七芽くんのことが好きだったんじゃないのか?
疑問に思う私を見かねたように、またメッセージが飛んできた。
[て、前にジョーカーくんに告白したときに断られたの。あんたみたいな駄目駄目お姉さんなんか願い下げだて言われて]
「そんな……硝子さんは……既に七芽くんに告白してたの……?」
なのに七芽くんは彼女を振った。
この事実に、私は密かに胸が高鳴った気がした。
駄目だ……期待なんかしちゃだめなのに……。
[もちろんわたしも全然諦めてないよ? 七芽くんは絶対にわたしが手に入れてみせる。あなたにとっては白馬の王子様かもしれないけど、わたしにとってライフラインそのものなんだから]
「あの人は……七芽くんから話は聞いてたけど、想像以上の駄目人間すぎるよ……」
[それと結香ちゃん、ちょっと視野がせまいんじゃないかな? ライバルはわたし以外にも、もっと近くにいるかもしれないよ?]
近く? 一体誰の話だろうか?
例の相方のことを言っている訳ではないだろうし、一体他に誰が七芽くんを……?
もしかして刹那ちゃん? いや、まさか。
[まあ、その話は問題が解決した後にするとして。結香ちゃん、今からあなたには、とても迷惑で嫌なことが起こると思う]
「迷惑で嫌なこと……?」
今以上に嫌なことなど他にはない気がするが、それ以上に嫌なこととは、一体なんのことを指しているのだろうか。
硝子さんは人に嫌がらせをするような人でないことは知っているが、一体何を……。
[でもそれは、あなたが蒔いた種なんだから、しっかりと覚悟して受け止めなくちゃいけないよ]
「だから……一体何のことを言って――っ!」
「よう、結香――久しぶりだな」
「!?」
そんな……嘘だ……。
だって彼が……ここ場所にいるはずがない……。
ここは事務所が管理する宿泊も兼ねた、トレーニング専用の施設。
部外者の入場は出来ず、おまけにもうすぐ夜の十時を迎える。
どう考えても、部外者で関係のない彼がいるはずないんだ……!!
それでも私は……期待してしまう。
そして同時に、もし彼だったらと思うと、恐怖で身体が固まってしまう。
私は彼に、取り返しも付かない酷いことをしてしまった。もし、今私の後ろにいるのが彼なんだとしたら、私は……一体どんな顔を彼に向ければいいのか分からない。
でも……それでも……振り向かないなんてこと、出来るはずがない!
身体ごと回転させると、そこに立っていたのは――、
「ななめ……くん……っ」
「よう。お互い、えらくボロボロだな」
「なんでどうして……」
「ああ、まあ色々と聞きたいことはあるんだろけどさ、これだけは言わせてくれ」
七芽くんの言葉に連動するかのように、スマートフォンがメッセージを受信して震えた。
メッセージは、まるで七芽くんの言葉にリンクするかのように、送られくる。
まるでお互いに心が通じ合っているかのように。
[覚悟した方がいいよ、結香ちゃん。だって今のジョーカーくんは――]
「結香。僕はお前に、僕の全てを課金する――」
[――廃課金兵状態なんだから]
七芽くんは、下手くそな企み顔で、私に笑ってみせた。
よし、間に合った!
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