猜疑心の熟成方法
『今日は予定があるから会えない』
そんなメールが来たのは午後の講義が終わった十六時頃だった。
信治は先週から決めていた約束を当日に反故にされてむっとした。
友紀と交際を始めたのは半年ほど前から。友紀に一目惚れした信治が猛アタックをして、一度振られたにも関わらず二度三度と告白を繰り返し、結果的に友紀が根負けして交際がスタートした。
最初は好意も薄かった友紀だが、一緒に過ごすうちに信治のことを好きになっていった――と思っていたのは勘違いだったのだろうか。信治はため息を漏らす。
いや、そんなことはないだろう。本当にたまたま急用が入ったに違いない。信治はそう思い直した。つい先日、一向にキスから先に進めないもどかしさから、友紀との共通の友人である佐織に聞いたばかりだ。
佐織は友紀のことを「今は信治にベタ惚れだって。でもさ、あの子付き合うのってあんたが初めてだし、どっちかって言うと淡泊っていうか、たぶんそういう欲求が薄いんじゃないかな。だからまあ、気長に待ってあげなよ」と言われていた。
友人の言葉だけに、そんなものかと納得したのを覚えている。もちろん信治は友紀が大事だ。二十歳という年相応に性欲もあるが、だからといって友紀に無理強いはしたくなかった。
「――つっても、もう二週間も会ってないんだけどな」
二週間前、学食で一緒に昼食を食べたきり、お互いに勉強やアルバイトが忙しくて会う暇がなかった。それもあっての今日だったのだ。男友達からは二十歳にもなってやらせてくれない彼女なんて作るお前が悪い、だなんて言われたこともある。そんなときは決まって「ほっとけ」と小突いてやった。
友紀を好きな気持ちは本物だ。それだけは誓って言える。
信治はメールに返信しようとしたが、それよりも前にまたメールがあった。友紀からだ。急用が入ったことの詫びだろうかと思ったが、メールを見て驚いた。
『今日、信治と会う予定だったんだけど、会いたくないから佐織の相談に乗るってことで口裏合わせてくれないかな?』
何度もメールを読み返して、最初の驚きは怒りになった。すぐに返信しようとして「どういうこと?」と打って消し、今度は「最低だな」と打って消した。何度も書いては消してを繰り返して、いっそ冷静になった。
暇になってしまったな、と喫煙所で小一時間タバコを吹かしてみる。好きな彼女に嘘をつかれたことが心底悲しくなった。何かひどいことを言っただろうか、悪いことをしただろうかと考えても心当たりがない。せいぜい昨日のメールの返事が遅くなったくらい。そんなことで怒るほど友紀は子どもでもないし、筆がまめな方でもなかった。
「じゃあ、どうして……」
信治は友紀ではなく佐織に電話をした。
佐織はすぐに出た。
『あー、もしもし』
その声色を聞いて、信治は何かに気づいた。もう何を聞かれるかわかっているような、面倒ごとに巻き込まれた鬱陶しさがにじんでいるように聞こえた。
信治はため息をついて尋ねた。
「もしかして友紀からもう連絡あった?」
『……間違えて送ったのも大問題だけど、信治が何も反応しないから激怒してると思ってるみたい』
「なんじゃそりゃ」
かえって呆れた信治だった。
『うちもさすがにそれはないって叱っといた。ちゃんと謝れって言っておいた』
「ひとつ聞いていいか?」
『なあに?』
「友紀は俺のことがもう嫌いになったのか?」
佐織はしばらく沈黙して、投げやりな態度で言った。
『自分で聞きなよ』
「俺の他に誰か好きなやつができたとか? 今日はもしかしてそいつとデートの約束とか?」
『だーかーら! 自分で聞きなって。うちは知らないんだから。あんなメール来て難しいのはわかるけど、少しは信じてあげなよ』
「それ、自分がされても言えるか?」
『うちも無理なことわかってて言ってるの。要は友紀が馬鹿ってだけ。あんた友紀が好きなんでしょ? まあ、かわいい彼女がヘマやらかしたぐらいに思って許してあげなよ。男でしょ?』
都合のいい話だと思った。けれども信治は「わかった」と言って電話を切った。
つい一時間ほど前までは友紀のことが頭でいっぱいで、今日会えなくなったことが寂しくてたまらなかったのに、今ではひどく冷めた気分だった。かといって攻めたてる気にもならなかった。真意を聞いて、それでダメならそれまでだと思った。
信治は友紀に返信した。
『D棟裏のベンチ、十八時十分に』
それだけ。何も聞かず、待ち合わせをしようとも書かなかった。これで伝わるだろうと思った。
信治はそれきりスマホの電源を切った。
*
一人でベンチに座っていると色んなことを思い出した。
高校生のときに交際していた女の子は、友紀とは違ってべたべたと甘えてくるタイプだった。信治は彼女が甘えるのを許していたし、できる限り望みを叶えてあげたつもりだ。彼女が欲しいプレゼントを買うために禁止されていたアルバイトだってした。その見返りは彼女の喜びようを見れば十分だった。まさか前置きもなく唐突に振られるとは思いもしなかったが。
彼女は信治が受験勉強で忙しく会えなかった時間で、同じ就職組の男子生徒とできていた。
信治は彼女を攻めなかった。会いたいと言っているのに会う時間を割けなかった自分が悪かったのだろうと思った。
けれど、思い返せばせっかく取れた時間を不意にされたこともあった。あのときすでに浮気していたのだろうと思うと、なんだかやるせない気分になった。他に好きな男ができたなら、先に別れるのが筋だろうと当然のことを思ったのを覚えている。
「友紀はそんなことないと思ってたんだけどな」
腕時計を確認すると十八時ちょうど。D棟の裏口から学生がぞろぞろと出て行くのが見えた。友紀は今日最後の講義がD棟だったはずだ。だからこの場所を選んだ。
少し待っていると、友紀が裏口から出てきてまっすぐこちらにやってきた。神妙な顔をしていて、忘れていた怒りがこみ上げた。
信治が自分の隣をぽんと叩いて座るように促すと、友紀は黙って腰を下ろした。
しばらくの沈黙があって、信治はしびれを切らす。
「弁明は?」
ただ一言。それ以上聞いたら声を荒げてしまいそうだった。
友紀は薄ら笑いを浮かべて俯いた。
「何がおかしいの?」
おかしくて笑っているわけではないのだろう。友紀が信治の腕をとろうとしたのですぐに振り払った。なあなあで済まそうとする態度に苛立ちが増した。
「まず何か言うことあるんじゃないの?」
今度は笑わなかった。
ややあって、友紀はか細い声で「ごめんなさい」と謝った。
信治は尋ねる。
「俺のこと嫌いになった?」
友紀は首を横に振った。
「他に好きな男でもできた? 現在進行形で二股してるとか?」
また友紀は首を振る。
信治は盛大なため息をついた。
「なんで嘘ついたの? 俺と会いたくなかったみたいだけどなんで? どうして先週から約束していたのにいきなり反故にしようとしたの? そういう気分じゃなくなったらそう言えばよかったよね? 挙げ句下手くそな嘘つくために関係ない佐織まで巻き込んで、一体何がしたかったの?」
淡々と、信治は湧き上がる怒りを抑えるように矢継ぎ早に尋ねた。
しかし、友紀は黙り込んでいるだけだ。
「なんとか言いなよ。嫌いになったなら嫌いになったで別にいいから。はっきりしようよ。神妙な顔して俯いてても、じゃああのメールはなかったことにしようだなんて言わないよ? そんな都合のいい話あるわけないじゃん。なあ、顔あげろよ。なんで自分が被害者みたいな顔してるわけ?」
それでもなお俯いたままの友紀に信治は怒りを抑えられなくなった。
「そういうポーズだけ取られてもこっちは腹立つだけなんだよ! 言いたいことがあるならはっきり言え。言いにくいことならなおさらごまかそうとせずにはっきり言えよ。なんでそこで黙るんだよ! お前が撒いた種だろうが!」
友紀を好きな気持ちは変わらない。言いにくいことがあって黙っていたいという気持ちがあるなら、それでもいい。わざわざ聞こうとも思わない。けれど、それのために嘘をつかれたならきちんと説明して欲しかった。
「なんでも逐一報告しろなんて言ったか? あれするなこれするなって言ったか? 俺はお前が誰と遊びに行こうと黙ってたよな? お前がやろうとしてることに何も文句言わなかったよな? 一度も束縛なんてしたことなかったよな?」
友紀がこくりと頷くのを見て、信治はさらに続けた。
「俺がお前と向き合おうとしてるのに、なんでお前はこっちを向かないんだよ。どうしてそんな被害者面で神妙に頭下げてんだよ! 違うだろ!? 俺はお前の彼氏じゃねえのかよ!」
ちらりと友紀が視線だけ信治に向けた。彼女は呟くように「ごめんなさい」と再度言った。
「謝って欲しいわけじゃないんだよ! もう知るか!」
怒りを露わにして、信治は立ち上がる。
わざわざ好きになった相手を疑うなんてしたくない。猜疑心を向けたくない。
けれど、黙っているだけでは何もわからない。沈黙は肯定としか思えなかった。
友紀に腕を捕まれて、信治はきっと睨みつけた。けれど、彼女が泣いているのを見て、毒気を抜きそうになり、すぐに冷静になって、逆に怒りが増した。それでも幾分か冷静さを取り戻してまた座り直す。
「……なんで今日会いたくなかったんだよ」
最初よりもずっと穏やかな口調だったと思う。
友紀は少しホッとしたように答えた。
「なんか、そういう気分じゃなかった」
信治は舌打ちをしそうになるのを堪えて尋ねる。
「それで、どうして嘘なんか?」
「気分じゃないからなんて言ったらノブくん怒るかなって……前から約束してたし、楽しみにしてる感じだったから」
そこまで考えていたならなんで断ろうとしたんだと内心で憤慨しつつ、信治はため息で逃がした。
「一人でいたい時もあるだろうし、別にそんなことで怒ったりしない。俺だってそういう時あるし、ちゃんと言ってくれればよかったんだ。最悪浮気してるのかと思った」
「ごめん、なさい。でも、浮気は絶対にしないから」
「俺たち付き合ってるんだろ? だったら変な気を遣うのやめよう。礼儀はいるけどさ、言いたいことあるのに変なポーズとって言ってくれないのはなんか……すっげえ腹立つ」
友紀は信治の手をとって俯いたまま頷いた。
不本意だ。きっと、お互いに不本意のままだ。
「それじゃあ、俺もう帰るから」
驚いたように友紀が顔を上げるので、信治は言った。
「だって、お前今日は俺に会いたくない気分だったんだろ?」
「それは……」
友紀が言い淀むのを見て、信治はゆっくりと立ち上がった。
このままやきもきした気分で一緒にいられるほど、信治は切り替えが得意ではなかった。
「俺な、実はめちゃくちゃ嫉妬深いし、言ってないだけで友紀が誰かと遊びに行くたびに浮気してるんじゃないかって疑ってしまうし、もしかして俺が遊ばれてるだけなんじゃないかってずっと思ってる」
「そんなことない」
「でも、束縛なんかしたくないから我慢してる。それで友紀に嫌われたくないから我慢してる。友達と一緒に遊びに行って楽しかったって色々話してくれるのが嬉しいから、友紀のこと信じて黙ってた」
もう今日嘘をつかれたことはどうでもいい。終わったことにしたい。
「このまま今日一緒にいたら、たぶんまた問い詰めたくなる。あれこれ文句つけたくなるから帰って頭冷やして寝る」
頭を冷やすのはお前の方だけどな、とまでは言わなかった。
このときの信治は、就職後に友紀が職場の仕事ができるイケメンと浮気をすることを知らないし、その後にメール一通で友紀から振られることもまだ知らない。