定理:フラフープの輪はあらゆる直線を覆い隠すことができる。
数学をいつ使うのか。
数学をいつ使うのかと問うならば、少なくとも数学を知っていなければならない。
その反論として、医者自身が病にかからずとも症状を知ることができるように、数学を知らない人間が数学を使っている人間の様を観察して何をしているのかある程度は理解することはできる。
やはり問い自体は愚かとは言い切れない。愚かなのはわからないからと切り捨てる姿勢だと思う。
単純な数式、その写像は自在に曲がる定規のよう
機は熟した。
言葉にはしていないが心のなかでそう思った。幼少から馴染み深い疑問と対峙できる時が来たのだ。
かつての僕の疑問は遠近法のことに尽きた。(遠近法とは平面に描かれる絵画に奥行きをもたせるために編み出される手法のこと)僕が遠近法に馴染み深さを感じているのは、よく絵を描くからというだけではない。僕にとって遠近法は、ある僕自身の自慢話とともにアイデンティティの一部だからだ。
小学1年生のときのこと。学校の遠足でアンデルセン公園に行った翌日の図画工作の時限。学年全員で遠足の思い出を描いた。描かれた絵は廊下に長々と展示され、ある機会で親たちの目に触れた。そのとき、何人かの親御さんに僕の絵がひときわ上手だったと褒めてもらえたことがあった。理由は絵の具の使い方が上手だったとか、デッサンとして技術が高かったからではない。廊下に並んだ約90作品の中で、ただ一つ僕の絵だけに奥行きがあったからだ。これが自慢話だが、僕が感覚でそれを成してしまう絵画の天才だったということではない。いつのときか、遠足の日より前に父親が見せた子供向けの本で大小遠近法の知恵を誰よりも早く得ていただけのことだった。
それだけのことを、なにより鮮明に覚えている。本に描かれていたイラストを10年ほどたった今でさえもよく記憶している。それだけ幼少の僕にとって先人の知恵はインパクトがあり、やがて馴染み深いものとなった。
高校2年生の冬。あの7歳の日から、恐竜や宇宙への興味に始まり物理や数学に興味をもった少年時代を経て僕は理系の道を志す学生になった。
機は熟していた。小学4年生のとき数学が苦手だったド文系の母に
「数学は進めば進むほど使えるツールが増えるから楽になるんだよ。」
などと、ほとんど読んだ本の引用のような講釈をたれていた僕だったが、それをまさに実感していた。
そんなあるとき、ふと思い出したように僕は遠近法について考え始めた。
最初は数式など使う気はなかった。絵を描くために遠近感の性質をよく考えて理解しようとしただけだった。だがもはや性分のようなものだ。気がついたら僕は球体の絵をノートに描きながら数式を解きはじめていた。
閑話
定理:フラフープの輪はあらゆる直線を覆い隠すことができる。
家にフラフープがある家庭はあまり多くないと思うがあったら実験してみてほしい。
やり方は、フラフープの円の中心に片方の眼球を位置させる。そしてその目だけを開いて次のことが可能かどうか試してみる。
タンスの角やフローリングの溝など身の回りのさまざまな直線にフラフープの輪を重ねることができるか。
閑話休題
冬の期末試験の最中、僕は試験勉強をそっちのけにして考え抜いた末にある数式を導いた。冒頭のメモ用紙に書かれた数式である。小さな発明だったが、なにかを完成させたという点で少し大人になったと思った。
数式をグラフで表すと上図のようになる。ちょうどパノラマ写真の歪み具合と似ている。数式を詳しくは調べていないが、おそらくパノラマ写真と同じカーブを描いていているとみている。少し工夫をしたことによって直線だけでなく円などの曲線の歪みまでも表現することができるようになった。
これをなぞれば正確なパノラマの絵を描くことが容易である。
すなわち、数式の写像は自在に曲がる定規だった。
数学で感動するとき詩的なことが頭に浮かんでしまう。数学は想像力を豊かにしてくれる。
僕はひとまず僕の幼い好奇心としばしの決着をつけ、日々の課題に戻った。
去年の冬にふとたどり着いた結論でした。
誰にはっきりと伝えるのでもなく自分の中にしまっていたものです。
ちょっとしたきっかけでネットに投稿してみようと思いました。
3D技術が発展した今では大した道具ではないですが、自分なりに完成させた1作品を常々考えていることといっしょにダイジェスト風に紹介してみました。