伍
「ありがとうございました」
雅はコンビニのアルバイトの最中、レジを済ませ店を出て行く客に向かって頭を下げる。
ふと、目の前の、ジュースやビールなどの飲料が並べられている冷蔵庫の上に掛けられているスクリーン状の時計を見る。
午後九時五〇分だった。
――そろそろ上がりだな。
雅はそう考えると、腰を手で押すようにストレッチをする。ここ一時間ほどレジをしていたので、足腰に痛みがあった。
「雅くん、ちょっといいかな?」
レジの横にあるタバコやクジなどの懸賞を保管する倉庫から、店長の声が聞こえ、雅はそちらを一瞥した。
「なんスか? 店長」
雅は店長のほうへと歩み寄る。薄暗い場所だったが、店長の胸にあるネームプレートには『水妹慶太』と記されていた。
「そろそろ上がりだが、すこし大丈夫かい?」
「別にこれといって用事はないッスけど」
雅がそう言うと、水妹は雅の方を見て――
「実は今度の選挙で知り合いが出馬するんだ。そこでアルバイトを募集していると僕の方からお願いがあってね」
と言った。
「それっていつの話ッスか?」
「うむ。今度の日曜日にその選挙があって、その手伝いをしてほしいんだが……なにか用事が入っているのか? 言いようによってはすこし色をつけてもいいのだが」
「あぁ別にそれはいいッスよ。ただその日はすこし野暮な用事がありまして」
雅は済みませんと頭を下げた。
「どうしても外せない用事なのかい?」
「ええ。どうも店長の話を聞いていると気乗りしないというのが本音ですけど」
これまで聞いた水妹の言葉に、雅は若干違和感を持っていた。
自分の年齢からして票を入れろという話ではないだろうとは思っていた。
しかし、水妹の話を聞いているうちになにか妙な気がしたのだ。
水妹は今度の日曜日に選挙があると言った。
本来、選挙に出馬する候補者の事務局員以外には金銭を渡してはいけないという法律がある。
雅はにわか知識ではあったが、そのことが頭の隅にあったので、誘いを断ったのである。
選挙会場にいるのはその町の役場職員であり、最初に来た投票の権利を持った人が、その投票箱になにも入っていないことを確認するが、それは受給ではなくボランティアでしかない。
そして水妹は『色をつける』と言った。これは明らかにお金が動くことを意味する。だから違和感があった。
雅は水妹が話している時、彼の体内磁力を見ていた。すこし、鼓動の磁力が早く見えたのだ。
「そうか、いや気にしないでくれ。今日はそろそろ上がってもいいよ」
「そうッスか? それじゃぁお疲れ様です店長」
雅は頭を下げるとその場を後にし、バックヤードにある更衣室へと去っていった。
それを目で追った水妹はタバコに火を点け、紫煙を吹かすと、携帯電話を取り出し、何処かへと電話をする。
「あぁ私だ。後のことは任せた――坂本曜生先生の勝利を願って」
「ただいま」
帰ってきた大宮が、疲れた表情で靴を脱ぎ始める。
「お帰りなさいパパさん」
大宮が帰ってきたことに気付いた湊が、リビングのドアから顔を覗かせるように言う。
「ただいま湊、ママさんは起きてるかい?」
大宮は腕時計を一瞥する。午後十時を回っていた。
「ママさんならまだ起きてて、リビングでくつろいでるよ」
「そうか。ところで今日はなんの御馳走だったんだい? 会議が忙しくて外食する暇もなかったからお腹がペコペコなんだ」
「えっとね……今日稲妻神社に行ってきたんだけど、その帰りに貰ってきた、瑠璃さんお手製の蕗と豚の甘辛煮でしょ。それから筍のお吸い物に……」
湊は顔を綻ばせながら説明する。
「ははは、そうとう美味しかったみたいだね」
「うん、瑠璃さんの料理は美味しいよ。でもママさんの料理の方がもっと美味しいから好き」
湊は笑みを浮かべると大宮の腕を引っ張る。
「落ち着きなさい湊。パパさんは逃げないから」
大宮は苦笑いを浮かべながら、湊とともにリビングの方へと入っていった。
テーブルの椅子に座ってお茶を飲んでいた皐月が、大宮と湊が入ってきたことに気づき、そちらを一瞥する。
「皐月さま、忠治さまがお帰りになられましたよ」
遊火がそう伝えたが、皐月は『それは聞かなくてもわかってる』というように目で訴える。
「遊火ちゃん、皐月にただいまと言ってくれないかい?」
大宮が遊火にそう伝える。
しかし、遊火が皐月に伝えるより先に、皐月は大宮の方に近づき、スーツを脱ぐような素振りを見せる。
それを見て、大宮は上着を渡して欲しいのだと察し、上着と鞄を皐月に渡した。
「…………」
皐月は遊火に声をかけ、自分は夫婦部屋の方へと消えていった。
「遊火、ママさんなんて言ってたの?」
「すこし待っていて欲しいと。それから忠治さま、さきほど上着を持った時にちょっと軽かったとも言っていましたが?」
「あぁ、携帯と財布を上着のポケットに入れていなかったから不思議に思ったんだろうね。そのふたつはズボンのポケットに入れていたんだ。後で説明しておいてくれるかい」
「了解しました」
そう会話をしていると、皐月がリビングに戻ってきた。
そして大宮を見ると、食事をするような素振りを見せる。
「あぁいただくよ。今日も美味しい料理みたいだしね」
大宮は遊火と皐月を見るように言うと、テーブルの椅子に座った。
「…………」
皐月は遊火に一言伝えると、自分はキッチンの方へと向かい、食事の準備に取り掛かった。
「湊さま、冷蔵庫に入っているビールを出して、パパさんにお酌くらいしてあげたらって皐月さまが云ってますけど?」
それを聞いて湊は怪訝な表情を見せる。
「別にそれは構わないけど、あたしまだ宿題しないといけないんだよ」
「そうか宿題をしていたのか。そのわりには……」
大宮は笑みこそ浮かべていたが、視線はテレビの前に置かれているVR用のゴーグルに向けられていた。そのゴーグルはすこしばかり乱れており、先程まで遊んでいた雰囲気がある。
それに気付いた湊はオドオドとした視線を大宮に向けてしまう。
「え、えっとね……パパさん。聖子おばちゃんが新しいRPG系のVRゲームを始めたって言っていたから、ちょっとクエストの手伝いを今までしていて――」
「ゲームをするなとは言わないけど、やらなきゃいけないことをおろそかにしていたら、かならず後悔することになるんだ。それはその時の自分から見ればちっぽけなことかもしれないけど、後になって大きな、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないんだよ」
大宮は、湊をジッと見つめ、優しく叱った。
「ごめんなさい。ちゃんと片付けて、部屋に戻ったら今日の宿題を終わらせるね」
湊はそう言うと、VRゴーグルをテレビ棚の近くに置いてある箱にしまうと、キッチンの冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。
「遊火、ママさんにコップ出してって伝えて」
そう口伝をお願いする前に、皐月はシンクの上にビール用の小さなコップを出していた。
「ありがとう。あぁいい匂い。また食べたくなってきた」
温めなおしている鍋に入った筍の吸い物から漂う匂いに鼻を擽られた湊は、口の中でよだれを分泌させる。
「…………」
皐月は遊火を自分の方へと呼びかける。
「湊さま、すこし食事をいたしますか? 夕食を済ませてから小腹が空いてもおかしくない時間だと、皐月さまがおっしゃっていますし」
「ううん、それは大丈夫。でも美味しいものって匂いだけでも満足しちゃうんだね。もちろん食べたらそれ以上だけど」
湊はビールの缶とコップを手に取り、大宮の方へと歩み寄った。
「パパさん、今日もお疲れさま」
そう言うと、ビールのプルタブを開け、コップに注ぐ。
泡とビールがちょうどいい割合に注がれている。
「お、いつもビールを注ぐのが上手いな」
「まぁね、瑠璃さんから小さい頃にビールの注ぎ方とか教えてもらってたから」
湊は自慢気に笑みを浮かべる。
「それじゃぁ、あたしは自分の部屋に行ってるね」
そう言うと、湊は席を外し、自分の部屋へと消えていった。
それと擦れ違うようにキッチンから皐月が姿を見せると、食事を大宮の目の前に並べる。
「おぉ、美味しいそうだ。――いただきます」
大宮は手を合わせて、ひとこと言うと、箸を右手に持ち、食事を始めた。
皐月は大宮の対面になるよう椅子に座り、彼の食事を見守った。
食事はゆっくりと、四十分ほどで済まされた。
その間にも夫婦水入らずの会話はされている。
ただし、皐月の耳に大宮の声は聞こえていないため、遊火が口伝する形で会話をする。
云ってしまえば、通訳を通して会話をしているため、お互いに感情的にならない。すこし考える暇ができているからだ。
「ふぅ……ごちそうさま」
大宮は手を合わせ、皐月に言った。その言葉は皐月には聞こえてはいない。そのことを大宮は理解している。
わかっているが、彼女の考えを聞きたかった。
「皐月にちょっと聞きたいことがあるんだけど……遊火ちゃん、こっちに来てくれるかい」
大宮は遊火にそう声をかける。遊火は人間の声が聞こえない皐月の耳代わりだ。言うなれば補聴器の代わりである。
大宮はお茶を一口飲むと、口火を切った。
「実は高山探偵事務所に調査依頼をしていた水妹慶太のことでわかったことがあったんだ。湊の入学式があった日に福嗣駅前のコンビニで強盗事件が遭ったことは、湊からのRineで聞いてはいると思う。その時に捕まった強盗犯の供述から、誰かに命令されていたようなんだよ。しかもその人質になった女性店員が――」
「『その時に人質となっていた女性店員も、もしかしたら協力者だった可能性がある』」
大宮の言葉を待たずに、遊火が声を発する。
遊火が大宮の話を、皐月にすこし遅れて伝えており、話の内容や流れから、皐月はそう考え、遊火に言ったのである。
「あぁ、僕や岡崎たちもその考えで進めている。その時人質となっていた女性店員――栗川真尋の身体に傷が少しもなかったんだ。強盗犯は拳銃を持っていたと多くの目撃者が証言している。それに犯人は何度か銃を虚空に、威嚇するように撃っているんだ。そうした拳銃の口は熱を帯びていてかなり熱い状態になっている。その状態で銃を身体に突きつけられていたとしたら、皮膚が火傷しているだろうけど、その痕もなかった。服の上からだったとしても、すこし皮膚が赤く、まるい痕になっているものだと思う」
「だけど、その事件と忠治さまたちが調べられていた事件の関係性はどうなんですか?」
遊火がそう訊ねると、大宮はすこし黙ってから、
「その店の店長が水妹慶太だったんだ。もちろん彼が、水槌杏子殺害を実行したという証拠がない以上、こちらも手が出せない。なにせ彼には事件当日海外にいたという決定的なアリバイがあるからね」
「やったという証拠がない。その強盗犯が口を割るとは思えませんね」
遊火の言葉を聞きながら、皐月は少し考えて、
「…………」
と口を動かした。
「遊火ちゃん、皐月はなんて言ったんだい?」
「『その事件と、今朝あった事件との関係性については』と申しております」
「身元不明の遺体のことかい。それと水妹慶太の事件と関係あるかどうかはまだわからない。だけど遺留品の中で妙なものがあったんだ」
「妙なものですか?」
遊火は怪訝な表情を見せる。その口調から皐月も同様の表情を浮かべた。
「あぁ、山登りに不向きなスニーカーを履いていたり、革ジャンを着ていたりしていておかしい格好だったんだよ。それに近くにプレハブ小屋があったみたいなんだが、今は使われていないんだ」
「なぜ被害者はそんな山の中をスニーカーや軽装で歩いていたんでしょうか?」
「…………」
皐月の言葉を聞いて、遊火は目を見開く。
「皐月さま、さすがにそれはないんじゃ?」
「遊火ちゃん、皐月はなんて」
「あ、あのですね。皐月さまは『もしかしたら自分から山の中に入ったんじゃなくて、誰かに連れて行かれたんじゃないか』って」
遊火を通して、皐月の口伝を聞いた大宮は険しい表情を浮かべる。
「たしかにその考えも否定はできない。いや否定ができないんだよ」
「どういうことですか?」
「遺体の損傷が激しくていつ殺されたのかというのが正直わからないんだ。だけど発見された財布から、福嗣高校に通っている羯磨英二だということはわかった。今日は岡崎やチームのみんなで彼のことを調べていたんだよ」
「あれ? でも今朝のニュースでは身元不明だって言ってましたよ?」
「それはあくまで朝の時までだ。夕方あたりからはこちらも被害者の名前を発表しているから名前の報道はされていると思うよ」
大宮はそこまで言うと皐月を一瞥した。皐月はまっすぐに、ジッと大宮を見ている。だがその目はどこか不安に満ちた目だった。
「そこで被害者が殺されるまでなにをしていたのかを調べていたら、彼と遊びで付き合っていた女子大生と話をすることができてね。彼女が言うからには発見された昨夜の午後九時に彼と別れたそうなんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください忠治さまっ? その時間に山に登るなんて、いくら科学が発達している今の世の中でも危険極まりない行為ですよ? 殺された少年がその山に詳しかったとしても、やっぱり時間的に、なんの用意もなしに山を登るというのは自殺行為じゃ?」
遊火が顔を蒼白にし、詰め寄るように言う。
「あぁ、それに羯磨英二が着ていた服から、彼は何者かに連れて行かれたことになる。しかも殺され方は違っても――水槌杏子と同じように、彼女を最後に見たという人の証言では夜以降の目撃証言がないんだよ」
「…………」
「『つまり、ふたつの事件に共通しているのは、目撃証言が夜までで、遺体が発見される前後の目撃証言がない』ということでしょうか?」
遊火は皐月の言葉を大宮に伝える。大宮は応えるようにうなずいてみせた。
「…………」
「『もうひとつ、これは忠治さまが水槌杏子の遺品だと思われるブラジャーにも繋がる』」
遊火は皐月の言葉を大宮に伝える。
「それだけなら水槌杏子は強姦に遭い、その際に殺されたという考えもあるけど、遺体の損傷は目とお腹だけで、殴られたという生傷がなかったんだ」
大宮は少し考え、こう述べた。
「水槌杏子の身体から眠気をうながす薬品の検出はされなかった。これは羯磨英二も同様の検視結果だ。つまり水槌杏子と羯磨英二は殺されるまで目を覚ましていたということになるんだ」