壱
本来は『(けものへん+田の下に隻)猿』と書く。
美濃の国(現在の岐阜県)の山奥に住むとされる妖怪。
猿のような見た目だが、身体は大きく、全身は青黒い毛で覆われている。
人間のように二本足で立ち、歩くことができたという。
人の言葉も理解し、さらに心も読めた。
雄しかいない妖怪で、自分たちで子どもを産み育てることが出来なかった。そのため里に下りては人間の女性をさらい、子どもを産ませたという。
別名:やまこ・黒ん坊
その遺留品が見つかったのは、今から三日前の、四月八日のことだった。
福嗣町からすこし離れた場所にある山中で、その遺留品が見つかっている。その近くに少女――見槻杏子の遺体が発見された。
その遺体にはなにも着せられておらず、彼女を殺した犯人は眼球を繰り抜いただけに飽きたらず、腹部を割いた状態で遺体を遺棄している。
警察はすぐに事件の捜査を開始すると、見槻杏子がある事件の被害者であったということがわかり、その事件の容疑者である水妹慶太に捜査のメスが入る。
警視庁捜査本部は水妹慶太を当事件において、任意の取り調べを行うこととした。
しかし、事件当日。つまり見槻杏子が殺されたとされる日(四月二日前後)、水妹慶太には都内にいたという証拠が見つかっておらず、また見槻杏子が行方不明になったとされる四月二日から三日までのあいだ、水妹慶太が海外にいたという証拠として、パスポートに出港のスタンプが押されていて、日本に戻ってきたのは四月九日のことであった。
「……以上のことから水妹慶太は証拠不十分として釈放されています。ただ妙な動きがないか監視として、わたしの夜叉を数人尾行させていますがね」
そう上司の警官に報告をしていたのは、十二神将の一人で、未神のアニラであった。
彼女は十年前まで警察庁にいたのだが、異動という形で警視庁福嗣署の刑事部に配属されている。
「被害者が湊と同級生だったことは」
「摩虎羅の話では、湊さんは見槻杏子と同級生だったことを認めていますが、春休みのあいだ、彼女に会ってはいないそうです」
それを聞くや、警察官は頭を抱える。
「大丈夫ですよ。娘さんは事件に巻き込まれてはいませんから」
「それだといいんだけど、なんか不安でしかたがないんだよ」
上司は苦笑いを浮かべる。
「一応遊火についてもらっているけど、彼女だと不安でしかたないしね」
「まぁ今後は毘羯羅や因達羅の夜叉も感付かれない程度に湊さんの警護をするでしょうし、彼女自らが事件に首を突っ込まなければ|大丈夫ですよ」
「それが不安なんだよ。なんというか彼女たちと一緒なんだろうね。もしかすると娘にも同じようなことが起きる気がして」
上司は目の前においてあったペットボトルのお茶を口にする。
「まぁその時はその時ですよ。大宮警部補」
アニラはそう言うと、頭を抱えている大宮の肩を優しく叩き、その場を後にした――。
「それにしても、妙な感じだな」
大宮にそう声をかけてきたのは同僚の岡崎であった。彼は去っていくアニラを一瞥しつつ、大宮のところへとやってくる。
「十年前にこっちに戻ってきたと思ったら、警部補に昇格してたんだからな」
「いや、僕からしたら、岡崎がまだこっちにいることのほうがビックリだよ。異動とかはなかったのかい?」
「いや、研修とかで他の部署に行くことはあったけどな――」
「まぁお前がいただけでもありがたいよ。戻ってきた時は阿弥陀警部や吉塚さん、佐々木刑事に西戸崎刑事もいなかったからちょっと心細かったんだ。みんな知らない顔だったからね」
「一種の浦島太郎ってか」
揶揄されたように言われたが、大宮は苦笑を見せるだけでなにも言い返さない。まさにそのとおりだったからだ。
「まぁ、西戸崎刑事は鹿児島の方に行ったらしいし、阿弥陀警部たちはまぁ……飽きたんだろうな」
阿弥陀如来の権化である阿弥陀警部。愛染明王の権化である吉塚愛。懸衣翁の権化である佐々木刑事はそれぞれ地獄の方へと帰依したのは、十五年前、つまり大宮が警視庁に戻ってくる五年前のことであった。
「その代わり、十二神将の皆さんは引き続き僕らを監視するみたいなことは言っていたけどね」
大宮は苦笑を浮かべながら、ペットボトルのお茶を飲み干した。
「ところで大宮……いや大宮警部補どの」
「大宮でいいよ。僕自身偉くなった覚えがないからね。ただ昇級試験を受けてそれに合格したようなものだし」
「いや上下関係はしっかりしておきましょう。それに警部補どのはチームのリーダーだ。同僚とはいえ俺がタメ口だと他の部下に面目が立たないでしょう。それで、高山探偵事務所に事件調査の依頼をしたのは」
「あぁ、水妹慶太が犯人である可能性は非常に高い。だが見槻杏子を殺したという証拠がないし、被害者が犯人と接点があったのは『Rine』というスマホの通話アプリだけだ」
「見つかった被害者の携帯は初期化されていて、彼女が連絡を取り合っていたのかという証拠がありませんでしたからね。彼女の友人たちも連絡を取っていたそうだが、ほとんど未読だったそうだ」
「摩虎羅さんに名前を偽って娘に近付いてもらったけど、無駄足だったか」
「いや警部補、こうは考えられませんか。大宮湊が見槻杏子と会っていなかった。つまりは彼女との接点はなかった。警部補の奥さんの癖を覚えてますか?」
岡崎にそう訊かれ、大宮はちいさくうなずく。
「自分に不利な事があると視線を逸らしてしまう。アニラさんからの報告だと、そういう素振りはなかったそうだ」
「なら……彼女は白だな。それに入学式の朝、上級生に絡まれている一年生を助けようとさえしたみたいだし」
それを聞くや、大宮は頭を抱える。
「そういうところもあの子と似てくると、ますますなにかあるんじゃないかって心配してしまう」
「まぁ、しかたがないのでは? 父親と曽祖父が警官なわけですから」
岡崎はクククと笑う。大宮はそれを見て、『悩み事』という名の頭痛を催した。