破
駅前にそびえ立っている巨大ビルの中心に付けられている液晶画面には『2034年4月10日(月曜日)』という文字が浮かび上がっている。
「さぁて、今日から入学式の学校が多いことでしょう。その日を祝うかのように、今日はポカポカの春日和です」
という気象予報士の声は喧騒とした人混みにかき消されていたため、誰も見向きはしなかった。
二車線道路では朝の渋滞ができていたが、電気自動車だったり、水素エンジンのためかその音は静かだった。
未来都市の予想図では、大抵が車が浮き上がって走っているなどと言われているが、それだとリニアモーターカーの原理で、地面にそれを浮かせるほどの磁力がなければいけない。
それを補うために周りの空気を吸い込み、車体の下へと吐き出すというホバリング(空中浮揚)技術はあったが、それが一般車に搭載され始めようとしていたのは今から十年前の、二〇二四年のことであった。ただ、まだ実験段階でしかなかったため、いまだに実用的とはいえなかった。
そして自動運転技術も発展しており、より運転がやりやすくなったが、それでも人の運転技術に依存している。
結局のところ、車というのは便利という反面、運転する人間の覚悟と技術に委ねるしかない。
ハサミと同様だ。便利な半面、使い方を間違えれば、人を殺しがねない凶器にほかならないのだから――。
『福嗣駅前……福嗣駅前……』
福嗣駅の前に設置されているバス停留所に、一台のバスがゆっくりと停止する。
そこから福嗣高校の制服を着た少年少女がうしろのドアから降りていく。
その中の一人に、母親譲りの、漆を塗ったかのような艶のある濡鴉色の長髪をうしろに束ねた少女がいた。
「初めてのバス通学、ご気分はいかがですか? 湊さま」
バスから降りた少女の頭上に、無数のちいさな火の玉が集まり、一人の、少女のような姿に変化する。
「ひ、人が周りにいる時に喋りかけないでよ。遊火……」
湊と呼ばれた少女は、キッと頭上に漂う鬼火の妖怪を見つめる。
遊火と呼ばれた妖怪は、すみませんと言うようにションボリとした表情を浮かべる。
「まさかあんなに満員になるなんて思わなかったよ。でも、ママさんたちから聞いてたとおりだね。なんだろ、ここだけ時間が止まったみたいに空気が美味しい」
湊は大きく深呼吸をする。春のここちよい暖かな空気が彼女の鼻腔をくすぐった。
「忘れ物はないですよね?」
遊火がそう訊ねると、湊は小さく笑みを浮かべながら、
「ちゃんと鞄持ってるし、今日は入学式だけだしね」
「学生証は持ってるんですか?」
「あぁそれも大丈夫。ちゃんと財布の中に――財布……」
湊は制服のポケットを探る。
――あれ?
と、湊は唖然とした表情を浮かべてしまう。
「えっ? あれ? なんで? ちゃんと朝出る時にはポケットの中に入れてたのにぃ?」
湊は、それこそポケットの布を出したが、財布は出てこなかった。
「バ、バスの中で落としたのかな?」
そう思いながら、湊はバス停を一瞥したが、自分が乗っていたバスはすでに発車しており、すでに見えないところまで走り去っていた。
「鞄の中は……?」
遊火がそう訊いた時だった。
「はい、忘れ物……。バスの中に落としていたわよ」
うしろから女性の声が聞こえ、湊と遊火はそちらへと振り返った。
そこには白いブレードハットを目深までかぶった白のワンピースを着た女性が立っており、その手には赤い財布が持たされていた。
「あっ! あたしの財布」
湊は女性にありがとうございますと言い、その財布を受け取ろうとしたが、女性はその財布を持って手を挙げた。
「な、なにをするんですか?」
「これがあなたの財布だっていう証拠はあるのかしら?」
女性からそう訊かれ、湊はすこしムッとする。
しかし女性の言い分はもっともだ。財布が誰のものなのかというのは、その中身を見るまではわからない。落とした財布がかならずしも自分のものではないし、女性が手に持っている財布はどこにでもある少女向けの折りたたみ式の財布だった。
「中身の確認をしていいかしら?」
「どうぞ。中に入っている学生証には証明写真が入ってますから、あたしの財布だってすぐにわかりますよ」
湊が片眉をしかめるように言う。
「ええ。そうでなければ、あなたに声をかけるなんてことしないものね……大宮湊さん――」
女性はそう言うと、湊の財布の中身を確認した。
「え……っ? あたしまだあなたに自分の名前を言った覚えが――」
湊がそのことを訊ねようとした時、女性は湊の財布の中を確認することなく、財布を彼女に放り渡した。
「わっ! ととと……」
湊はそれを慌てた表情でキャッチした。
「ごめんなさいね、悪戯なんてしてしまって。中身はすでに確認していてあなたのものだっていうのはわかっていたのよ。ただ自分の財布だと偽って盗ろうなんて人もいるからね」
「そうだとしても、私の財布という証拠だと思います」
湊はそう言うと、財布の裏を見せた。そこには梵字が刺繍されている。――地蔵菩薩の種子である『カ』の梵字であった。
「これがある以上、この財布はあたしのなんですよ」
湊はそう言うと、女性にちいさく頭を下げた。
「まぁ余計なことかもしれないけど、大事なものだったらポケットの中じゃなくて、鞄の中に入れておいたほうがいいわね」
「以後気をつけます。ところであなたのお名前は?」
湊がそう訊ねると、女性はゆっくりと笑みを浮かべた。
「私の名前は徒槻燈花。この近くの古ビルにある高山探偵事務所の助手をしています」
女性――徒槻燈花はポシェットから名刺入れを取り出し、湊に名刺を渡した。
「――珍しいですね。紙の名刺なんて」
「そうね。今じゃスマホで受け渡しをしているようだけど、私はこうやって直接のほうが渡したって気がしていいわ」
燈花は苦笑いを見せる。
「でも人の財布の中を見るなんて、探偵助手とはいえすこし無礼じゃないんですか?」
「そうね、ごめんなさい。でも中身が違っていたら訴えられるのは私の方になるのよ」
そう言われ、湊はたしかにと納得した。
この場合、落とした本人が悪いわけではなく、拾った人間が間違って違う人間に渡してしまうことがあるからだ。
「おいっ! なにをしてるっ!」
駅の方から男の怒鳴り声が聞こえ、湊と燈花はそちらへと一瞥した。
そこには福嗣高校の制服を着た、まだ中学生とも思える少年が、数人の上級生に絡まれていた。
「先輩に挨拶をするのは常識じゃろうがぁ?」
上級生の一人が、少年に睨みをきかせる。
「ひゃ、ひゃい、す、すみません先輩」
少年は必死の表情で頭を下げる。
「ここじゃぁ俺達に挨拶をするのが決まりなんじゃぁ、一年坊ならそれくらい知っとけやぁ、わりゃぁっ!」
「ご、ごめんなさいっ! 先輩方」
少年の顔は蒼白に染まっている。それを見ていた湊と遊火は上級生を蔑視するように見つめる。
「やっぱりここが田舎町だからかなぁ……?」
「まぁこの町が田舎だというのは認めざるを得ませんけど、でも二十年以上経っているというのに、人間というのは成長しないんでしょうかね」
湊は怪訝な表情で彼女を見た。見た目は二十代だったため、彼女の言葉に違和感があったからだ。
「まったく、お前学生証を取り出せ」
「は、はい……」
少年は制服のポケットから財布を取り出し、カード型の学生証を取り出し、上級生に渡す。学生証にはQRコードが載っており、それが証明証となっていた。
「ふん、道永流一か。クラスはまだ決まっていないようだな」
上級生は学生証を確認すると、それを道永に投げ渡す。
「おい道永、ちょっとコーラ買ってこい」
上級生が脅しとも取れる言い方で、道永のお腹を蹴りあげた。
「……っ!」
それを見ていた湊が、眉を上げ、止めに入ろうとしたのを燈花が止める。
「行ってどうするの?」
「決まってます。弱い者いじめをしてるのを目の前で見て、我慢できるほど人間ができてませんから」
湊は自分の腕を掴んでいる燈花を食って掛かる。
――こういうところも母親譲りと云えるのかしら……。
「その意気は敬意に値するわ。だけど周りを見て」
そう言われ、湊は周りを見渡した。道を歩いている人は皆、上級生に殴られようとしている道永のことを一瞥してはいたが、誰も助けようとはしなかった。
「これが当たり前なのよ。誰も助けようとしていないんじゃない。火の粉に当たって火傷しないようにしてるのよ」
燈花は湊を一瞥する。その湊は唇を震わせる。
「み、湊さま……」
「そんなの違う。誰かが……誰かが助けないと」
湊が燈花の手を振り払おうとした時だった。
「おーい、一年生。早くしないと入学式始まっちまうぞぉ」
そう叫ぶように現れた少年も、福嗣高校の制服を着ている。
「あぁ、なんじゃぁわれぇ」
上級生がその少年を一瞥する。
「あ、先輩たちも早くしないとダメッスよ。一年生のめでたい日なんスから、上級生はそれを祝ってやるのが礼儀ってもんじゃないッスか」
睨まれている少年は平然とした表情で上級生を見る。
「てめぇどこのクラスだぁ」
「オレッスか?」
少年は自分の顔を指さす。
「お前以外に誰がいるってんだぁ? いいから学生証見せろやぁ」
少年は言われた通り、ポケットから学生証を取り出し、上級生に渡した。
「ほう、桜野雅か……福嗣高校二年四組、出席番号3番――」
――3番? それだと普通は『あ行』か『か行』だと思うけど……
上級生たちとの会話を聴いていた湊が不思議そうにつぶやく。
「だけど、オレたちゃ三年だ。下級生が舐めたマネしてっと」
そう叫ぶや、上級生の一人が拳を振り上げ、桜野雅に襲いかかった。
「……っ! 危ないっ!」
湊が叫んだ時だった。
「わっ? わととと……っ?」
殴りかかった上級生がその拳を空振ってしまい、桜野雅の横を過ぎ去っていく。
「なにやってるんスか先輩。オレなにもしてないッスよ」
桜野雅は自分のうしろで転がっている上級生を見遣る。
「てめぇ、避けやかったな」
「避けてねぇッスよ。先輩が勝手に転んだんでしょさぁ」
桜野雅は両手を自分の顔の高さまで上げ、苦笑いを浮かべる。
「くそぉ、今度は逃げんじゃねぇぞ」
上級生がもう一度拳を振り上げ、桜野雅に殴りかかった。
……が、またしても上級生は桜野雅の横を、擦れ違うかたちで転がり込んでしまう。
「な、なんだぁ……?」
上級生は震えた表情を浮かべながら、桜野雅を見上げる。
「おめぇ、いったいなにをしやがった?」
「ですから、なにもしてませんって、先輩が勝手に転んでるだけでしょ?」
桜野雅はゆっくりと上級生を見る。
「おいお前たちっ! なにをしている」
登校が遅くなっている生徒がいないかを見回りに来ていた福嗣高校の教師が、その姿を見せた。
「や、やべぇ……っ! 安永だっ! あいつに見つかると面倒になっちまう」
上級生の一人が、慌てた表情でその場を立ち去る。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
それを追いかけるように、残りの上級生たちも一目散に、学校の方へと去っていった。
「おい、大丈夫か」
桜野雅は、腰を抜かして座り込んでいる道永に手を差し伸べ、立ち上がらせる。
「あ、す、すみません。あの先輩って強いんですか?」
「んにゃぁ、ぜんぜん強くねぇよ。それより早くしねぇと遅刻しちまうぞ」
道永はビルの液晶時計を一瞥する。――8時を回っていた。
「そこの一年も、早くしないと遅刻するぞ」
桜野雅は湊を指さし、そう伝えるや、福嗣高校の方へと走っていく。
「ほら、彼の言う通り、早くしないとお母さんに怒られるわよ」
走り去っていく桜野雅の姿を呆然と見ていた湊に、燈花は声をかけた。
「そ、そうだった。急ごう遊火」
湊は慌てた表情でその場を走り去っていく。それからすこし遅れて道永も学校の方へと走っていった。