序
「はぁ……はぁ……」
大きな腹を抱えた二十歳前半の女性が、額に脂汗を吹かせ、苦痛に満ちた表情で、道無き道を走っていた。
止まれば殺される。緊迫した気配を背後に感じながら、女性は必死の思いだった。
「くぅきゃけぇかゃけけけぇっ!」
形状しがたい、奇怪なモノ……妖怪たちが女性を襲うように追いかけている。
「……っ! きゃっ?」
妖怪の一匹が鋭い爪で女性の背中を切り裂き、その痛みに耐え切れず、女性はその場に転んだ。
女性は視線を無数の妖怪たちに向ける。視界の空は暗闇に満ちていた。
「におう……臭うぞ……この女から……やつの――やつの血の臭いが――」
女性が振り替えるや、妖怪たちは口を大きく裂け、女性を喰らおうとする。
「――……っ」
女性はすんでのところでうしろへと飛び去り、妖怪たちとの間合いを広げる。その時、背中に痛みが走り、女性はその場に跪いた。
「くくく……我らを脅かす力も血を失えば――」
妖怪の一匹の言葉が絶った。
その妖怪の顔半分、顎の付け根に沿って切り裂かれていた。
「くぅく……」
その光景に妖怪たちは一瞬でたじろぎ、女性を見据える。
「伏雷の荒魂よ……目の前の邪気を祓いたまへ浄めたまへ」
女性の手には懐刀が握られており、その刃がギラリと光る。
「――っ!」
妖怪たちは一瞬、目の前の光景に喉を鳴らす。
一閃。鋭い雷の線が妖怪たちの身体を縦横無尽に走っていく。
そのあとには妖怪たちの阿鼻叫喚が響き渡る。
「落ち着けお前らぁ! 相手は女ひとりだっ!」
そう叫んだ妖怪の身体が縦一閃に切られ、左右に裂かれていく。
「くぅそぉっ! いい気になるなぁよ女ぁっ!」
女性の手を妖怪の一匹が捕まえ、自分の口へと無理矢理持っていく。
「――っ!」
女性はその手から抜けようとするが、
「おらぁっ!」
その大きなお腹に向かって、妖怪の一匹が殴りかかる。
「くっ!」
女性はすんでのところで妖怪の拳に沿うようにお腹を避けようとする。しかしそれを狙っていたように頭上から妖怪たちが降り注ぐように襲いかかる。
「くぅあぁああああっ!」
女性はうつ伏せになった形で地面に叩きつけられる。
「くぅけけけけっ! 鬼絶神子も堕ちたものだな――っ! 一瞬の心の迷いに付け込まれ……一生逃れぬ呪いにかかったのだから」
妖怪の言葉に、女性はちいさく笑みを浮かべる。
「くくく……なにもできぬことを認め、我々に喰らわれることを選ぶか……それもまた一興よ――」
女性を取り囲んでいた妖怪たちが一斉に女性に襲いかかる。
――ごめんね……あなたの子ども……護れなくて……。
女性はちいさく言葉を唱えようとしていた。――が、その言葉が力を発するよりも一瞬前に、女性の周りに冷たい風が吹き荒れ、妖怪たちを切り裂いていく。
「……っ!」
女性を覆いかぶさっていた妖怪たちもその風雪の刃に切り裂かれ、女性は自由の身になる。
「――っ」
女性は、なにが起きたのかわからなかった。
「な、なんだ? なにが起きたぁ?」
「風雪爪ッ!」
女性の目の前に、アイヌ特有の模様を施した忍装束をまとった少女が姿を見せ、妖怪たちを見据える。彼女の周りには冷たく鋭い風が舞っていた。
「な、なんだぁ? てめぇいったいなにもんだぁ?」
少女の目の前にいた妖怪がそう訊ねる。
「答えるのは別にいいですけど……」
少女が眉を潜める。妖怪はその仕草に首をかしげてしまう。
「どうした? 恐れをなして足が竦んだか?」
その言葉に、少女は大きくためいきをつく。
「答えられないんじゃなくて、答えても聞こえないでしょ」
妖怪は、うしろから聞こえた声を聞いた瞬間、自身の身体が切り裂かれたことを知る。
そこには青と白の巫女装束をまとった少女が長刀を振るい、周りの妖怪たちを見渡す。その少女に怯みながらも、妖怪たちが一斉に襲いかかった。
「一刀・番魅月」
少女は構えた長剣を下から振り上げる。その一閃は直線上に立っていた妖怪たちを一掃していく。
しかし妖怪たちの数は減る気配がなく、増す一方だった。
「さすがにこの量はキツイわね。まぁちょっと悪戯が過ぎてるだけの弱い妖怪みたいだし、お仕置きしないといけないけど」
青と白の巫女装束の少女は、自分たちよりすこし離れた場所に立っている、赤と白の巫女装束をまとった少女に視線を向ける。
その少女は目を瞑っており、彼女を襲おうとしている妖怪たちはしめたと言わんばかりに顔をほころばせ、鋭い爪を振り下ろした。
「っ! 危ないっ!」
女性は悲鳴をあげる。しかし自分の近くにいる、その少女と同じくらいの、二人の少女は助けようとしない。
その態度が、女性には疑問に思えて仕方なかった。
「大丈夫ですよ。あれくらい……朝飯前にもなりませんから」
忍装束の少女が小さく笑みを浮かべる。
女性は赤と白の巫女装束をまとった少女をジッと見るや、喉を鳴らさずをえなかった。
赤と白の巫女装束の少女の周りに……底知れぬ闇を感じたのだ。
妖怪たちはそれに気付かない。いや気付けない。
人間が周りにいる神仏に気付かないのは、神仏が自然と一体となって見守っているのと同様に、少女の足元から煽れている妖気は、妖怪たちからしてみれば、空気に混ざった水素と同様に、その冥闇に気付かない――気付けないのだ。
「二刀・求塚………………」
少女は短刀・長刀の二刀の柄を重ね、長刀の鋒を地面に突き刺す。
すると蜘蛛の糸の如く放射線状に地面が避け、そこから圧縮された水の刃が吹き上がり、少女を中心に、半径五百メートルまで広がった。
その半径は、女性を襲っていた妖怪の群れを喰らうには十分すぎる範囲だった。
「くぅそぉっ!」
その水の刃に切り裂かれていく妖怪が、女性を睨んだ。
「覚えていろっ! 大竹鈴歌よ……っ! 貴様が侵した罪はぁ、一生逃れることは出来ぬぅっ! その赤子は……間引かれねばならぬぅぅぅううぅうっ!」
最後の一匹の声が絶たれ、周りには紫色の、星空が広がっていた。
「お疲れさま……――」
青と白の巫女装束の少女が、赤と白の巫女装束の少女へと歩み寄る。
「それにしても、いったいなんだったのかしらあの妖怪たち」
青と白の巫女装束の少女は首をかしげ、女性に視線を向ける。
「あの妖怪たち、彼女を襲おうとしてたけど、いったい……――?」
忍装束の少女が、大竹鈴歌に歩みよっていた赤と白の巫女装束の少女に声をかける。
「大丈夫ですか? 大竹鈴歌さん――」
赤と白の巫女装束をまとった少女が、体勢を整えようとしていた大竹鈴歌に手を差し伸べる。
「あ、あなたたち……いったい……」
大竹鈴歌はジッと三人の少女を見据える。
「ただの通りすがりの執行人です。それより……そのお腹の子ども――」
赤と白の巫女装束の少女はジッと大竹鈴歌のお腹を見据える。
「は、ははは……どうせあなたたちも、あの妖怪たちと一緒で、この子を殺すつもりなんでしょ? いいわ……私はもう……」
大竹鈴歌はジッと目の前の、赤と白の巫女装束の少女を見る。
しかし少女は大竹鈴歌に向かって笑みを浮かべている。
「もし……もしその子が私たちに害あるものだったとしても、私はなにもしませんから――」
少女の言葉に、大竹鈴歌は唖然とする。
大竹鈴歌の胎内に眠る子どもは、彼女自身も危険だと勘付いていた。だが、目の前の少女はあっけらかんとした笑みでそう言ったのだ。
「あなたが必死になって守ろうとしている命なら、私たちはなにもしません。そしてその子がいつか私たちの目の前に現れるのなら、私たちはただ正しい道に導いてあげるだけです」
少女はそう言い残すや、ゆっくりと踵を返し、大竹鈴歌から離れていく。その少女を後の二人が追いかけた。
「本当にいいの? もしかしたら、わたしたちが想像しているよりも強いかもしれないわよ」
青と白の巫女装束の少女が、あきれた表情で赤と白の巫女装束の少女に言う。
「大丈夫。あとは彼女がいい子に育ててくれると思う」
「いつもみたいに、なんとなくそう思うだけ?」
忍装束の少女が苦笑いを浮かべるように言う。
「そうだけど、不満?」
「はははっ……、――らしいわ。でもわたしもそう思う。あの人からは悪い臭いなんてしなかった。お互いを信じあって、愛し合って生まれた子どもなら、わたしも彼女ならちゃんと育ててくれると思う。だけどもしその子が悪いことをしようものなら、ちゃんと叱ってあげるのが大人の役目だものね」
「クアニもそう思うし、そう思いたいな」
三人の少女は姦しい笑い声を残しながら、大竹鈴歌の視界から消えていく。
大竹鈴歌は少女たちの言葉に、赤と白の巫女装束の少女に驚きと感謝を述べた。
……ありがとう。私もこの子を守りたい、この子を産みたい。それがあの人との約束だから……――
と…………。
それから三ヶ月後に俺が生まれたらしい。
これは母さんが俺を産む、すこし前に体験した奇妙な出来事だった。