第一話 本能寺の変
時は天正10年6月2日早朝の事である。
一つの大きな寺を大軍が包囲していた。
「大殿―!大殿!!」
寺の廊下をまだ若い男が駆ける。
「なんじゃ蘭丸、騒々しい」
睡眠を妨げられた殿と呼ばれた男は不機嫌そうに目を覚ました。
「敵襲に御座います!!」
その瞬間男の目が変わった。
「して、旗は?」
動じることなく問うた。
「・・・桔梗に御座います」
「・・・光秀か」
男はそう言うとフッと笑った。
蘭丸と呼ばれた若者はその意味を理解出来なかった。
「光秀ほどの者が隙を作るとは思えぬ」
その言葉で蘭丸も主の笑顔を理解した。
蘭丸は聡明な青年だった、主君からその実力を認められ側に置かれ教育を受けた。
その主君の名は織田信長。
戦国の覇王としてまさに天下をその手中に収めようとしていた人物だった。
そして今それを取り囲んでいる軍勢の主は明智光秀、その信長の腹心で正にこれは謀叛以外のなにものでも無かった。
「是非もなし!」
信長はすくっと立ち上がり片手に弓を持った。
こうして明智の軍勢1万3千人対信長の手勢30人の戦いが始まる事となった。
後に言う「本能寺の変」である。
信長は弓を放ち、その弦が切れると槍を手に応戦。
蘭丸も信長を守ろうと必死に戦った。
しかし所詮は多勢に無勢、信長の家臣は次々と討ち死に、その中には蘭丸の弟で同じく小姓として信長に仕えていた坊丸や力丸も含まれていた。
信長も傷を負うと蘭丸を呼び奥の部屋に閉じこもった。
部屋に閉じこもるなり、建物に火をかける信長。
「これで幾ばくかの時間が出来るわ」
「くっ・・・無念でございます」
涙を流す蘭丸に信長が語りかける。
「蘭丸よ、儂が昔にした曹操の話しは覚えておるか?」
信長はこんな時なのに笑顔だった。
その笑顔に蘭丸も少し心を鎮める事が出来た。
「はい・・・たしか、もし曹操の配下に劉備、関羽、張飛、孔明が加わっていたならとのお話しでございましたね」
蘭丸の正しい返答に満足そうに頷く信長、そして話しを付け加えた。
「うむ、そうなれば、かの国は曹操の一人勝ちよ、三国に分けるなどと意味の無い事をせずにな」
蘭丸は再び主君が何を言おうとしてるか分からなかった。
「それを何故いま?」
信長は話しを続ける。
「儂には劉備も関羽も張飛もいた」
その言葉に蘭丸は答えた。
「劉備が羽柴様、関羽が柴田様でございますか?」
信長は再びニヤリと笑った。
「張飛は分からんか?」
蘭丸は答えに詰まった。
「お教え・・・願えますか?」
「ふふふ、人は己の周りの事となると見えなくなるものだな・・・鬼武蔵よ」
蘭丸は驚いた、「鬼武蔵」それは正に自分の兄である森長可の事であったからだ。
「あ、兄者でございますか!?」
その驚いた顔に信長はしてやったり顔で話しを続けた。
「で、残るは孔明じゃが・・・残念ながら孔明にするにはちと時間が足りなかったな」
蘭丸はもはや自分の主君が何を考えているのか分からなかった。
「時間が足りなかったとは?誰が孔明になったのですか?」
信長は笑いを堪えながら一人の人物の名前を口にした。
「ふっ、くくく、森成利よ」
蘭丸は心底驚いた、たった今主が口にした名前、それは自分の名前だったからだ。
「せ、拙者でございますか!?」
「当たり前じゃ、何のために幼少の頃よりお前を近くに置き、教育してきたと思っておる」
「されど!!」
「儂の目に狂いは無い、お前は孔明になれる才を持っておる、それともお前は儂の目が節穴と申すか?」
「・・・いえ、大殿のご判断にいつも間違いはございませぬ」
その時、外で声が聞こえた、敵がすぐ傍まで迫っている証拠だ。
「蘭丸・・・いや成利よ、もう時間は無いようじゃ」
「・・・はい」
「実はな、この部屋には外に通じる抜け穴がある、お前はそこから落ち延びよ」
それは蘭丸には到底受け入れられないものだった。
「何を申されます!大殿こそ落ち延びられませ!拙者が時間を稼ぎます!!」
「ふっ、儂のこの足では無理じゃ」
蘭丸は改めてハッとした、信長の足は槍で貫かれ、おびただしい量の血が流れていた。
「で、では拙者もここに残りまする!!」
死地に主君を置いて一人だけ逃げるなど蘭丸の武士としての誇りが許さなかった。
「成利!!」
信長が怒鳴り、続けた。
「お前は織田の孔明になる人間ぞ!こんな所で命を落とす事は許さん!」
「されど!、それなら拙者が担いででも!!」
「光秀の事、恐らく信忠の所にも軍勢を送っておろう、成利よ、お前は信忠と合流して京を出るのじゃ、これは命令ぞ!」
その時に蘭丸は初めて気がついた、先程から主君が自分のことを「蘭丸」ではなく「成利」と呼んでいる事に、主君が自分を小姓ではなく一人の武将として扱っている事の現れだった。
「信忠は儂の覇道を受け継げる織田家唯一の男よ、ただ不幸なのは儂を父に持ってしまった事、信長の後を継ぐ・・・その重圧はこの先ずっと信忠にのしかかるであろう、あやつの事じゃ、この状況に潔く腹を切ると言いかねん、成利よ、信忠の力になってやってくれ」
「信長・・・様」
もはや蘭丸は涙を抑える事が出来なかった、世間からは冷酷な魔王が如き恐れられる信長。
しかし蘭丸にとって信長は誰よりも暖かい主君であったからだ。
「成利、これを持っていけ餞別じゃ」
そうして信長が放り投げたもの、それは茶器だった。
「これは・・・鶴霞!!このような高価な物を」
それは信長が所有していた茶器の中でも名器でその価値は一国と変わらないとも言われる物だった。
それを聞いた信長は大きく笑った。
「はははははっ!どうせこの火の中で消えるもの、全て持っていって貰いたいくらいじゃわ」
「・・・」
蘭丸はその現実に再び大粒の涙をこぼす。
信長はそれを見ることなく紙に筆を走らせていた。
「ああ、それとお前の名はたった今から長成じゃ、ほれこれも持っていけ」
信長が渡した紙には「森長成、我が名代」と共に信長の花押が書かれてあった。
それを見た蘭丸は信長の思いに覚悟を決め、涙を拭き姿勢を正し。
「この森長成、必ずや信忠様と共に天下布武を成し遂げてみせまする!」
頭を下げた、それを信長は満足そうに見ると。
「行け」
一言で命令した、いかにも信長らしい命令だった。
「はっ!!」
そして蘭丸は信長に指示され、畳を剥がし隠し通路の蓋を開け梯子を降りる。
通路を走っている最中に今来た道の奥から信長の声が聞こえて来た。
「人間五十年下天の・・・」
それを聞いた蘭丸は再び大粒の涙を溢すが、けしてその足を止める事は無かった。
主君の最後の命令を守る為に。
初めまして、羽盛 広野と申します、所々ツッコミどころもあるかと思いますが、何卒温かい目でご覧になっていただけると幸いです。