第五章
第五章
【1】
『…もうすぐだ…』
低い声が、真夜中の凍てつく空気の中を響いていく。誰もとおらないような、暗く寒気のする路地。一歩出れば明るいのに、そこだけまるで別の空間のように誰も気づくものがいないふと「彼」は空を見上げる。
彼は歪んだ笑みを浮かべる。
『もうすぐ、俺の願いが叶う』
空には、満月に近い月の光がもれている…。彼の足元には口から血を流して気をうしなっている女性が、倒れていた。何かの獣の牙のあとのように、四本の牙のあとから血が流れて赤い水たまりをつくっていた。
あるビルの一室に、なんでも解決してくれるという【香月事務所】があるという。
茶髪の少年は、部屋の前につくと、かるく深呼吸をしてからドアノブをまわして中にはいっていく。
『こちらは、牛島ビル前です。昨夜そこの社長が何者かにより、誘拐されるという事件が起こりましたが、早朝になって首から血をながして気を失っているのが発見されました』
テレビのレポーターは必死にその事件について伝えている。テレビ画面には、そのビルと画面の下に被害者の女性が映し出されている。
「…こんな事件だったら、絶対パス!」
青髪の少女は、窓際の自分のディスクから大きなダンボールを持ってテレビの前に移動する。背がそんなに高くないせいもあって、おとしそうになりながら足できように支えて床に置く。さりげなくこぼれた髪を耳にかけなおす。
「でも、こんな事件じゃないと依頼がこなさそう。怪しいじゃん…」
この部屋の中で一番広いディスクに座っている赤い髪を一本で結んでいる少女…奈津は、頬杖をつきながらだれる。
「『闇』が関わっていそうだからですか?」
声をかけると、少年の方をみて満面の笑みを浮かべる。
「竜牙君♪今日、休みじゃなかった?」
「呼び出されたんですよ」
「ここのところ、アレと同じ事件が続いているからね。警察は公表されていないけど、首には牙のあと。抵抗した形跡はいっさいみつからない。動物の毛どころか、いっさいの証拠があがってこない。ちょっと不気味よね」
「確かに…。今日までに四人」
「これ以上、犠牲者がふえないといいな」
奈津は視線を下に落とす。
「くいとめるために、わたしたちはここにいるんだから」
窓の外に視線をむければ、真っ白な雪がしんしんと降っている。
【2】
今まで恋愛は、楽しいものなのだと思い込んでいた。
ウキウキして、時に切なくもある。片思いは、告白して両思いになればそこで幸せになれると根拠もなく 想っていて、両思いになったあとの事は正直考えられずにいた。漠然と俺は恋に恋していて、誰かを愛するという方法すら知らなかった。
そうだな。誰かを好きになれば、誰かにとっては傷つけるという行為になるか もしれない。おさえきれなくなりそうな好きという感情が愛情に変わる一歩手前 の状態。自分が思う恋という感情と、相手を想う愛という感情。いったりきたりしていて、俺自身が自分の気持ちなのか…苦しい。
本当の気持ちだなんて言い きれないかもしれねぇーよな。自分の抱く感情がエゴなのか、それとも、喜んでもらえるものなのか。その判断はとても難しい。美化することもなく、自分で判断するなんてこと…できそうにない。こんな自分が時に子供だと実感させられる。
力づくで手に入れたくはない。でも、今の状態は…。
いっそのこと 、俺を奪ってほしい。誰かを傷つける前に、すべてを盗んでくれ。
自分の中に眠る黒く、何もいとわないという狂気で無邪気な冷酷の獣。目が覚まし、鎌首をもたれて獲物を見据える。
俺の願いは一つ。
たった一つだけ。かわりの誰かなんていらない。
それにしても、ここはどこだ?
【3】
「……」
長身の青年が、部屋の中から窓から見える景色を壁によりかかりながら見ている。窓の外は、強い風と黒い雲がたちこめていていつ雨がふりだしてもおかしくはない。長い黒髪の前髪の間からのぞいている狼のようなダークグリーンの瞳をすっと細めた。
口元を自嘲きみにつりあげて息を吐き出す。 脳裏に浮かぶ風景には、今まで出会った人物が映し出されて流れていく。
ある天使は、少女を愛して人間界に力をおとして堕ちる。
ある力は、専念に生きるということを欲して肉体という器をもらうかわりに記憶を持ち続けるという契約。
ある天使は、守るためといい命をさしだして人間の少女を救い。
ある人間は、守るための力を一人のヴァンパイヤーとのハーフの少年ために。
ある少女は、力を欲しがる者に殺される。
ある少女は、狂気に犯される前に自らの命を他の人につみとる。
ある青年は、自らの狂気に犯されて…。
どこからが、ゆがみのはじまりなのか。この連鎖はどこまで続くのか。何が間違いなのか。狂っていると、普通の人間ではない思考回路などだと言い切れるほどの人格の人などいるのだろうか。
靴音がして、視線をむければ心配そうな表情を浮かべている女性が立っている。眉をひそめて、すんだ瞳の色はきれいなアメジスト色。髪は暗がりに隠れ、ココ から見ることはできなかった。
出会った頃の彼女の瞳はこんな色ではない。 薄茶色の瞳をしていて、明るい大人の女性の雰囲気で、今のように触れたら壊れてしまいそうなアノ人のはかなさはなかった。
「神野…?」
「…ん」
「ううん、違う…シェ、ノ、ス…??」
昔の記憶をたどるように、遠い昔に初めて名前を呼んだあのときのようにたどたどしく唇からつむがれる本当の青年の名前。 呼ばれた青年は、首をたてにあさくふりこたえる。 嬉しそうに笑みを浮かべ、力をこめて ココに存在する事を確かめるように、女性は青年の首に手をまわしてだきつく。
「利江?」
彼女の頬から首筋に、冷たくて一瞬で体温にとけるあたたかい水滴が濡れる。
「…っ」
会いたい。 守ると誓った。大切な人さえ守れたら。大切な存在になれたら。 他には何も望まない。心の中で、他の人の存在を殺してしまわないように、生きる。 そのために力を欲した。そのための代償なんて、知らないままに。
そっとシェノスは女性の背中に手をまわす。おちつかせるように、優しく触れると彼女はゆっくりと口をひらいた。
「…ごめん」
ぽつりとこぼれた言葉は、ひどく痛かった。
「『忘れて』いて」
黙ってシェノスは、力をこめて抱き締める。 体温を感じるように。すがりつくかのように。言う言葉など何も出てこない。何年だろうが待つと、また会いたいからと、してきた事は彼女が望んだことだったのだろうか。
大切な想いを、覚えていない事が淋しくて胸をかすかにさす痛みを感じたことはある。
遠い昔の恋。今の利江にとって、昔の彼女は別人。この世で産まれる『前世』。
遠い昔のこと を覚えていないのは、あたりまえなのかもしれない。すべてを覚え続けていたら 、それは…。
「俺は、利江が好きだ。だから、忘れていていい」
胸をしめつける痛みがますばかりで、『生き続ける』ことは時に囚われて、『過去』に囚われやすくなる。
「?」
きょとんとした気配を彼女は浮かべる。
「痛みのともなう記憶なら、思い出さないでいてくれ。今の貴女が、好きだから」
守るために手に入れたい力は、今、一人の青年をまきこんだ。
青年は、きっとこれから自分のしようとしていることが何を示すのか知らない。手にした『黒竜の力』の意思が、自分の意思のように感じていてあやつられている。あやつられていることにすら気づかずに、青年は、人を殺しはじめ手を血に染める。
その先にあるのは、青年の望む光ではなくて『闇』。
狂っていると自覚しながら、『闇』をずっと抱えつづけなければならない。アレは、そういう『力』。彼をとめられるのは、きっと、痛みを知っているあの少年だけ。
欲しいと欲することの執着心の先に、手に入れたいという本当のものは手に入らない。その人のたしかに感じる身体のぬくもりだけが欲しいわけではない。その人の存在が欲しい。自己のエゴという欲と、そうでない想いの境界線は分かりづらい。
ゆがみやすいこの思いは、簡単なきっかけで崩れやすくなる。危うくて、狂気になりやすい痛みをともなうものならば、誰かがとめられる。失いたくない存在はいるから。
街には雪が降り始めていて、あわてて屋根の下に人々がかけこむ。
どこかぼんやりとした表情を浮かべて、一人の女子大生が雪をてのひらにのっけると、すぐにその雪は体温にとけてしまった。
冷たい感触がつたわり、すっと優しげに彼女は目を細める。茶髪のふんわりとしたショッートに、長い白いコートを着こなして背の高さもあり、まるでモデルのようなその人は、まわりを見渡す。
「…ひさしぶりに帰ってきたな」
弟にも親にも行き先をつけずに出ていってから、どのくらいたったのだろう。携帯をとりだして、電源をいれる。
ずっと電源を切っていた携帯電話に、メールと着信履歴を告げる表示がたくさん出てくる。あの頃の自分は、逃げなかったら壊れてしまいそうになっていたから。
届いたメールの送信者のところに、達也と名前が表示される。目を閉じれば、ある青年の姿が浮かぶ。いきなりのことで、どうしたらいいのか分からないという表情を浮かべていた。
「ア、アヤ?」
自分の名前を呼ばれて彼女は呼ばれたほうに振向いた。
「ひさし、ぶり」
どこかぎこちない笑顔を浮かべて、アヤは友人に振り向く。アヤを見ると青年は驚きに目をまるくして、表情が固まっている。彼が達也に抱いている気持ちは知っていた。本人が隠していたから、あえて気付かないフリをしていた。 会うのは、何年ぶりになるのだろうか。
頭痛が邪魔をして、うまく思い出せない。
「どこに行っていたんだ!アンタが行方不明になったあと、達也は酒に逃げて行方不明に…」
やりきれなくなって片手のこぶしで胸をつかみあげる。
「…っ」
どんっと力まかせではなく、もう一方の手を重くたたく。
「アンタは、何をしていたんだ?とめられるのは、アンタだけだったのに!」
苦痛に耐えるかのように、青年は眉をひそめて目を細める。傍にいた。冗談に隠した本音、気付いていながら話題にふれることはしなかった。アヤと達也が別れたあと、チャンスだと青年は思ったことがある。友人という立 場で傍にいた自分には、あまりにも彼のなかにある彼女の存在が大きすぎて、無 理なのだと苦笑を浮かべて頬に雫が伝う夜を何度むかえた。
無理に奪いたいわけじゃない。いっそのことこんな理性がなければいいと願ったこともある。一つ、思い止まったのは、彼が幸せになることを望んだから違うと思った。結果として傷つけてしまう、そんな気持ちのぶつけかたをしたいわけじゃない。
「…言いすぎた」
彼は顔をうつむかせているせいで、半分カゲがおりてどういう表情を浮かべているのか分からない。静かな雪が降る中、そこだけまわりの音がとおくに聞こえてくるようだった。
優しく静かに多く降るのに、地面におちればアスファルトに小さな水たまりをつくって
消えていく。
あわくて、はかない。姿をあらわしていられるのは、生まれてから地面におちてくる人にとっては、わずかな時間しかない。
「もう彼を愛せない。私には…」
アヤは、目の前にいる青年に淋しく微笑む。
視線をそらすと、遠くを見るように細める。
「人の壊し方はね、簡単で人はそれほどまでにもろいの。もろいからこそ強くもなれる」
なんともやりきれない表情を、彼女は浮かべる。誰かに必要とされる。そのことが、生きていくのには必要で、そのためならば人は強くなれる。 守るものがあるからこそ、強く激しい『力』になれるから」
「アヤ…何をしようとしているんだ?」
嫌な予感がして、青年は眉をひそめる。このもやもやした焦燥感はどこから、くるのか分からないがよくないと告げている。
「もう…決めたことだから。そのほうが、彼は幸せになれる」
「蓮」
「?」
「何があっても、彼を嫌いにはならないで」
今にも消えてしまいそうな声と、せつなげな視線を彼女は彼に向けた。白い雪が視界をおおい、達也の友人であった青年…蓮の目の前からは彼女が消えていた。
「……なるわけ、ないだろ」
のこされた蓮は、そう声を押し出すのがやっと。いろんな感情がうずまく中、それ以上言葉にだしていれば、たぶん、本心ではない感情が暴れられそうになるのをおさえられないから。とけた雪に濡れるのもかまわずに、そこに立ち尽くす。
2人ともいなくなってしまう。
そんないいようにない焦燥感と予感が、胸を痛ませる。こういう予感ほどあたるのだから、たちが悪い。手を強く握りしめるあまり、うっすらと血がにじみだす。かすかな痛みで、皮が破れたのだと気づく。ひどくぼんやりとする意識。人の声も。気配も。そのなにもかもが、遠くに感じた。独りになった錯覚におちいった。
赤紫色の髪の少年は、と白い雪を手ですくいあげた。
一瞬で水になりやがては、消えてしまう存在。はかないのに、美しい存在。人によって、その人の中にある価値観は変わる。
人の命が長いなんていうのは、どこか違っているのだろうか。蛍の命が短いと哀れむことは、どこかおこがましいのかもしれない。終わりは始まりがあったじてんで決められている。その間を懸命に生きる姿に、ただの同情じみた感情を抱くのではなくもっと違った感情があてはまるだろう。
永遠が欲しいのは、手にはいらないから。
大切な存在が去っていく。何人も何人も。記憶だけは生きつづけても、もう二度と同じ人には出会えない。わずかなチャンスなら、つかまなければもったいない。その永遠が苦しいものだとも知らない、
「彼に見えているのは、自分の心の闇と、彼女の存在だけか」
少年は、憂いをこめた瞳をそっと細める。その消えてしまう雪のあとをなぜるように、風が吹く。
「……決め付けて「事実」を「視よう」としていないから…」
グォーン!
獣うなり声が聞こえる。地鳴りもし始めて、地面がかすかにゆれる。何かにひきよせられるかのように、その音は少年の近くに来たと思った瞬間、目の前に黒い獣が立っていた。鋭い視線に射抜かれる。
『グルルル!』
敵意をしめすかのように口をあげ、鼻にしわをよせて威嚇する。近づく者を拒むのが目的のように。
「心が強ければ、無意味な言葉で傷つけるなんて行為はしない。内心にある焦燥感があせらせることもなく、ただ、自分をわかってほしいと押し付けるような言い方はしない。余裕がなくなると本当に望んでいる事とは逆のことをしたがる。たとえば、望んではいない『拒絶』を望むのか…『誰か』を傷つける前に、激しく苦しい感情を『殺したい』」
獣の耳が言葉に反応して動き、少年に襲いかかってくる。
かわされた爪が雪にくいこんで、動きにあわせて白い煙をつくった。むちゃくちゃに爪、牙できりさこうと動かしてきても、無駄のない動きで全部かわしていき、獣の後ろにまわりこむ。
「これで、終わりにしよう」
何か少年が小声で唱える。
獣を囲うように、淡い青色の魔方陣がうかびあがり、やがてその光は獣を縛る光の糸にかわり、動きがとれないほどしめあげてくる。
『グゥ!』
驚きに開かれた瞳は、何を見つけたかのように笑みのかたちに細められる。にやりをゆがめた口元から低い声が押し出される。
『ときが、みちた…』
何かをしめすように、空には黒い雲がたちこめて強い風が吹く。
【4】
ぶるっと黒い獣は身震いをする。
それだけで、おさえこんでいた糸がいとも簡単にぶつんと切られた。吹いてくる風は、だんだん強さをましてくる。漆黒の雲がたちこめて、昼間なのに夜のような暗さにつつまれる。
『これで、やっと…』
すっと細める獣の瞳には、周囲の姿は映っていない。満足そうにしている表情なのに、どこか悲しい表情を浮かべている。
空には、昼間だというのに赤く大きい満月が輝やいている。その赤い光に包まれて、獣の輪郭がゆっくりとくずれて別の姿になっていき人のように二本足で歩行する、獣の顔に獣の耳の「獣人」の姿に変わる。
『……。これが、「私」』
黒い獣は確かめるかのように、かるく手をにぎり足で地面を蹴る。にやりと口元をゆがめる。冷たい感情を感じさせない低い声が響く。
『初めまして…』
獣の瞳が、少年を捕らえる。
『父さん』
おとされた『力』に、『自我』が産まれた。そして、自分には他のものと違うというのに気づいた。身体がないのに、何もすることはできない。ココにいるのに、誰も存在には気づかない。
『彼』は独りなのだと、感じる。あるとき、彼はある『彼』を求めた青年と自分を差し出すかわりに、何度肉体が変わろうと記憶を『生き続ける』という契約をした。
その身に、生き続けていくしるしは深く優しい青い瞳。
カレは、彼を父と呼ぶ。最初にカレという存在に気付き、育てたのは彼だったからだ。「彼ら」は、カレを求めた。求めたのは、未熟さゆえ…だったのだろう。
目先の結果にばかり気をとられて、その途中にある代償には気付けずに失ってからカレを憎む者もいた。
最初から、彼は警告していたのに。その上で求めただろうに。必要とされたのは、カレ自身ではなく…彼の力だけ。そんな多くの彼らを彼は冷めた瞳で見続けてきた…。
「……体の持ち主はどうした?」
『あぁ、達也なら精神的に「死」んでる。その間に借りた』
不機嫌そうに、彼は眉をひそめて少年に視線を向ける。
「もう、終わりにしよう」
赤紫色の髪の少年は、小声でなにかいいながら手で何かの印をむすぶ。淡い青色の光の、何かの図形が浮かびあがる。
「 」
呼ばれた。やっと、本当の名前をあの少年が呼んでくれた…。今まで、傍にいたことはあっても呼んでくれたことなどなかったのに。優しくしてくれたあの女の人と貴方以外は、私の存在をちゃんとみようとしなかった。認めようともしなかった。ただ、私の力のみ。ただ、自分の欲のために、利用する。それだけのことしか見えていなかった。
獣は子供のような嬉しそうに、口元をゆがめて笑う。
暗い空に輝く赤い月が、一瞬くもる。目を細めて獣は視線を向けると、蓮に視線をもどして凍てつく瞳でいる。
『アレが、なにかわかる?』
獣は、ゆっくりと前にすすむ。
『アレはね、私をつくっている核。わかりやすくいえば、人間でいうところの「心臓」。本当の意味で「アレ」を壊せれば、私は意志をもたないただの力の塊にもどって…あの暗闇にもどされて何もできない』
「なんで、そんなことを話す?」
『壊せないから』
にやりと嫌みな笑みを浮かべて、あざけるような口調で言う。
「その前に、俺がお前を捕らえる」
赤紫色の髪の少年は、最後の異国の言葉のような呪文を唱え終わる。
淡い青い色の図形がひときわ大きく発光する。図形のかたちのままに、線が浮かび上がり獣を光の籠の中に捕らえた。本当の獣の名前を唱えようと、口をひらきかける。
『もう、遅いよ。父さん』
赤い月の光がくもっていたのが、今度はひびがはいり始めた。
竜牙は、ビルの外に見える赤い月を見る。
嫌な予感がする。眼鏡の奥にある瞳をするどくさせながら、少年は赤い月を睨む。
妖しい美しさ。危険で嫌なものだと感じるのに、その美しさから目をそらすことができない。
「今夜は、クリスマスイブだったのに」
「……そうだね」
奈津は、目を細める。
赤い月がなんなのか。自分の奥に流れる血がざわめくように騒ぐから、理解してしまう。アレはそのままにしておいていいものじゃない。
「星が完成するまで、あと一人」
頂点となるところをつなぐと、図形が完成する。それぞれの意味がつながり一つの意味になる。あと一人で、完成させてしまう前にとめないといけない。着信音が流れて携帯が震えて、見るとディスプレイに佐津季の文字が浮かぶ。
「……佐津季?」
『竜牙、今どこにいるの?』
「今バイト先」
答えながら、妙に彼女の声が震えているのに気づいた。
『なんか、怖いよ。あの赤い月…それと…黒い獣がしゃべっている』
「黒い獣?」
『うん。黒い獣と赤い髪で青い瞳の少年がいる』
「今どこにいる!?」
『竜牙のバイト先の近くの……』
ぷつん つー つー
いきなり、携帯の通話がきれた。画面を見れば、右端に赤い文字で圏外だと出ている。
かけなおしをしてみるまでもなく、つながらない。
「……ツ」
片目が痛い、いや、アツイ。
熱がこもってくるように、熱くなり、勝手に映像が流れていく。赤い月と、サクマと青い瞳の少年。 頭痛がひどい。 力を使うとかならず頭痛してくる、普段はおさえているのに。佐津季は、黒い獣と視線があってしまいあとずさる。その後に獣は彼女をつれてどこかに消えた。
「竜牙くん?」
見たくもない。そう思ったことは、何度もある。自分の意思とは関係なく視える力が嫌でたまらなかった。
片目は獣のような瞳孔の細い瞳に変わっている。
竜牙という名前は、親父がつけた名前だった。竜の牙。自分の奥には、自分ではない古の生き物の形をした力があるのを親父は分かっていたから、名前と腕に普段から見えすぎないように 呪をかけた。
「竜牙くん!?」
ドアを壊すような勢いで飛び出す。
人間の身体には、その力は強すぎてたえきれなくなるから短時間しか使うことはできない。それでも…。
『その「印」は、本当に必要なときしか現われない。一度、解けば苦痛が襲ってくるうえに姿もかわる』
竜牙の頭の中で親父の低い声が、流れてくる。
数年前、一人で部屋に呼ばれたときにさとすように言われた。その話された記憶すら、必要なときにしか出てこないようにロックをかけられていた。それほどに、簡単に完全な力を使うことはできない。使われてはいけないもの。
『代々古の伝説上の動物だといわれているものと魔力をもったものとの子の子孫。だいぶ血がうすまってきているが、家系に一人だけ特に力の強い子が生まれる。その子には、生まれたときから自分のものではない記憶を持って生まれてくるため忘れさせることにしている』
体が熱い。
喉が渇く。
右腕に、漆黒の竜の入れ墨がうかびあがり、どこの言葉とも分からない文字が竜を鎖のようにからみついていたが、魔法陣の複雑な幾何学模様になる。感覚がするどくなる。どこにむかえばいいのか、自然に分かる。胸騒ぎがひときわ大きい。
『その家系は、卯月家だけではない。過去に十二ヶ月のことを数字で呼ばずに別の名で
呼んでいた。その名のつく家系にはすべて流れていて…』
アレがいる場所は、ヤツが描いた血まみれの魔法陣のその中心に位置する場所。図形の中で一番、力が集める場所。そこに、いる…。
ビルを出て外に出ると、くろく重たい空がひろがっている。その中で赤い月がひときわ輝やいていた。
高校に向かって、彼は走り出す。
今までおこった事件をつないでその中心になる場所は…大泉南高校の近くにある神社。その神社の赤い鳥居の前に、彼女がいるのが「視える」。
『そのものたちは、かならず出会う。とめるために…』
「……ッツ」
『そのための方法も、使い方もアレが記憶が教えてくれる』
大量の映像となった記憶が、流れこんでくる。すべてが、流れ込んでおさまった頃には神社の前にたどりついた。
木に囲まれ影になっている闇が、濃さをましている。
その中、彼女は一人立っていたが、その表情は別人のように敵意にみちている。
『まさか…まだ、生きていたのか?』
低いその声は、黒い獣…黒竜の力といわれるものの声だった。
自分の中にいる、別の自分がカレの声を聞いて騒ぎだしているのが分かる。
カレとの契約で、記憶だけの存在で生き続けてきたアイツの意思が反応している。怒りだとか悲しみだとか、そんな感情はすでに捨ててきたらしい。激しい感情だけではなく、ただ冷静な感情だけでいる。 ひどく、懐かしい。
「えぇ、『生き続ける』のが条件でしたから」
自然と、自分の身体が何かに操作されているような感覚におちいる。 自分の身体のはずなのに、そうではないような…。不愉快そうに彼女は眉をひそめる。
「長い間、孤独でしたよね」
ざぁー
神社の木々が風にゆらされて、音がする。葉がすれあい、大きな波のように騒ぎ始めている。神社の赤い鳥居の奥にある社からは、何かの気配がしている。
『かるく言えるほどのものじゃ、ない』
「…そうですね」
目をかるくふせる。
目の前にいるのは、佐津季という「彼女」ではない。黒竜の力という、黒い獣のカレだった。ここではない、向こうの天上界にいたころからカレは孤独だった。
カレという存在を認めてくれた人は、「ルナ」以外はいなかった。
「ルナ」は、カレを助けるため。他のカレの力のみを狙う純血種の天使から、カレを守るために封印をした。封印を命じたのは、いわゆる人間からは「神」と呼ばれるくらいに純粋できれいな存在だった。
その神は、慈悲深く…その後に人界におりたと、竜牙の中にいる「記憶」は視せる。そして、その神は人間を愛し十二人の家系のものに「力」をあたえた。生まれた中でたった一人だけ、特に「力」の強いものが生まれるように。その力は、目にみえるものではなかった。心の強さとでもいうのだろうか。
「力」だけに依存しないからこそ、その神は「彼等」にあたえた。そして、もしも終焉のときが、契約のときがきたときには……。
「貴方が、ココを選んだのも。貴方にこうして会ったのも宿命だったのかもしれません」
『?』
「もう、終わりにしましょう」
『嫌だ。私は、生きる!』
睨むだけで、カレは切りつけてくる風をはなってくる。ぎりぎりで風をかわした。それを、後ろに立っていた少女が素手でつかみ投げ捨てる。
「貴女が、「根源の力」ね」
声がして振り向くと、少女は気配もなく後ろに立っていた。
茶色のショートカットの髪。年のわりにはおちついている声音と表情。ちらっと神社の奥を見て、目を細める。
「そこに、いるのね」
冷たい感情の読めない淡々とした口調で、陸は神社の一点の姿を見つめている。薄く輝く光につつまれたソレは若い女性のような容姿をしている。
長く伸ばした銀髪は膝までとどくほどで、整っている顔にある優しげな紫色の瞳を細める。
陸は、ゆっくりとその神社の社の前の岩の上に立っているかの人に歩いて近づいていき、前で立ち止まる。佐津季の中にはりこんでいる黒い獣には、かの人の姿はみえていない。彼女はゆっくりと口を開いた。
『…あわれな娘。自ら地獄を選ぶとは』
透明感のある中性的な声で話しかける。
「…そうかもしれない。でも、あのまま生きて狂っていくよりかはマシ。それも 、アレをココに堕としさえしなければこんな苦しみなんて味あわなかった」
『……』
痛みを感じたかのように眉をひそめる。アメジストのような瞳には、冷たい光を やどしている。
「理解できない、でしょうね」
陸は苦笑を浮かべ、黒い獣がはいりこんでいる佐津季に視線をうつす。
「キミは、最初からは生きていなかった。生きたかったのは、誰かにとって本当 に必要されたい。ただ、それだけ…」
『……』
黒い獣は、目を逸らす。
見たくないと感じていた。 これ以上、傷つけてしまえる心の闇から目を逸らし、耳をふさぎ現実なんて。冷めているようでいて、それでも生きることに執着している自分がいる。
死が怖い。生というということも知らない自分が、また、何もないあの場所には居たくない。
「君の居場所は、じゃココない。ソレは他人の身体」
強い意思を宿している瞳をまっすぐに向け、ゆっくり近づいていく。
「「……そこから、出てきなさい」」
『……』
かるく頷くと、淡い青い光が佐津季の身体を包み込んでいく。その光がなくなると、彼女の身体は糸がきられた人形のようにくずれる。竜牙は、走りこみ抱きとめた。
その視線の先には、子犬の姿をした黒い獣が、震えながら立っていた。
「本当の君は、そんなに小さいのね」
陸は、冷めた目で子犬の姿をしている黒い獣を見下ろす。震えながら見返す赤い瞳は、感情をともしていなくて冷たい。ついっと赤い月を指差す。
「アレは、君だよね。でも、君の感情じゃない」
大きく黒い獣は身体を震わせる。
「なんでそんなに暗いものしか写してないの?」
『……』
黙って黒い獣は、睨みつけてくる。
信じたいのに、信じられない。本当に心が望むことから目をそらして、耳をふさいで心をふさぐ。そんな瞳をしている。
「ごめん、君はココが居場所じゃない」
感情を殺した表情で、足音を立てて近づくとあと一歩のところで立ち止まる。
「 」
短く何かを言うと、黒い獣は陸に飛びかかった。
しんしんと白い雪が舞い降りる。
神社の石段の下にむかって、少年は歩いている。
つもった雪を踏みしめると音がして、真っ白だったところに自分の足音が残っていく。碧い瞳をふせ、赤紫色の髪の少年はある人物の前で立ち止まった。
視線の先にいる赤い髪を長く伸ばしている、琥珀色の瞳をしている青年は傘もささずにコートも着ないで立っていた。赤い髪の青年は、黒いスーツのズボンのポケットに手を入れるとゆっくりと少年に視線を向ける。
「久しぶり、杳」
「傘ぐらいさせよ、櫂」
苦笑を浮かべて少年は、手でスーツにつもった雪をはらいおとす。
「……さす気に、なれなかった。こままでいたら、自分の嫌なものすべておとしてくれる気がしてな」
青年の左の頬にある二本の傷が、風にふかれて見えた。
「私を、殺したいか?」
櫂は悲しい瞳で、少年を見る。少年は苦笑を浮かべる。
「あぁ」
何もしないで、受け入れるという穏やかな表情を浮かべた櫂の肩に手をのせる。
「お前の、その、罪悪感をコロシたい」
「え?」
「櫂、実は……」
話された事実の内容に、櫂は動揺する。
「信じられなくてもいい。櫂、お前が自分を攻め続けたら傷つける相手がいる。自分を守るということは、相手を守ることだから。最後に、お前にソレを伝えたかった」
「最後?」
「あぁ」
憎しみは、憎しみをつなげていく鎖になった。憎い相手に向けてつきたてた刃は、己の身体を深くつらぬく。暗い感情しかみてこなかったのではなく、みれなかった。
すぐ近くにある。いや、近くにあるようで遠い。あたりが暗すぎて、周りにある光に気が付くこともなくて、自分がなぜうえて苦しいのか。その理由もわからずに、多くの人の願いと感情をきいて生きてきたその子犬は、その鎖をたちきるたった一言すらあえてもらえてなかったのだろうか。
とびかかった黒い獣は、陸に思いきりかみつこうと大きく口をあける。陸は、冷静にそれ見てあえて何もせずに、目を閉じる。
生々しい嫌な水音が響く。
肩口あたりからは血が流れて続けていて、獣はびくっと身体を震わせ信じられないというように瞳を見開いた。
『…な、なにを…考えている?』
ふっと口元を歪ませると、そのまま何かの呪文を小声で唱えている。あたりに淡く赤い魔法陣が浮かび上がり、そのまま二人を包み込む。何かに気づいたのか、はっと赤い月を獣は見あげる。
赤い月がもう少しで完全にわれる。赤い月が完全に壊れてしまったら、もう「自我」を保てない。
「君をかえす」
『な!』
ピシッ
完全にわれた音がする。
何かが一つ消えた。そんな印象をなぜかうけてしまう。陸は、じっと獣をみすえる。
「アレを壊すには、物理的攻撃は無理ね。なら、心でアレを壊すしかない。だからその間は、貴方の気をこちらにそらす必要があったの」
『な、なんで…他人のためにそこまで』
「それは、貴方が最初に借りた人を、あの人が愛していたから」
パリーン
カケラになった赤い月が地上に降り注ぐ。
実体ではないその赤いカケラは、半透明のままアクリルのような透明さであらゆるものをすりぬけて消えていっていく。
「自我」を失った獣は、丸い球体になって上に上っていく。神社の階段の一番上にのぼりその様子を見ていた赤紫色の髪の少年は、櫂に視線を向ける。寂しさを感じさせるように笑みを浮かべた。
「これで、やっと、私は向こうに帰れる。お別れだ、櫂」
光がまっすぐにのびてきて、その光の道を歩き始める。
「やっと、赦されたのかな。私は」
苦笑を浮かべ、彼は球体になったその力とともに光の道を歩いていく、背中に向かって明るい表情を浮かべた櫂がため息をかるく吐く。
「赦されているよ、『ルナ』」
「今は赦せない、けど、いつかは…」
肩口から血が流れ出る傷口を、片手でおさえて陸は彼を冷たい視線で一瞥する。そのまま彼女は、振り返らずに神社の階段を降りていく。
「そうですね」
『だから、おもしろい。人は』
女性の姿をした神は、苦笑を浮かべる。
『可能性にみちている。ひどくすさんだ感情をもっていようと、暗闇だと感じてもそこから這い上がってくる。きれいごとじゃなくても、その中で生まれる「人生」という「ドラマ」は複雑に感情がからまっていくからこそ、面白い』
「……貴女は、昔からそうだ」
笑ってそう言い、気が付いた佐津季がうっすらと目をさます。自分の足でたつと、しっかりとあの方に視線を向ける。
「竜…牙?あれ、このヒトは……もしかして竜牙、このヒトと浮気していたんじゃ…」
これには、神も竜牙も思い切りふきだしてしまう。
「違うから…」
どこからどう話せばいいだろうか。
空は、曇りから青空にかわっている。